第158話:影を抱く祈り
──夢を見ていた。
白く静謐な回廊が、果てしなく続いていた。
まるで時の流れから切り離されたような空間。
天井は高く、荘厳な礼拝堂を思わせる造りで、空気はひんやりと澄んでいる。
一歩、また一歩と足を踏み出すたびに、硬質な床に響く靴音が、静寂を破って反響する。
その音に呼応するかのように、壁に刻まれた古の文様が、淡く、まるで息を吹き返すように光を帯びていく。
それは夢の中の出来事だったのか、それとも──現実のどこかに存在する記憶の断片だったのか。
──リゼリア・セレスタは、静寂に包まれた空間の中央に、ぽつりと立っていた。
けれど、それは”今のリゼリア”ではなかった。
揺れる栗色の髪は肩に届かず、まだ幼さを残した輪郭の中に、透き通るような青い瞳が大きく瞬いている。
頬はふっくらとして、唇はまだあどけない丸みを帯びていた。
けれど、その瞳の奥に宿る光だけは、確かにリゼリアのものだった。
無垢で、傷ひとつない存在。
世界の痛みも、重さも、まだ知らないままの、純白のリゼリア。
リゼリアは何も言わず、ただ静かにこちらを見つめていた。
まるで、過去の記憶が形を持って現れたかのように。
時間の流れが止まり、空間が夢と現の狭間に溶けていく。
その姿は、まるで祈りの中に咲いた一輪の花のようだった。
「……リゼリア様。お戻りください。あの扉は、あなたのためのものではありません」
それは、風に紛れるような、けれど確かに耳元で囁かれた声だった。
リゼリアははっとして振り返る。
だが、そこには誰の姿もない。
白い回廊は静まり返り、ただ冷たい空気が彼女の頬を撫でるばかりだった。
どこかで、鐘の音が鳴っていた。
遠く、遥か彼方から響いてくるその音は、まるで時の終わりを告げる合図のように、空間の隅々まで染み渡っていく。
扉の前に立ち尽くすリゼリアの影が、淡い光に揺れた。
リゼリアの瞳は、閉ざされたその扉の向こうに何かを見ていた。
けれど、その手は伸びない。ただ、胸の奥で何かが静かに軋んでいた。
──扉の向こうに、何かがいる。
リゼリアは息を呑んだ。
重厚な扉の隙間から滲み出す気配は、ただならぬものだった。
それは、黒い影だった。
形を定めず、闇そのものが意思を持ったかのように、ゆらりとうねる。
蛇のように滑らかに、刃のように鋭く、見る者の心を試すように揺らめいている。
けれど、その気配には、どこか懐かしさがあった。
忘れかけていた記憶の底に沈んでいた、遠い日の温もりのような──あるいは、かつて確かに傍らにあった何かの名残のような。
リゼリアの胸の奥で、何かが静かに軋んだ。
恐怖とも違う、けれど確かに心を揺さぶる感情が、そっと目を覚まし始めていた。
「……あなたは、私?」
リゼリアの声は、かすかに震えていた。
問いかけは空気に溶け、静寂の中に吸い込まれていく。
影は何も答えなかった。
ただ、音もなく、ゆっくりと彼女の方へと手を伸ばしてくる。
その動きはまるで、鏡の中の自分が手を差し出してくるようで、どこか既視感すら伴っていた。
そして──触れる寸前、胸の奥が焼けつくような熱に包まれた。
リゼリアは思わず息を呑む。
視界がぐにゃりと歪み、足元の感覚が消えていく。
天と地が反転し、世界が裏返るような感覚に、意識が引きずり込まれていった。
それは、始まりのようで、終わりのようでもあった。
──嫉妬。
──孤独。
──選ばれなかった者の、深く、底知れぬ叫び。
それは言葉ではなく、感情そのものが形を持ったような、鋭く、重く、冷たい波となってリゼリアを包み込んだ。
ミリアリア。ミリアリーデ。
誰もが称賛し、羨望の眼差しを向ける姉たち。
その背中を、どれほど遠く感じてきただろう。
自分は──何者なのか。何のために、ここにいるのか。
「やめて……やめて……!」
リゼリアは必死に叫んだ。
けれど、その声は空間に吸い込まれ、何ひとつ届かない。
影は、静かに、確かに、彼女の中へと入り込んでいった。
まるで、もともとそこに居場所があったかのように。
胸の奥に、黒い波紋が広がっていく。
それは痛みではなく、むしろ懐かしさに似た感覚だった。
──また、場面が変わる。
ふっと空気の色が変わり、世界が静かに切り替わった。
そこは学院の講堂だった。
高い天井と磨き上げられた床、整然と並ぶ椅子の列。
そのすべてが、厳かな静けさに包まれている。
窓辺に、ひとりの少女が立っていた。
クラリーチェ──
その名を呼ぶまでもなく、彼女の存在は空間に溶け込み、まるで最初からそこにいたかのような自然さで佇んでいた。
陽光がステンドグラスを透かして差し込み、彼女の金の髪を淡く照らす。
制服の裾が風に揺れ、その姿はまるで、祝福を受けた聖女のように神々しく輝いていた。
