第17話:香りが祈りを溶かすとき
しばらく、動けなかった。
膝が笑っていた。涙になりそうだったものを飲み込んで、私はゆっくりと息を吐く。
動かなければ、と思った。それだけを頼りに、足を一歩踏み出した。
ミリアリアさんとオーグさんは、地龍の亡骸に向かって黙々と解体を進めていた。
剣と拳で命を奪った者たちが、今はその命の残滓を武具の素材として選別している。
鱗は一枚一枚が重く、指先にずしりとした質量を伝えてくる。
表面は硬質で光を跳ね返し、触れると冷たく、まるで石のように締まっていた。
牙は鋭く、先端に微かな血の匂いを残している。
骨はただ白く光るのではなく、淡い蒼い光を帯びていた。
(魔力が滲んでいる)
その輝きは、普通の骨とは違う重厚さを放ち、手に取るとほんのりと振動が伝わってくるようだった。
血の匂いが鼻を突く。
湿った空気がそれを包み込み、呼吸のたびに粘り気のある冷気が喉を撫でる。
私とケビンさんは、戦えぬ者として素材の運搬を任されていた。
黙々とバックパックに素材を詰め込む。
素材を手に取るたびに、農民の感覚が働いた。
この鱗の硬さ、この骨の輝き──何かに使えないか、無意識に考えている自分がいる。
「よっと」
「よっと!!」
メグーちゃんが真似をしながらバックに素材を詰めていく。
動きは真似というよりリズム遊びのようで、短い掛け声を拍子にして小さな体を揺らしている。
「ほっと!」
「ほっと」
「はっと!」
「はっと!!」
メグーちゃんと一緒に素材を詰め終えると、膨らんだバックを背負い、彼女の銀髪をそっと撫でた。
彼女は目を細めて微笑む。
さっきまで地龍の咆哮の中に一緒にいた少女が、今は安心しきった顔で私を見上げている。
その笑顔が、湿った空気の中でひときわ輝いて見えた。
亡骸にはまだ多くの素材が残っている。
金塊の山を前にして、手ぶらで立ち去るような惜しさが胸を締めつける。
「ケビン、お主のスキルを亡骸に使って見せよ」
ミリアリアさんの声が、静寂を切り裂いた。
彼女の金髪が揺れ、まるで王族のような威厳がその一言に宿っていた。
「……いくら地龍でも、僕のスキルで役に立つ物にはなりませんよ?」
「構わん。お主のスキルを確認したいだけだ」
淡々とした口調に、ケビンさんは戸惑いながらも手を亡骸へ向ける。
オーグさんが赤い肌をひきつらせ、鋭い視線を投げる。
「ひぃ!」
「さっさとしねェか」
ケビンさんは慌ててスキルを発動する。
彼のロールは料理人。
ユニークロールと言われるその役割に、ミリアリアさんは何か思い当たる節があるようだった。
「煮る。焼く。蒸す。どれが良いでしょうか?」
ケビンさんの声は震えていた。
選択肢の意味すら曖昧なまま、彼は指示を仰ぐ。
ミリアリアさんは眉間に皺を寄せ、思案する。
「煮る。焼く。蒸すで何が違う?」
「わ、わかりません……スキルの発動方法としての選択肢が出てきただけ……なので」
その時、ミリアリアさんは私に視線を向けた。
「アニー」
「は、はい?」
急に呼びかけられたのに驚いて、声が裏返る。
だが、ミリアリアさんは構わず続ける。
「どうするのが良いと思うか。直感でも構わん。教えてほしい」
突然の問いに戸惑いながらも、工程の意味を頭の中で整理する。
煮れば成分が液に溶け出し、焼けば外側が固まって旨味が閉じ込められる──それは作物の話だ。
魔物の素材がどう変わるのか、地龍となればなおさら、想像がつかない。
だが、農民の勘が働く。
(肉なら焼いて旨味を閉じ込めるのがいい。液体に溶け出す成分は薬やエキス向きだ)
「おかあさん!」
「ん?どうしたの?」
「焼くのが好き!」
メグーちゃんの声が響いた。
彼女の瞳は輝いている。
その言葉に頷き、ミリアリアさんへ視線を送る。
「では、ケビン、焼いてくれ」
「わ、わかりました」
しかし変化は一向に訪れない。
またしても、ケビンさんは不安そうな表情で言う。
「……あの、アニーさん」
「は、はひ?」
「ガーリック、ローズマリー、バターの使用許可が必要なアイテムのようです。農民の方の協力が必要と……だけスキルに言われています」
農民の方の協力──私のことだ。
ミリアリアさんに問い返すより先に、ケビンさんへと向き直る。
「……許可します」
試しに言ってみると──
ケビンさんのスキルが放たれ、地龍の亡骸が煙に包まれる。
その煙はただの灰色ではなく、薄く金色と緑が混じったような色合いで、ふわりと渦を描きながら立ち上る。
