第36話:蒼き瞳と聖なる狂気
時は僅かに遡る。
果てしなく広がる湖は世界の音を飲み込み、静まり返っていた。
紅に染まっていた天井はいつしか蒼く澄んでいた。
鏡のような水面は揺らぎなく蒼穹を映し、天井と湖面の境界を曖昧にしていた。
まるで空が湖へ落ちたのか、湖が空へ溶けたのか。
錯覚めいた静謐が辺りを満たしていた。
水面を優雅に滑空する一体のグリフォンがいた。
甲板の上からその姿を見つめるのは金色の髪を風に揺らす一人の女、ミリアリアだった。
海賊帽の影の下、蒼い瞳に安堵が宿っている。
しかしその安堵は、どこか浅かった。
「ふむ……水の精霊も、ようやく沈黙したか。骨の折れる戦であったな……」
その声音は老成と気品を帯び、白磁の肌が赤い光に淡く輝いていた。
だが背後から低く冷やかな声が響き、静寂が破られた。
「策が、奏功したな」
低く、静かに。まるで独り言のようにサキュウスは呟いた。
「命を賭してお前たちを隔離し、私に機会を与えたのだ」
振り返ると、そこに立っていたのはかつての盟友、今は敵となった男、サキュウスだった。
「サキュウス……貴様……!」
「久しいな、ミリアリア」
その笑みは誓いを踏みにじる者のものだった。
聖騎士の鎧に包まれた姿は威風堂々としているが、瞳の奥には焦燥と執念が渦巻いていた。
ミリアリアが剣に手をかけようとしたその瞬間──
「おらァ!」
紅の巨影が空から降り注いだ。
オーグだ。赤銅の肌が陽光を弾き、拳を振りかざしてサキュウスに襲いかかる。
一拍、間があった。
「背後から襲い掛かるのに、叫び声をあげてどうする」
サキュウスは冷静に呟き、片腕を軽く掲げた。
オーグの拳はその手に受け止められ、衝撃で甲板に突風が巻き起こり帆がはためいた。
「姉御ッ!逃げろォ!」
「どこに逃げろと言うのだ……この狭き甲板の上で、逃げ場などあるまい」
ミリアリアは静かに、しかし確固たる意志を込めて呟き、腰の剣を抜いた。
銀の刃が陽光を受けて煌めき、彼女の気高さを際立たせる。
「しかし、水の精霊を倒すとはな。お前らを少し侮っていた」
サキュウスの声にはわずかな賞賛と、それを上回る怒りが滲んでいた。
「けっ!アニキにビビリまくっていたくせによォ!」
オーグが鼻を鳴らして挑発する。
「ビ……ビビる……だとぉ?オーグ!!!この私が!!いつ!!臆したと言うのだ!!!」
サキュウスは逆鱗に触れたように激昂し、腰の剣を抜いた。
その瞬間、空気が震え世界が軋むような音が響いた。
天地に裂け目が走るような錯覚が生じる。
彼の剣は淡い光を放ち、聖なる力と狂気が混じる異様な気配を漂わせた。
ミリアリアはその光景を見据え、静かに息を吐いた。
「我が聖剣の前に、貴様らは脅威を感じている。この言葉の意味、わからぬわけではないな。ミリアリアとオーグよ」
「……けっ!俺は聖剣なんてもん、もう信じちゃいねェ」
「……貴様の執念には辟易しておった。行く手を阻むならば容赦はせんぞ」
甲板を吹き抜ける風が、戦の狼煙を告げるように唸りを上げた。
サキュウスの剣が放つ淡い光は、まるで神の審判のように空気を裂き、甲板の木材すら軋ませる。
彼の足元から放たれる気迫は、まるで聖域そのものが歩いているかのようだった。
「来い、ミリアリア。今日こそ!貴様を我が聖剣の錆にしてくれる!!」
ミリアリアの剣が閃き、蒼い光の軌跡を描いてサキュウスへと迫る。
彼女の動きは優雅でありながら、鋭く、まるで舞う蝶が突如として毒を放つような変化を見せた。
だが──
「遅い」
サキュウスの剣が一閃。
ミリアリアの剣と激突し、火花が散る。
衝撃で甲板が軋み、二人の間に風圧が生まれる。
「チッ、やっぱり強ぇな……!」
オーグが唸りながら、再び拳を握りしめる。
彼の筋肉が隆起し、赤い肌が熱を帯びていく。
次の瞬間、彼は地を蹴り、サキュウスの背後へと回り込んだ。
「今度は黙って殴ってやるぜェ!!」
無言のまま拳を振り下ろすオーグ。
その拳は空気を裂き、雷鳴のような音を立ててサキュウスの背を狙う。
だが、サキュウスは振り返ることなく、剣を背後に振るった。
「無謀だな」
金属と肉のぶつかる音。
オーグの拳は剣に阻まれる。
そして、オーグの腹部をサキュウスの蹴りが舞うと血が飛び散る。
だが、オーグは怯まない。
むしろ、口元を吊り上げて笑った。
「痛ぇな……だが、効いてねぇ!」
そのまま剣を押し返し、膝蹴りを繰り出す。
サキュウスはそれを受け流しつつ、ミリアリアの斬撃を横目で捉え、身を翻してかわす。
三者の動きが交錯する。
剣戟の音、拳の衝突、風の唸り、そして怒号が入り混じる。
甲板はもはや戦場と化していた。
木片が飛び、帆は裂け、空は怒りを映したかのように黒雲を孕み始めていた。
「うらァァ!!」
オーグが咆哮と共に地を蹴る。
拳が空気を裂きサキュウスの胸元を狙う。
「甘い」
サキュウスの剣が一閃し、刃が拳をかすめて火花が散る。
オーグは痛みに笑いを浮かべながら踏み込み、さらに拳を振るう。
「てめぇの正義なんざ、俺の拳でぶっ壊してやるッ!!」
「ならば、その拳ごと断ち切るまでだ」
サキュウスの剣が唸りを上げる。
だがその瞬間、蒼い閃光が割って入った。
「サキュウス!!」
ミリアリアの剣が風のように舞い、サキュウスの剣を弾いた。
しかし、彼の聖剣から放たれた光刃はミリアリアに無傷を許さない。
聖剣は主の感情に共鳴する──そういう性質があると、かつてサキュウス自身が語っていた。
今の剣は、まさにそれだった。執念と焦燥を帯びているかのようだった。
「ミリアリア……なぜだ。なぜ!!希望を灯し、神に認められていたほどの貴様が!!」
「サキュウス……お主は変わらず、過去に囚われておる」
「囚われておるのは貴様だ!」
ミリアリアの剣が舞踏のようにサキュウスを翻弄する。
オーグが隙を突いて背後から足を狙う。
サキュウスは剣を振り払いオーグを吹き飛ばすと、光が炸裂し甲板全体が白く染まった。
閃光が炸裂し、ミリアリアとオーグは吹き飛ばされ船体が軋んだ。




