第41話:漆黒の結晶に映る影
湖の果てに、黒々とした巨大な壁がそびえ立っていた。
空を覆うほどのその壁は、まるで世界の終焉を告げるかのような威圧感を放っている。
壁の中央に、ぽつんとひとつの扉があった。
だが「ぽつり」という表現が滑稽に思えるほど、それは巨人のために造られたかのように巨大で、見る者の心を圧倒した。
「ここから先は魔力圏外だ。メグーよ、お主は迂闊に魔法を使うな。よいか?」
ミリアリアさんの声は、静かにして重く、まるで時を超えて響く鐘の音のようだった。
「ええ、分かっているわ」
メグーちゃんは無表情のまま頷いた。銀の髪が揺れ、蒼白の光を反射する。
幼い顔立ちに似合わぬ冷静さが、その言葉に確かな重みを与えていた。
「うむ」
ミリアリアさんは満足げに頷き、視線を前方の扉へと戻す。
その背中には、嵐をも制する海賊の威厳が宿っていた。
本来、魔力圏外を進むには、マナステーションを設置しながら徐々に領域を広げていくのが常道だ。
しかし、私たちの目的は違う。
人類の領域を広げることではなく、遥か彼方、最深部に眠るとされる”七十二体目の龍”の存在を確かめること──それがこの旅の真の目的だった。
そのための切り札が、コンテクストマジックの使い手・メグーちゃん。
彼女は食事によって魔力を摂取し、自らがマナステーションの代替となる稀有な存在だった。
「メグーさんが魔法を使うとどうなるんですか?」
ケビンさんの声は震えていた。
その細い肩がわずかに揺れ、視線はメグーちゃんの背中に釘付けになっている。
「多少は問題なかろう」
「そうなんですね」
「なぁに、ホッとしてんだァ、メグーの魔力が尽きれば、俺達がカラッカラになって死ぬぜェ」
オーグさんが豪快に笑いながら言い放つと、ケビンさんの顔が青ざめた。
「えぇぇぇ!!」
笑い飛ばされたが、本当のことだ、と私は思った。
2層に入ったなら、メグーちゃんの魔力を守ることが最優先になる。
胸の奥で、緊張の糸がもう一段、引き絞られた。
船が黒い扉をくぐると、周囲の空気が一変する。
淡い赤の光が水面に反射し、洞窟の壁を妖しく照らしていた。
まるで夢と現実の狭間に迷い込んだかのような幻想的な空間。
陸地に着くと、私はその美しさに目を奪われながらも、そっと口を開いた。
「……スイスイ、ありがとう」
その声はかすかに震えていたが、確かな感謝が込められていた。
水龍は名残惜しそうに「シュルルルル!」と鳴き、静かに水中へと姿を消した。
「行くぞ……いよいよ、第2層だ」
ミリアリアさんの声に、一行の緊張が高まる。
「第2層ってどんなところなんですか?」
ケビンさんの問いに、オーグさんがニヤリと笑う。
「おう。人の心を惑わせてくるらしいぜェ」
「うむ。心してかかるぞ」
洞窟の先に、かすかな光が見え始める。
やがて一行は外へと踏み出し、目の前に広がる光景に息を呑んだ。
天井から地面にかけて、無数の黒い結晶が生い茂っている。
まるで漆黒の森。結晶のひとつに顔を近づけると、そこには自分自身の姿が映っていた。
だが、その瞳と目が合った瞬間、胸の奥が締めつけられる。
まるで魂が引きずり出されるような感覚。
心の奥底を覗かれているような錯覚に、背筋が凍りつく。
「迂闊に覗くな」
「は、はい!」
ミリアリアさんの手が私の肩に触れた瞬間、私はビクリと震え、小さく声を漏らした。
前髪の奥で、瞳が怯えに揺れていた。
「こりゃ、すげェ密度の黒鏡石だな」
オーグさんが腕を組み、唸るように言った。
「黒鏡石ですか?」
ケビンさんが恐る恐る問い返す。
「おう。こいつがマナステーションの原材料だ。だが、こいつは周囲にマナを散布する性質があるんだがァ」
