第28話:怨念の海を越えて
霧に包まれ、私とメグーちゃん、ケビンさんの三人だけが取り残されていた。
心細さが胸を締めつける。
ミリアリアさんやオーグさんの姿が見えないことが、この霧がただの自然現象ではないことを示していた。
霧の奥からかすかなすすり泣きが聞こえた。
風はなく、白い靄がゆっくり渦を巻き、足元に冷気がまとわりついた。
まるで見えない誰かに触れられているようだった。
この状況を打開するにはケビンさんのスキルに頼るしかない。
だがメグーちゃんは頑なに拒んでいた。
「スキルで幽霊をアイテム化できます。不要なら海に捨てても構いません」
ケビンさんの提案に、メグーちゃんは眉をひそめた。
「何だか、それは嫌だ」
銀髪の彼女の瞳には冷静さの奥に強い意志が宿っていた。
命を軽んじる行為への拒絶が言葉の端々に滲んでいる。
私も同じ思いだった。
その時、霧の奥から低い唸り声が響いた。
白い靄の中にぼんやりと人影が浮かんだ。
輪郭は揺らぎ、顔は判別できない。
ただ、こちらを見ている気配だけが鋭く突き刺さった。
「危ない!!!」
ケビンさんの叫びと同時に、強く突き飛ばされ、地面に倒れ込んだ。
ケビンさんが覆いかぶさった。
霧の中から伸びた黒い影の腕が、彼の背を切り裂いたのだ。
次の瞬間に、何が起きたか理解できた。
声が出なかった。
「ケビンさん!?ケビンさん!!」
苦痛に顔を歪めながらも彼は私を気遣った。
胸が締めつけられる。
「ど、どうして、私を庇って、こんな……」
「アニーさんがいなければ僕は一人で死んでいたかもしれない、恩を……」
その言葉に胸が熱くなった。
だが次の瞬間、彼の表情が変わった。
「あれ……痛くない?」
ケビンさんはスッと立ち上がった。
血に染まった衣服はそのままだが、出血は止まっていた。
彼が背中に手を回した瞬間、霧がざわりと揺れた。
まるで獲物を取り逃した幽霊が苛立っているようだった。
(なぜ? 傷が……)
考えている場合ではなかった。
後で考えよう──と頭の片隅に押し込んで、今は前を向く。
「気を緩めない!」
メグーちゃんが彼の首根っこを掴み、床に押し倒す。
直後、黒い影が頭上を鋭く通り抜け、空気が裂ける音がした。
「さすがに今の私でも、死んだ人を蘇らせることはできないわ。驚異のただ中にいること、忘れないで!」
メグーちゃんの怒声に、ケビンさんはしゅんと肩を落とした。
霧の中で複数の影が揺れ、すすり泣きが笑い声に変わり、耳元で囁くような気配がした。
「メグーちゃん、幽霊を黙らせる方法、ありそう!?」
「何が有効か……分からない」
「幽霊は火が苦手って聞きます」
「火?」
「……僕は、火魔法が使えないです。メグーさんは?」
メグーちゃんは迷いの表情を浮かべた。
ケビンさんの前で、コンテクストマジックを使うことを躊躇っているようだ。
やがて決意を固めるように言った。
「仕方ないわね。燃えろ!!」
詠唱も魔名もない、命令のような魔法が放たれた。
霧の中に無数の火が灯った。
だが幽霊は炎に包まれても表情を変えず、炎は触れた瞬間に霧へと吸い込まれて消えた。
「ダメね。効果がないわ」
「い、今のは……魔法?で、でも、詠唱も魔名もない」
「良いから、今は黙ってなさい」
「は、はい!」
影が増え、冷たい指先が足首に触れ、背筋が凍る。
このままでは飲み込まれる。
メグーちゃんは迷いを断ち切るように言った。
「良いわ。お母さんを助けてくれたアンタのこと、信じる」
「お母さん、ケビンさんのスキルを承認して」
迷った。
だが、今はそんな猶予はない。
「分かった……ケビンさん。許可します!」
ケビンさんの表情が変わった。
一瞬、目が引き締まる。
震えていた手が、止まった。
何かを察したのか、霧が大きくうねり、影たちが一斉に襲いかかる。
しかし、影たちの手が迫る直前──
ケビンさんがスキルを発動させると、彼の手のひらに霧と幽霊が吸い込まれ、世界が一瞬で塗り替わった。
気づけば私たちは船の上にいて、近くには気を失ったミリアリアさんとオーグさんが横たわっていた。
ケビンさんの手のひらには白いカップに収まったアイテムが静かに輝いていた。
彼のスキルが私たちを救ったのだ。
果てしなく広がる湖の上、船は静かにたゆたっていた。
水面は鏡のように滑らかで、ダンジョンの淡い赤が空と溶け合い、幻想を映している。
その神秘の中心で、銀色の湯気がふわりと立ちのぼる。
湖の霧が形を変えたように佇むスフレは、幽玄な透明感を湛えていた。
スプーンを入れると、空気のように軽やかに崩れ、淡い光を放って静かに溶けていった。
口に含めば、ひんやりとした感触の中に、ほんのりと甘く、どこか懐かしい風味が広がる。
幽霊として歪んだ魂が、食されることで少しずつ解けていくような──何かそんな感覚が、口の中に残った。
でも、それはきっとメグーちゃんの感じることだ。
私の口にはなく、ただ彼女の表情だけが、食べるたびに少し変わっていた。
「お、おいしい……」
その一言に込められた感情は言葉以上に深く、静かに胸に響いた。
食べ終えたあとに残るのは言葉にできない優しい余韻だった。
「た、食べてる?」
ケビンさんは、変換したアイテムを口に運ぶメグーちゃんの姿に驚きと戸惑いを隠せなかった。




