第27話:霧の中の影
私たちの船は、まるで湖に溶け込むように、静かに陸地を離れた。
幾度もの航海の傷跡が船体全体に刻まれていた。
波に削られた船腹には、黒く光るタールが幾重にも塗り重ねられ、過去の記憶を封じるかのように沈黙を守っていた。
水面は鏡のように滑らかで、空に浮かぶダンジョンの赤が血のように湖面を染めていた。
澄みきった水の底には、異形の魔物たちがゆらりと蠢いている。
その姿はどこか人の形を模しているようで、だが決して人ではない。
底知れぬ蒼の深淵がこちらを見上げているような錯覚に、思わず身をすくめた。
一本マストには、淡く脈打つ魔石が括り付けられていた。
そこから生まれる風が帆布を孕ませ、船体をゆっくりと前へと押し出していく。
帆に染め抜かれた紋章は、今は亡き船主のものだろう。
天使の零落が放つ光を受け、金糸が鈍く光り、過去の栄光を静かに語っているようだった。
船首に据えられた女神の像は、木彫りとは思えぬ繊細な表情をしていた。
どこか憂いを帯びた微笑みが波間の彼方を見つめている。
だが、その眼差しには言い知れぬ哀しみと諦念が宿っていた。
その視線に射抜かれたような錯覚を覚え、背筋に冷たいものが走った。
(この船……なんだか、重い)
空気の温度が違う。
陸地にいたときより、冷たくて、湿っていて、何かがまとわりついている感じがする。
農場で育った勘が「おかしい」と告げていた。
「かなり年季の入った船ですね」
ケビンさんの呟きは、どこか怯えを含んでいた。
彼の目は船体の傷跡をなぞるように泳いでいる。
「どうせなら、船を借りるのではなく買うことにした」
ミリアリアさんがいつものように凛とした声で応じた。
金髪が風に揺れ、どこか気品を感じさせる。
「でも、いくら地龍の素材を換金したとはいえ、船とアイテムボックスがよく買えたわね」
メグーちゃんが首を傾げる。
「うむ。この船は特価中で、アイテムボックスもおまけしてもらえたのだ」
「特価中……?」
その言葉に胸の奥がざわついた。
嫌な予感が冷たい指先で背中をなぞる。
オーグさんも、ケビンさんも同じ感覚を覚えたのだろう。
顔を見合わせ、無言のまま頷き合った。
「あ、姉御ォ」
オーグさんが珍しく声を荒げた。赤い肌がわずかに青ざめて見える。
「船が特価中だった理由、何かァ聞いてねェのか?」
「む?何を気にしている?質問の意図がわからんぞ」
ミリアリアさんは首を傾げる。
「普通……船は特価にならねェ」
「そうです。船が特価になるってことは……」
「いわくつき!!」
「てことですよ!」
私たちの声に、ミリアリアさんとメグーちゃんが顔を見合わせる。
だが、まだ事態の深刻さに気づいていないようだった。
「いわくとはなんだ?」
「座礁した船……つまり!乗っていた人が死んだ後ってことです!」
「ふむ。それで?」
「何を言いたいのよ」
その無頓着さに、思わず叫んだ。
「出るってことだよォ!姉御ォ!!」
「出るかもしれないんです!!」
「出るって何が?」
キョトンとしたミリアリアさんと、怪訝そうに眉を顰めるメグーちゃん。
「お化け!!」
「幽霊に決まってんだろうがァ!!」
「「幽霊?」」
「ミリアリアさん!メグーちゃん!この船は……幽霊船かもしれません!!」
「「幽霊船??」」
その瞬間、空気が変わった。
水面に映るダンジョンの赤が、まるで血のように濃く染まり、船体を包むように霧が立ち込めていく。
「幽霊とは……つまり、死後の魂が邪悪に染まり、人を恨み、世に出たアレのことか?」
「そうです!……アレ?」
「うむ。お主の背後におるだろう」
「……え?」
振り返ると、そこには確かにいた。
人の形をした輪郭の曖昧な影。
湖の底から這い上がってきたかのような冷たい気配が肌を刺す。
「……」
「「「ぎゃぁぁっぁっぁぁぁぁぁ!!!」」」
私とケビンさん、オーグさんの悲鳴が静寂を切り裂いた。
影は音もなく霧とともに四散し、視界は白に包まれる。
「む!魔物の襲撃か!?」
「これが幽霊?」
ミリアリアさんとメグーちゃんの声が霧の中から響く。
だが、これは魔物ではない。
もっと根深く、もっと陰湿な怨念の類だ。
「囲まれているわね」
「あわわわ……お、お、お化け!」
「お母さんは私から離れないで!」
「は、はひ!」
「っ!?」
そんな時だ。
メグーちゃんは霧を掴むようにして手を伸ばすと、霧の奥から聞き覚えのある男性の声がした。
そして、伸ばした手を引っ込めると、その先には胸倉をつかまれたケビンさんの姿があった。
「お、おわ!」
「何よ、ケビン、驚かさないで」
「ぐ、ぐえ……は、はなじでぐだざい」
メグーちゃんは、ケビンさんを掴んでいた手を離した。
「あ、あの……」
ケビンさんは震える声で続ける。
「えっと……その……どうやら、この幽霊」
「ねぇ、冗談はやめて」
メグーちゃんは嫌な予感がしたのだろう。ケビンさんをけん制するように言う。
「すみません。でも、幽霊に……僕のスキルが使えるみたいです」
ケビンさんの手が、かすかに光っていた。
スキルが反応している──その意味を理解するのに、一瞬かかった。
植物で怨念には抗えない。怨念は物じゃないから、育てることも、毒を盛ることもできない。
でも──ケビンさんのスキルは素材そのものを変換する。生き物でも、死んだ者でも。
「ミリアリアさん……どうします?」
返事を確認しようとした。だが──
「ミリアリアさん?」
返事がない。霧の中、彼女の気配が消えていた。
「ミリアリアさん!オーグさん!」
二人の名前を叫ぶが、どちらからも返事がない。
「この霧は空間魔法の一種らしい」
「空間魔法?」
「うん。アイテムボックスみたいなもの」
「私達がアイテムボックスの中にいるってこと?」
「そうね」
メグーちゃんの声は冷静だったが、その瞳には警戒の色が浮かんでいた。
「ミリアリア、とんでもない物、買ってきてくれたわ。そういえば、そういう所はどこか抜けていたのだ」
「ミリアリアさん……そんな弱点が」
彼女の威厳の裏に、どこか世間知らずな一面があったことを、今さらながら思い出す。
「そ、それよりも……スキルはどうします!?」
「スキル?」
「はい……えっと、アニーさんの許可があれば、幽霊をアイテムに変換できそうです」
「ねぇ、待って、幽霊なんて、流石に嫌よ」
「メグーちゃん。で、でも、もしかしたら……美味しいかも」
「絶対にイヤよ!」
メグーちゃんがゾワっとしながら言う。
まさか、幽霊すらも彼女の食べ物にできるとは思いもしなかった。




