第159話:光の手、影の中で
光が、来た。
どこか遠くで、空気が変わった。
重く淀んでいた瘴気が、一瞬にして吹き散らされていく。
そして、講堂の天井から差し込む光の中に、誰かが降り立った。
白金のローブが、柔らかく揺れている。
足元に淡い光の波紋が広がり、一歩ごとに、闇がじわりと後退していく。
私は、その場に立ち尽くしていた。
身体が動かない。
逃げたいのか、それとも逃げたくないのか、自分でもわからなかった。
ただ、その姿が近づいてくるのを、じっと見ていた。
「……来ないで」
声が出た。
自分でも驚くほど、かすかな声だった。
懇願なのか、拒絶なのか、自分にもわからない。
足元の蔓が、意志を持ったように動き出す。
聖女へと向かって、這い寄っていく。
止めようとしたが、止められなかった。
これは私の一部なのに、もう私の言うことを聞かなかった。
でも、聖女は怯まなかった。
蔓が触れた瞬間、光がふわりと広がり、闇が溶けていく。
それでも、足取りは変わらない。静かで、揺るぎない。
「あなたを助けに来ました、リゼリアさん」
まっすぐな声だった。
その声が、胸の奥の何かに触れた。
だから、余計に腹が立った。
「嘘……嘘よ!私なんか……私なんかを……助ける価値……ないもの」
言葉が勝手に溢れてくる。
ずっと、誰にも言えなかった言葉が。
「ずっと……クラリーチェさんが羨ましいと思ってた……あの人さえいなければ……そう思ったこともあった。見てほしい……私も見てほしい……そうだ。クラリーチェさんさえいなくなれば……消えてしまえ……そう思った。そんな風に思う私に……助けられる価値なんてない」
声が震えるたびに、講堂の壁にひびが走っていく音がする。
崩れていく。
この世界も、私も。
「価値がないから……誰も私を見ない……」
いつも……
いつも……
お姉様……クラリーチェさん……他人ばかり……
「私が……クラリーチェさんみたいだったら……みんな見てくれるのかな……?」
聖女は、その場に立ち止まった。
静かに目を伏せている。
否定も、反論も、なかった。
その沈黙が、怖かった。
責められる方が、まだよかった。
そして、また一歩、こちらへ歩み寄ってくる。
「……そうですね。クラリーチェさんは、すごい人です」
ええ、そうよ。知ってる。だから──
「でも、私は……あなたを見てます。リゼリアさん」
心臓が、止まりそうになった。
誰かが、私を見ている。
私の名前を呼んでいる。
それだけのことなのに、足元の蔓がぴたりと動きを止めた。
胸の奥に、何かが灯った。
頼りなくて、今にも消えそうで。
それでも確かに、そこにあった。
「あなたが、どれだけ努力してきたか。誰にも見えない場所で、どれだけ自分を削ってきたか。私、知っています」
「知らないくせに……!あなたに、私の何がわかるの……!」
叫んでいた。
怒りなのか、悲しみなのか、もうわからない。
周囲の影が渦を巻き、講堂が軋みを上げる。
それでも、聖女は立ち止まらなかった。
光の衣が闇を裂きながら、ゆっくりと歩み寄ってくる。
「わかりません。全部なんて、わかるはずがない。でも……私も、ずっと誰にも見られなかった。誰の目にも映らないまま、ただ生きてきた。だから、少しだけなら……わかる気がするんです」
目を見開いた。
「……勇気の聖女様が?」
静かに、頷いた。
「はい……そうです」
その瞬間、何かが崩れた。
心の奥で、ずっと積み上げてきた何かが。
姉たちの背中が、浮かんだ。
ミリアリアのように、ミリアリーデのように、なりたかった。
誰かに褒められたくて、認められたくて、どれだけ手を伸ばしても届かなかった。
笑顔の裏で、何度も唇を噛みしめた。
悔しさを、寂しさを、誰にも見せないように。
ただ、ひとりで抱えてきた。
その記憶が、今、胸の奥で疼く。
どこかで、黒い蔓がほどける音がした。
「あなたは、あなたのままで、すごい人です。誰かの代わりじゃない。誰かの影でもない。リゼリア・セレスタという、たった一人のあなたが、ここにいる」
声が、震える。
「……でも、私、もう……」
「知ってた……消えてしまえって気持ちに……魔物が反応していることに気付いてた……」
胸元の布を、ぎゅっと握りしめる。
崩れそうな心を、どうにか繋ぎとめようとして。
「こんなの良くない……ダメって思っても……止まらなかった」
そのとき、手が差し伸べられた。
強さを示すためではない。
ただ、そこに在るための手だった。
「大丈夫。私が、見ています。あなたがどんなに泣いても、怒っても、逃げても……私が、あなたを……本当のリゼリアさんを見失いません」
涙が、頬を伝って床に落ちた。
その一滴が触れた場所から、蔓がふっとほどけていく気配がした。
ずっと閉ざしていた場所が、軋みながら、ゆっくりと開かれていくような感覚。
「……どうして……そんなふうに……」
答えは、微笑みだった。
押しつけるのでも、哀れむのでもない。
ただ、ここにいる、と言っているような笑みだった。
「あなたが、あなたを見失いそうなときは──私が、あなたを思い出させます。だから、もうひとりじゃないんです」
肩の力が、ふっと抜けた。
張り詰めていたものが、少しずつほどけていく。
影が、光に溶けるように消えていった。
差し出された手を、見つめた。
ずっと、誰かの手を取るのが怖かった。
また、届かなかったら。また、見てもらえなかったら。
けれど今、その手はただ、そこにあった。
待っていた。
そっと、自分の手を重ねた。