誰もが息を呑むような、静謐な美しさ。
けれど、その瞳の奥には、誰にも触れさせない強さが宿っていた。
講堂には、自然と人の輪ができていた。
その中心にいるのは、クラリーチェ。
生徒たちは彼女を囲み、誰もがその姿に目を奪われていた。
「クラリーチェさん、すごいですね」
「やっぱり、あの人がいれば安心だよね」
「先生も、最近ずっと彼女のことばかり……」
称賛の声。憧れの眼差し。柔らかな微笑み。
そのすべてが、リゼリアの胸を締めつけた。
彼女は講堂の隅に立っていた。
誰にも気づかれず、誰にも呼ばれず、ただそこにいるだけ。
まるで、存在そのものが空気に溶けてしまったかのように。
ふと足元を見ると、そこに黒い影が伸びていた。
それは光によって生まれたものではない。
リゼリアの心の奥底から、静かに、確かに滲み出たものだった。
言葉にならない感情が、影となって彼女の足元に絡みついていた。
──また、私じゃなかった。
リゼリアの胸の奥に、ひやりとした感覚が広がる。
アニーが、クラリーチェに微笑みかける。
その笑顔は、かつて自分に向けられたことのない、柔らかな光を帯びていた。
オスカーが、何のためらいもなくクラリーチェの肩に手を置く。
その仕草に、特別な意味が込められていることを、リゼリアは痛いほど理解していた。
その光景が、何度も、何度も繰り返される。
まるで、彼女の記憶が意図的にその場面だけを切り取り、執拗に再生しているかのように。
逃れようとしても、視界の隅に焼きついたまま離れない。
「どうして……」
声にならない問いが、胸の内で渦を巻く。
そのたびに、心の奥に沈んでいた影が、少しずつ、確かに濃くなっていった。
「……どうして、あの人ばかり……」
リゼリアの唇からこぼれた呟きは、誰にも届かなかった。
けれど、その言葉は、確かに世界を揺らがせた。
「いなく……なっちゃえ」
講堂の壁が、じわりと黒に染まり始める。
まるで感情そのものが染み出し、現実を侵食していくかのように。
「いなくなっちゃえば……私が……」
陽光は消え、空間の輪郭が曖昧になり、空気が重く沈んでいく。
そして──
クラリーチェの姿が、ゆっくりと影に包まれていった。
その光が、あれほどまでに眩しかったはずの彼女の輪郭を、黒が静かに、確実に塗り潰していく。
誰も気づかないまま、誰も止めることなく。
リゼリアの胸の奥で、何かが崩れ落ちた。
それは、長い間押し込めてきた感情の、最初のひとひらだった。
「私だって、努力してきたのに……!」
「私だって、見てほしかったのに……!」
リゼリアの叫びは、これまで押し殺してきた想いのすべてを乗せて、空間を震わせた。
その瞬間、彼女の足元から黒い蔓が伸びる。
それは影から生まれた、感情の具現。怒り、悲しみ、渇望──すべてが絡み合い、形を成していく。
蔓は音もなく広がり、講堂の床を這い、壁を伝い、天井へと伸びていく。
祝福の光に満ちていたはずの空間が、黒に染まり、静かに、しかし確実に飲み込まれていく。
クラリーチェの足元にも、蔓が絡みついた。
彼女は驚いたように目を見開くが、声を上げることもできない。
その身体が、まるで深い水底に引きずられるように、ゆっくりと沈んでいく。
だが、リゼリアは動けなかった。
ただ、胸の奥で渦巻く感情に身を委ねながら、その光景を見つめていた。
涙が頬を伝っても、彼女はもう、止めることができなかった。
「やめて……!」
リゼリアの声は、かすかに震えていた。
けれど、その叫びも空虚に響くだけで、黒い蔓の動きを止めることはできなかった。
蔓はなおも蠢き、講堂の床を這い、壁を這い、記憶の風景を塗り潰していく。
それは外から来たものではない。
彼女自身の心が生み出したもの──
嫉妬。
孤独。
そして、選ばれなかった者の、深い劣等感。
それらが絡まり合い、黒い蔓となって形を成し、リゼリアの記憶のひだをひとつひとつ侵していく。
大切だったはずの思い出が、次々と黒に染まり、歪んでいく。
まるで、彼女の存在そのものを塗り替えようとしているかのように。
リゼリアは目を閉じた。
その胸の奥で、何かが崩れ落ちる音がした。
──誰か、止めて。
──こんなの、私じゃない。
リゼリアの心の奥底から絞り出されたその願いは、闇に沈みかけた世界に微かな震えをもたらした。
そのときだった。
講堂の天井が、音もなくひび割れ、まばゆい光が奔る。
まるで夜明けのように、裂け目から一筋の光が差し込んだ。
その光の中に、ひとりの影が立っていた。
白金のローブが風に揺れ、荘厳な気配をまとったその姿は、まるで神話から抜け出したようだった。
顔を覆う布の中央には、燃え盛る剣の紋章──それは、噂の中で語られた“聖女”の証。




