第157話:祈りの刃、迷いの果てに
クラリーチェさんが奪い返された、その瞬間だった。
異形の中心に囚われていた彼女が、私の腕に抱きとめられた刹那——魔物の動きが、まるで糸が切れた操り人形のように狂い始めた。
全身が痙攣し、黒く濁った瘴気がその体から爆ぜるように四方へと吹き荒れる。
空気が震え、大地が呻き、世界が一瞬、息を呑んだ。
そして、咆哮が響いた。
それは怒りか、あるいは悲しみか。
いや、どちらでもなかった。
言葉を持たぬその声は、ただひたすらに、魂の奥底から絞り出された叫びだった。
奪われたものへの執着と、取り戻せぬ絶望が、音となって世界を貫いた。
「来る……!」
セラさんの叫びが空気を裂くよりも早く、魔物の身体から無数の触手がうねりを上げて飛び出した。
黒く濁ったそれらは、まるで生き物のように蠢きながら、一直線に私へと襲いかかる。
その腕の中には、まだ意識の戻らぬクラリーチェさんの姿があった。
その瞬間、空間を震わせるような絶叫が響き渡った。
「ガェジデェェェェェェェェl!!!」
それは言葉ではなかった。
だが、確かに伝わってくる。
奪われたという怒り、届かぬという絶望、そして、引き裂かれた心の痛み。
魔物の咆哮は、理性を持たぬ存在の、ただひたすらに純粋な悲しみの叫びだった。
一瞬の迷いもなく地を蹴った。
白金のローブが風を裂き、宙へと舞い上がる。
跳躍、回転、滑空、そして壁を蹴っての反転。
すべての動きが一つの流れとなり、まるで風そのもののように、触手の間を縫って舞い踊った。
殺意を孕んだ無数の触手が襲いかかる中、動きは一分の隙もなく、すべての攻撃を紙一重でかわしていく。
腕の中に、クラリーチェさんの重みがある。
意識を失ったその身体は、思ったより軽かった。
その軽さが、胸の奥に刺さる。
それでも、足は止まらない。止めるわけにはいかなかった。
「すご……」
「か……かっこよすぎます……聖女様……!」
セラさんの背後、守られていた生徒たちが思わず息を呑む。
目の前で繰り広げられる光景は、もはや人の技ではなかった。
風を纏い、光を裂き、アニーは神話の戦乙女のように宙を舞っていた。
そのまま魔物の胴体部へと一直線に迫る。
蔦と鱗に覆われたその中心部——そこには、リゼリアさんの顔が、まるで呪われた宝石のように埋もれていた。
瞳が鋭く細められる。
次の瞬間、一瞬の隙を見逃さず、風を切るように刀を振り抜いた。
銀光が走る。
それは、希望の刃だった。
──だが。
その一閃に、確かな手応えはなかった。
刃が届いたはずの場所。
そこにあったはずのリゼリアさんの顔は、直前で植物の根に覆われ、まるで幻のように掻き消えていた。
切り裂いたのは、ただの外殻。
中は空虚で、命の気配すら感じられない。
「……っ、逃げた?」
声が、かすかに震える。
それは驚愕でも、恐怖でもない。
ただ、確かに掴んだはずのものが、指の隙間から零れ落ちたときの、あの感覚だった。
身を翻した、その刹那──。
「背中です!リゼリア様、背中におります!」
セラさんの声が、鋭く空気を裂いた。
迷いのない叫びが、戦場に響き渡る。
その言葉を聞くや否や、即座に反応した。
クラリーチェさんの身体をしっかりと抱き直し、再び地を蹴る。
風を裂き、触手の根をすり抜け、まるで迷いのない矢のように魔物の背後へと回り込んだ。
その動きは、まさに一瞬の芸術。
瞳は、すでに標的を捉えていた。
そこに──いた。
魔物の背中、うねる蔦の中心に、リゼリアさんの顔が浮かび上がっていた。
だが、私が近づいた瞬間、再び植物の根がその顔を覆い隠す。
「……隠してる。自分を……!」
瞳が細められる。
リゼリアさんの意識は、まだ残っている。
だが、それは深い苦しみと恐怖の中に沈み、外界を拒絶していた。
「リゼリアさん……!」