香りが変わる。
焦げた匂いとともに、バターとガーリックの芳香が混ざり合い、どこか懐かしい台所の匂いが神殿に流れ込む。
煙がパッと晴れると、地龍の亡骸があった場所に、白い皿の上に乗った香ばしい肉片が現れた。
周囲の空気が一瞬だけ震えた。
香りが空気を満たし、神殿の重苦しさを一瞬だけ忘れさせる。
「地龍のソテー・ア・ラ・プロヴァンサル」
ケビンさんが呆然と言葉を漏らした。
自分でも信じていないような声だった。
「な、なんですか、これ……僕が……?」
「お主のスキルで変換されたものだ。そのアイテムの名称か」
「は、はい……たぶん。スキルからそう示されていて。ア・ラ・プロヴァンサルは、香草とガーリックの組み合わせを意味する……らしいです。理由はわかりません」
ケビンさんは自分で口にしながら怪訝そうな表情をしていた。
きっと、スキルで得られた情報をそのまま話しているのだろう。
ガーリックやローズマリー、バターが何のことなのか、私にもわからない。
でも、この香りは──何かを呼び覚ますような、不思議な懐かしさがある。
「わー!」
メグーちゃんが歓声を上げ、肉片へと駆け寄る。
「では、ケビンよ、すまんがお主はオーグに続いて先に行ってくれ」
「え?」
ミリアリアさんの言葉にケビンさんは困惑するが、オーグさんが無言で肩を掴み、奥へと連れて行った。
ケビンさんの表情には、どこか落ち着かない揺れが残っていた。
「さて……」
2人の姿が消えると、ミリアリアさんはメグーちゃんに微笑む。
「食べて構わないぞ」
「うん!」
メグーちゃんは、どこからともなく皿に添えられているナイフを手に取る。
そのナイフの扱いが妙に手慣れていて、刃の角度や持ち方に無駄がない。
彼女は料理と向かい合った。
表面は香ばしく焼き上がり、きつね色の焼き目が美しい格子模様を描いている。
ナイフを入れると、外はカリッとした食感を残しつつ、中からは肉汁がじゅわっと溢れ出した。
芳醇なバターとガーリックの香りが立ち上り、鼻腔をくすぐる。
ミリアリアさんが静かに見つめていた。
固唾を呑んで、という言葉がよく合う表情だった。
オーグさんはケビンさんを連れて先へ行ったが、その背中が少しだけ止まった気がした。
私もただ見ていた。
声も出なかった。
メグーちゃんは肉片を頬張り、幸せそうに笑う。
その笑顔は、神殿の陰鬱な空気を少しだけ晴らしてくれる光のようだった。
だが、彼女が肉を噛んだ瞬間、空気に小さな揺らぎが走った。
(微かな波紋のようなものが、周囲の魔力を震わせる)
メグーちゃんの体からは、食べる行為に合わせてほんの一瞬だけ光が漏れるように見えた。
それは儚い波紋のようで、すぐに消えた。
「おいしい!」
その声に、ミリアリアさんは複雑な表情を浮かべる。
彼女の瞳は、メグーちゃんの笑顔を見つめながらも、遠くを見ていた。
「ミリアリアさん?」
「ん?ああ……すまない。少し考え事をしていてな」
「……ケビンさんのことですか?」
「ああ……彼のスキルは本物だ。メグーのことを考えれば、奴に同行してもらうのが良いのかもしれないが」
その言葉には、迷いと警戒が滲んでいた。
「……奴にメグーのことが知られれば、将来的に面倒なことになる。そんな予感が頭から離れないのだ」
「メグーちゃんを狙う人に……ケビンさんが捕まっちゃうかもしれない……そ、そういう、こと、でしょうか?」
「むしろ、進んで情報を対価に、何かを得ようとするだろうな」
「……そ、そんな、ひ、人には……み、見えないです」
「あやつの実力で、天使の零落の審査を突破できるとは思えん。おそらく、ユニークロールを理由に、どこぞの冒険者パーティーに取り入ったのだろう。今、あやつは一人だ」
「そ、それは……な、仲間を見捨てて逃げた……と、そ、そ、そう考えて、い、いるんですか?」
「そうまでは考えておらん。仲間に見捨てられた可能性もある。しかし、いずれにせよ、あまり信を置けない人物と評価せざるを得ない」
不安そうな顔をしていたのだろう。
ミリアリアさんはそれに気づき、柔らかく微笑んだ。
「案ずるな。ケビンをもう見捨てることはせん」
「……ミリアリアさん」
「あやつも連れて行くとしよう。ここまで来て引き返すことはできんからな」
その言葉に、胸の奥が少しだけ温かくなるのを感じた。
誰かを見捨てない旅──それは、私がずっと求めていたものだ。
だから私も、誰かを見捨てない側でいたい。
そう、静かに決めた。




