第44話:問いかける者
一行が〈天使の零落〉の第2層を進み始めて、まもなく7日が経とうとしていた。
この異形の地に足を踏み入れた当初は、誰もが警戒心を研ぎ澄ませていたが、拍子抜けするほどに静寂な日々が続いていた。
魔物の影すら見えず、罠もなく、ただひたすらに、黒く沈んだ大地を踏みしめて進むだけの日々。
緊張は次第に倦怠へと変わり、仲間たちの間にも微かな疲労と疑念が滲み始めていた。
黒い結晶が林立する森の中、漆黒の地面に4つのテントが慎ましく並んでいる。
その中心、風に揺れる銀糸のような髪をたなびかせ、メグーが静かに腰を下ろしていた。
彼女の横顔は、どこか人間離れした神秘性を帯び、まるでこの異界の風景に溶け込んでいるかのようだった。
「何か、拍子抜けしちゃうわね」
ぽつりと呟いたその声は、年齢に似つかわしくない冷静さと、ほんのわずかな苛立ちを孕んでいた。
彼女の視線の先、天井には逆さに生えた黒い結晶が無数に広がっている。
まるで夜空に浮かぶ星々のように、光を反射して鈍く輝き、幻想的な美しさを放っていた。
だが、その美しさの裏に潜む不穏な静けさが、彼女の胸に小さな棘のような違和感を残していた。
「無事に進めることは良いことだろう」
低く落ち着いた声が背後から響く。
ミリアリアが音もなく現れ、メグーの隣に腰を下ろした。
その姿はまるで絵画から抜け出したかのようで、金色の髪が結晶の光を受けて柔らかく輝き、蒼い瞳は深海のように静かで底知れなかった。
「……で、話とは何だ?」
ミリアリアの問いに、メグーは一瞬だけ視線を落とし、そして静かに口を開いた。
「お母さんは納得しているし、信じているから、ぶり返すことはしたくないのだけれど」
メグーはそこで一拍置いた。
「サキュウスとの話か」
「それもあるわ」
「それも?」
ミリアリアの眉がわずかに動く。
「……どうして、オーグとミリアリアは黒鏡石に映らないのかしら?」
メグーの指先が、目の前の黒鏡石を指し示す。
その漆黒の鏡面には、彼女自身の姿だけが映っていた。
まるで他の存在がこの世界に存在していないかのように。
「その話をするために、見張りをケビンと代わったのだな」
ミリアリアの声に、とがめる色はなかった。
「ええ、そうね。2人が黒鏡石に映らない理由と、聖剣が敵と認めた理由、関係あるんじゃない?」
「そう思う理由はなんだ?」
「勘、かしらね」
メグーはあっさりと言い切った。
「ふ、勘か」
「ええ、勘よ」
ミリアリアはふと空を仰いだ。
その瞳には、遥か昔の記憶が揺れていた。
言葉にはされないが、そこに宿る哀しみと決意の色に、メグーは思わず息を呑む。
まるでその瞳に吸い込まれそうな錯覚を覚えた。
「……ミリアリア、話して」
「何をだ?」
「どうして、勇者になんかに、ミリアリアは狙われているの?」
メグーの声には、普段の冷静さとは異なる熱があった。
その奥には、アニーを守りたいという強い意志と、理解できない現実への戸惑いが渦巻いていた。
「……踏み込んだ質問だな。メグー」
ミリアリアの声は穏やかだったが、どこか試すような静けさがあった。
「私にはお母さんを守る義務があるわ」
「義務……か。それも、我にとっては不可解にならないがな」
その言葉に、メグーは眉をひそめた。
「不可解?」
「メグーは、なぜ、アニーを母と慕う」
静かな問いが、空気に溶けるように落ちた。
「そ、それは……自分でもわからないわ」
その言葉に、メグーの声がわずかに震えた。
彼女の中にある確かな感情と、それを説明できないもどかしさが、表情に影を落とす。
「……そうか。ならば、我も話せんな」
「私は……分からないだけよ。でも、ミリアリアは知っていて、答えないんでしょ?」
「ふむ。メグーよ、お主達のことは仲間だと思っている。だが、仲間だからと、何でもかんでも話せるということにはならん」
ミリアリアはそう言いながら、少しだけ視線を落とした。
声は静かで、揺れてはいなかった。
だが、その一瞬だけ、何か重いものを飲み込んだような間があった。
「それは……そうね」
「うむ」
しばしの沈黙が流れる。
黒い結晶が風に微かに鳴き、獣の声のように響いた。
「……ミリアリア」
「なんだ?」
「これだけは……ちゃんと答えて」
「……わかった」
「お母さんに、危害を加えるようなことはしない?」
その問いは、まるで刃のように鋭く、真っ直ぐだった。
ミリアリアは一瞬だけ目を細め、そして静かに頷いた。
「うむ。アニーに危害を加えるような真似はしない。約束しよう」
「……そう。話を蒸し返してごめんなさい」
メグーは立ち上がる。
銀の髪がふわりと舞い、彼女の背中を包むように揺れた。
「良いのか?」
「ええ、お母さんに危害がないなら、ミリアリアが何を企んでいても構わないわ」
「そうか」
その言葉には、子供らしからぬ覚悟と、母への深い愛情が滲んでいた。
メグーは迷いなくアニーの待つテントへと歩み去る。
「ふむ」
残されたミリアリアは、再び空を見上げた。
黒い結晶の天井に映るのは、彼女の姿なき影。
その瞳に浮かぶのは、誰にも語られぬ過去の断片か、それとも未来への決意か──。
──そんな時だ。
誰かが倒れるような音が響く。
「ミリアリア!?」
メグーの声が周囲に響き渡ると、ミリアリアは倒れたのが自分であることを自覚する。
慌てて起きあがろうとするのだが、体が言うことを聞かない。
「誰か!?ミリアリアが!!」
仲間を心配させてはいけないと、意識を強く保とうとする。
しかし、抗う間もなく、彼女の意識は虚空の果てへと吸い込まれていた。