「こ、これが……マナステーションになるんですね」
ケビンは目を見開き、周囲の結晶を見渡した。
彼の胸には、故郷の村の姿が浮かんでいた。
マナステーションがあれば、あの村も救えるかもしれない──その希望が、彼の心に小さな炎を灯していた。
「ここ、魔力圏外だよなァ?」
オーグさんの視線がミリアリアさんに向けられる。彼女は静かに頷いた。
「ああ。確かに……メグーがいるからわかりにくいが、魔力圏外で間違いない」
「じゃぁ、こいつらァは、黒鏡石じゃねェってことか?」
オーグさんの眉間に皺が寄る。
常識が通じないこの空間に、彼の本能が警鐘を鳴らしていた。
「ねぇ、立ち話している時間あるの?」
メグーちゃんが苛立ちを隠さずに言い放つ。
銀の瞳が冷たく光り、空気が一瞬、張り詰めた。
「黒鏡石かどうかなんて、重要かしら?」
「メグーよ、お主の言葉にも一理あるが、どうやら天使の零落の2層では、こやつらが自然と言えるだろう。海では水、森では動植物のことを考えるように、ここでは黒鏡石のことを考える必要があるのではないか?」
「ふーん。でも、考えてわかることなのかしらね」
「ふむ」
ミリアリアは静かに頷いた。
彼女の蒼い瞳は、結晶の奥に潜む何かを見据えているようだった。
「ケ、ケビンさん」
「は、はい!?」
私に名前を呼ばれたケビンさんは、驚きのあまり跳ねるように返事をした。
私の声は小さく、震えていたが、確かな意志が感じられた。
「あの、黒鏡石にスキル、使えます、か?」
「えっと、ごめんなさい。ダメそうです」
ケビンは申し訳なさそうに眉を下げ、黒鏡石に視線を落とした。
彼の手はわずかに震えている。
スキルを試そうとしたが、まるで石が彼の魔力を拒んでいるかのように、何の反応も返ってこなかった。
私はそっと結晶の表面に触れてみた。
冷たい。だが、指先にかすかに吸い付くような感覚がある。
(植物が根で養分を吸い上げるように──この石は、触れたものの魔力を引き寄せている。生き物に近い動きだ)
採取できるかもしれない。
でも今は先を急ぐ必要がある。
メグーちゃんの魔力を消耗させてはいけない。
確かめるなら後回しにするしかない。
頭の片隅に留めておこう。
「ねぇ、お母さん」
メグーちゃんが、無垢な声で私に問いかける。
その声音には、子供らしい無邪気さと、どこか冷ややかな皮肉が混じっていた。
「メグーちゃん?」
「こんな石を私に食べさせるつもり?」
その言葉に、私は顔を真っ赤にして、慌てて手を振った。
前髪の奥の目元が、狼狽と戸惑いで揺れる。
「そ、そんな意味じゃ……ケビンさんのスキルで、これが黒鏡石か確認できれば、と思って」
「そういうことね」
メグーちゃんは小さく頷いた。
私のスキルは、生き物に近い性質のものを扱う。黒鏡石がもし採取できるなら、何かに使えるかもしれない──そんな考えが、頭の奥に静かに残っていた。
そんな葛藤をよそに、ミリアリアさんが一歩前に出る。
蒼い瞳が周囲を鋭く見渡し、静かに口を開いた。
「……黒鏡石に触れぬように進むぞ。先を急ごう。異変を感じた者はすぐに知らせることだ。それが気のせいかどうかは後で考えれば良い。異変を知らせることに気おくれするな」
「はい!」
一行の声が重なり、結晶の森に反響する。
だが、その声すらも、どこか吸い込まれていくような錯覚を覚える。
まるでこの地そのものが、生きているかのように。
私はそっと胸元を押さえた。
鼓動が速い。
けれど、誰にも気づかれないように、そっと息を整える。
恐怖と、それでも進もうとする小さな勇気がせめぎ合っていた。




