第23話:翡翠の瞳が語るもの
猫人族の女性が槍を地に刺し、膝をついた。
倒れた仲間の一人の元へ這うように近づき、呼びかける。
「ロア。ロア、聞こえるか」
返事はなかった。
大柄な男性だ。革の鎧が深く裂け、右の脇腹から脛にかけて爪で抉られたような傷が走っていた。
布地が血を吸って黒ずんでいる。
彼の胸の上下は浅く、しかし規則的に続いている。
その呼吸音が、石畳に低く響いている。
「ショート。頼む。返事をしてくれ」
もう一人の女性は、首筋と肩に焼けただれた痕があった。
焦げた匂いが、風に混じって鼻腔を刺す。
雷撃を直接受けたのだろう。
二人とも意識がなく、荒い呼吸が石畳に低く響く。
「……待ってください」
気づいたら声が出ていた。
猫人族の女性が振り向く。
背後の暗がりから、微かな湿り気と土の匂いが立ち上る。
薬草を生み出した。
手のひらにじんわりと重みが乗り、青みがかった葉束が現れる。
葉の表面からはマナの湿った匂いが立ちのぼり、指先に冷たさと温もりが同居するような感覚が伝わった。
石畳に膝をつき、傷を確かめる。
深い。だが、塞がっていない。まだ間に合う。
葉を両手でほぐして汁を出し、傷口にゆっくりと塗り込んだ。
手が震えないように意識した。
次の傷へ。また次へ──。
容態を確かめ、静かに立ち上がる。
傷口は塞がりつつある。
化膿はしていない。
二人の呼吸も、少し前より落ち着いてきた。
二人とも、これで命に別条はないらしい。
肩の力がわずかに抜けた。
猫人族の女性がゆっくりと立ち上がった。
翡翠色の瞳がこちらを見る。
傷だらけで、それでも真っ直ぐな目だった。
「繰り返し礼を言う。私はスコティッシュだ」
「アニーです。こちらはメグーちゃん」
スコティッシュさんの視線が、手のひらに落ちた。
マナの匂いが、まだ薄く漂っている。
「奇妙な魔術を使う。ユニークか?」
「詮索はご法度、違うかしら」
メグーちゃんが涼しい顔で言い切った。
スコティッシュさんは一瞬だけ目を細め、それから小さく息をついた。
「うむ。恩人に失礼をしたな」
少し間があった。
倒れた仲間たちの呼吸が、石畳に低く響いている。
助けた。それでも、何があってここまでの怪我を負ったのかは、まだ分からない。
「何があったんですか?」
天使の零落に挑もうとする冒険者だ。
いくらグリフォン相手とはいえ、全滅寸前になるとは思えない。
別の脅威が潜んでいるのかもしれない。
「詮索はご法度ではないのか?」
皮肉ではなく、どこか試すような言い方だった。
スコティッシュの声には、まだ戦いの余韻が残っている。
喉の奥が乾き、唇がひりつく。
「お母さんは別よ」
「母?」
スコティッシュさんは怪訝な顔で私とメグーちゃんを見る。
視線が行き来した。
私を見て、メグーちゃんを見て、また私を見る。
「姉と妹に見えるがな。まぁ、いい。アニー殿とメグー殿が懸念しているような情報はない。私たちは、入って早々、グリフォンと出くわしてしまって、このザマさ」
自嘲するように言って、スコティッシュさんは自分の鎧の裂け目に目をやった。
裂けた革の隙間から、まだ温かい血の匂いが立ちのぼる。
「悪いことは言わないから、これ以上の探索は諦めた方がいいわよ」
「メグーちゃん!」
思わず声が出た。
でも、メグーちゃんの目は真剣だった。
瞳の奥に、決意と恐れが同居している。
「お母さん、これは、スコティッシュ達のために言っているのよ。今度は死ぬことになるわよ」
「そうだな……」
メグーちゃんの言葉に、スコティッシュさんはどこか悔しさを滲ませていた。
肩が小さく震える。
「……それでも、命を賭けてでも、調べたいことがあったんですね」
問いかけると、スコティッシュさんは少し間を置いてから頷いた。
頷きは小さく、しかし確かなものだった。
「私たちの故郷は月鏡の森にある」
月鏡の森……。
風が一瞬止み、遠くの水音だけが耳に残る。
