第34話:水面を駆ける者たち
「アニー!」
甲板に立つミリアリアさんの金髪が風に舞い、叫びが波間に響いた。
その声は切迫と焦燥、そして抑えきれない不安に満ちていた。
空中で、私を背に乗せたグリーは水の精霊の鋭い水刃を紙一重でかわしていた。
水飛沫が陽光を反射して虹を描き、命の綱渡りを皮肉に彩っていた。
「ちょっと!ミリアリア!このままじゃ!!お母さんがやられちゃう!!」
銀髪を靡かせ、メグーちゃんがミリアリアさんに詰め寄る。
その瞳は揺れ、焦燥と怒りが混じっていた。
視線は空を舞う私に釘付けで、今にも駆け出しそうだ。
「お母さん……」
「っ……」
私とグリーは、水の精霊を船から引き離していた。
だがそれは同時に、仲間たちの支援の射程から外れていることを意味した。
(そうか──船を動かすには精霊を退けなければならない。精霊を退けるには私を助けなければならない。でも私を助けに来れば船を動かす機会が遠のく)
その矛盾が皆の胸を締めつけていた。
「……ただ、眺めていることしかできぬのか」
ミリアリアさんは唇を噛み、白い拳を震わせる。
その横顔には船長としての責任と、仲間を救えぬ無力さが交錯していた。
その時──
「あ、あの!!」
地味な服装のケビンさんが声を裏返しながら叫んだ。
「水の精霊にスキルが使えます!」
その言葉に、メグーちゃんの顔がぱっと明るくなる。
「本当!?」
「は、はい!アイテム名は『水精のジュレ・ドーム仕立て』『水精の氷結カルパッチョ』『水精の蒸し雲丹と氷花の吸い物』の三種から選べます!」
「どれでもよい!」
「ケビンさん!早くして!」
「あ、はい!」
ケビンさんは慌ててスキルを発動しようとするが──
「だ、ダメです!!!どれもアニーさんの許可が要ります!!」
「なんで!?」
「ア、アニーさんの農民スキルで素材化した食材だからです!許可なしには使えなくて!!」
その瞬間、ミリアリアさんの瞳が見開かれ、声が鋭く空を裂いた。
「アニー!!戻ってこい!!!」
だが、彼女の声は届かない。
私は今も精霊の猛攻を必死にかわし続けていた。
「ミリアリア!」
「メグー?」
「私とケビンさんで!お母さんに近寄るわ!」
「馬鹿を言うな!どうするつもりだ!?」
「……水に……私達は沈まない!歩ける!」
メグーちゃんは確信を込めて言い切った。
その瞳には迷いの欠片もない。
「な、いや……待て!!」
ミリアリアさんが咄嗟に手を伸ばす。
しかしその指先は、メグーちゃんに届く前に空を切った。
「何!?」
「ならば、船を縛り付ける水の鎖を解き放つことはできぬのか!?」
苦し紛れの問いに、メグーちゃんは即座に首を振った。
「それは無理!!」
「なぜだ!?」
「……今の体内の魔力じゃダメ!あいつの支配を受けていない水なら……魔力が持つはず!時間がない!!行くわ」
その言葉と共に、メグーちゃんとケビンさんの身体から淡い水色の光が立ち上る。
まるで水そのものに祝福されたかのように、彼らの存在が水と調和し始める。
自然に、静かに水と調和していくその様子に、ミリアリアさんは言葉を失った。
その隙に、メグーちゃんはケビンさんの腕を掴み、軽やかに跳躍した。
「おわ!!」
「ほら!行くわよ!!」
「ちょ、ちょ!!ちょぉおおお!!!」
「待たんか!!メグー!!」
ミリアリアさんの制止を振り切って、二人は船上から水面へと落ちていった。
ミリアリアさんは思わず身を乗り出すが、その手は空を掴むだけだった。
「メグー!!!」
だが次の瞬間、奇跡が起きる。
水面に触れた二人の足が沈まない。
まるで大地を踏みしめるかのように、しっかりと立っていた。
「う……うん?あれ?」
「ほら!!いくわよ!!」
「え、あ!!はい!!」
メグーちゃんとケビンさんは水面を駆け出す。
その姿は神話の英雄のようだった。
「お母さん!!!」
──来てくれた。
私はグリーの背から下を覗いた。
精霊の注意がメグーちゃんとケビンさんに向いている。
ずっとその隙を待っていた。今だ。
そこには銀髪をなびかせるメグーちゃんと、必死に走るケビンさんの姿があった。
『……やはり、水を直接、質を操るか。だが構わぬ。水よ、その性を戻せ』
水の精霊の声が空気を震わせる。
しかし精霊の声に水は耳を貸さない。
『……ぜ、沈………のだ……水よ……我の命……従え……』
精霊の視線は水面を走る二人に釘付けである。
その声には明らかな動揺が滲んでいた。
『水が言うことを聞かない。なぜだ、ダメだ、私よりも権限が……馬鹿な』
精霊の輪郭が滲んだ。
透明な身体の端が揺らぎ、形を保とうとするように震える。
水の力が精霊の意志に応えるのをやめていく、その過程が、目に見えるようだった。
自分の一部だった水に裏切られていくような、その苦しさが伝わってきた。
精霊の姿が揺らぎ、両手で頭を抱え、苦悩するように体を揺らし始める。
その隙を、メグーちゃんとケビンさんは見逃さなかった。
「お母さん!!!許可して!!」
「許可……」
「アニーさん!!お願いします!!」
メグーちゃんとケビンさんの叫びに、私は即座に意図を理解し、ケビンさんに向かって叫んだ。
その対象である水の精霊はぶつぶつと呟き続け、まるで放心状態だった。チャンスはまさに今だ。
「許可します!!!」
「はい!!」
『まさ………グ様……狙……は……』
次の瞬間、水の精霊のつぶやきが途切れ、その全身が白煙に包まれると、軽い音とともに空中に水色の杯が現れた。
その上には、ぷるぷると揺れるドーム状の物体──まるで宝石のように美しい料理が乗っていた。
杯はゆっくりと宙を舞い、メグーちゃんの小さな両手にすっぽりと収まる。
ほっと胸を撫で下ろしかけて、けれど私の耳の奥には、消える間際の精霊のつぶやきがこびりついて離れなかった。
(『まさ……グ様』──あれは、誰のことだったんだろう)
水面に広がっていた波紋が、いつの間にか凪いでいる。
その静けさが、なぜだか祝福ではなく、別の何かが息を潜めているように感じられた。