グリムの絵本を思い出した。
子どもの頃に何度も読んだ。
月鏡の森には、フェンリルという巨大な狼が住んでいる。
白い毛並みと、月光のような瞳。
人を喰らい、迷い込んだ者を決して帰さない──絵本の中で最も恐ろしい存在として描かれていた。
そしてそのフェンリルが、かつて猫人族の国を滅ぼしたとも。
「私は……真実が知りたい」
声が、少し上ずった。
スコティッシュさんの翡翠色の瞳が、静かにこちらを向く。
「フェンリルが、あんなことをするとは思えない」
ぽつりと、呟くように言った。
誰かに向けた言葉というより、長い間ひとりで抱えてきた疑問が、口をついて出たような響きだった。
その声には、怒りでも悲しみでもない、むしろ冷たい好奇心が混じっていた。
絵本のフェンリルは恐ろしい存在だ。
月鏡の森に踏み込んだ者を喰らう、人には理解できない獣。
だが──スコティッシュさんの言葉には、恐れがなかった。
「その真実と……天使の零落に何の関係があるのかしら?」
「詮索はご法度ではないのか?」
「私たちに話を聞いてほしいのだと思ったけれど、それは違うのかしら」
「……そうだな」
「龍を調べるために、ここへ来たんですか?」
スコティッシュさんの目が、わずかに見開かれた。
瞳の奥で何かがはじけるように光った。
「……なぜ、そう思った?」
「私たちも、龍のことを知りたくて、天使の零落を探索しています」
少し間があった。
スコティッシュさんは静かに息をついた。
息の白さが、薄暗い神殿の空気に溶けていく。
「そうだ。認める」
「龍のこと、教えてください。私は知らないといけない。そんな気がするんです」
「……すまないが、私に語れることはない」
視線が、倒れた仲間たちへと向いた。
その視線は、言葉よりも重かった。
「知るには、私の実力が足りていない。仲間もグリフォンにやられた。攻略は諦める」
「一緒に来ませんか」
気づいたら、言っていた。
言葉は軽く出たが、胸の奥では何かが固まるのを感じた。
スコティッシュさんが、静かにこちらを見た。
「龍を探している者の中には、私たちと敵対する組織がある」
声のトーンが、わずかに落ちた。
その一言に、空気が一瞬締まる。
「私たちのことを疑っているのかしら」
「信じたい気持ちはある。だが、組織はどこに潜んでいるかもわからん。アニー殿とメグー殿が無自覚に関わっている可能性もある」
スコティッシュさんは少し言い淀むが続ける。
言葉の端々に、痛みと警戒が滲んでいた。
「その組織と繋がりがあるかもしれない者と、行動を共にすることはできない」
「……分かりました」
無理には言えなかった。
スコティッシュさんの言葉には、傷を持つ者の慎重さがあった。
私の胸の中で、期待と不安が交互に波打つ。
「アニー殿とメグー殿、重ねて礼を言わせてほしい」
スコティッシュさんは仲間を抱えると、声だけをこちらに向けた。
「ありがとう。感謝する。この恩は忘れない」
その背中が、石柱の向こうへと消えていく。
ピンク色の毛並みが、薄暗い神殿の光の中でゆっくりと遠ざかった。
足音は次第に小さくなり、やがて風の音に溶けていった。
メグーちゃんが隣に並んだ。
「行っちゃったわね」
「うん」
「……お母さん、あの人の言葉、気になる?」
「気になる」
正直に答えた。
龍を探す者と敵対する組織。
スコティッシュさんが守ろうとしているもの。
フェンリルへの言葉に滲んでいた、確かな情。
考えていても、今は答えが出ない。
「行こう。逸れた今、みんなは集合場所で待ってるはずだから」
「そうね」
メグーちゃんと並んで、事前に打ち合わせていた場所へと歩き出した。
石畳を踏む足音が、静かな神殿に響いていく。
足裏に伝わる振動が、時間の流れを刻むように感じられた。
背後にはまだ、消えない血と雷の匂いが残っている。
それを胸にしまい込みながら、私たちは薄暗い回廊を進んだ。