声は、静かに、しかし確かな意志を宿して放たれた。
その呼びかけは風に乗り、魔物の背へと届く。
だが、返答はなかった。
代わりに、魔物の巨体がわずかに震えた。
その身を包む瘴気が、まるで怒りと悲しみを混ぜ合わせたように濃く渦を巻き、空気を重く染めていく。
「……もう一度、行きます」
決意を込めて呟くと、クラリーチェさんをしっかりと抱きしめ直し、再び跳躍した。
植物の根を避け、空中で一回転。
風を裂くように身を翻し、しなやかに根の上へと着地する。
そのまま迷いなく、根を伝って異形の魔物の背へと駆け上がった。
その先に、リゼリアさんの顔があった。
すぐそこに。手を伸ばせば届くほどの距離に。
だが──。
その顔は、まるで蜃気楼のように揺らめき、目前でふっと掻き消えた。
「ミナイデェェェェェェェェl」
風が唸りを上げ、絶叫が空に木霊した。
それは空気そのものを引き裂くような咆哮で、世界が爆ぜるかのような衝撃が辺りを包む。
咄嗟にクラリーチェさんを強く抱きしめた。
その細い身体が突風にさらわれぬよう、全身で守る。
そして、自らも飛ばされぬよう、手にした刀を蔦へと深く突き立て、己の身体を固定した。
「キリがない……」
呟きは、風の残響にかき消されそうになった。
やがて突風が収まると、すぐに背後を振り返る。
だが、そこにリゼリアさんの顔はなかった。
魔物の背を這いずるように伸びる、無数の植物の根。
その異形の身体のあちこちに、リゼリアさんの顔が浮かんでは消え、また別の場所に現れては、すぐに霧のように溶けていく。
まるで、彼女自身がこの魔物と一体化し、どこにもいて、どこにもいないかのように——。
「猊下!!まとめて斬り飛ばせませんか!?」
背後から、セラさんの必死な声が飛んできた。
その叫びに、わずかに首を振る。
リゼリアさんのことを考えなければ、たしかに魔物を倒すのは難しくない。
この場にいる誰よりも、私自身がそれを理解していた。
だが──。
それでは、リゼリアさんを巻き添えにしてしまう。
彼女の命を奪ってしまうことになる。
瞳が、再び魔物のうねる根の奥を見据える。
その奥に、まだ救えるはずの命があると信じて。
「それだけは……ダメ」
声は、風に溶けるように静かだった。
だが、その一言には、揺るぎない決意が込められていた。
魔物の異形の身体を、リゼリアさんの顔が浮かんでは消え、また別の場所に現れては、すぐに霧のように溶けていく。
その動きは、まるで何かから逃げるように、あるいは、誰にも見つけられたくないと願っているかのようだった。
その姿に、胸を締めつけられる。
リゼリアさんは、まだ自分を保っている。
けれど、それはあまりにも脆く、今にも崩れてしまいそうな光の残滓だった。
「お願い、リゼリアさん……あなたを、見失いたくない」
瞳が、魔物の奥に揺れるその面影を、必死に追いかける。
「……逃げないで」
声は、風に溶けるほどにか細かった。
誰の耳にも届かぬほどの囁き。
けれど、その言葉は確かに、心から発せられたものだった。
瞳は、魔物のうねる根の奥に浮かぶリゼリアさんの面影を、まっすぐに見据えていた。
逃げ惑うように姿を変え、消えては現れるその顔を、決して見失わぬように。
──もう、斬るだけでは届かない。
静かに刀を構えた。
その刃先は、今や敵を討つためではなく、迷いの中に沈む魂へと手を差し伸べるためのもの。
そっと目を閉じる。
風が止み、世界が静寂に包まれる。
その胸の奥にある、確かな想いだけが、支えていた。
「……傲焔を通じて……翠蛇が共鳴している。これなら……通じる……はず」
静かに呟いた。
その声は、確信と祈りの狭間に揺れていた。
──その瞬間だった。
何かが、身体を貫いた。
それは熱でもなく、冷たさでもない。
ただ、深く、重く、底なしの闇に引きずり込まれるような感覚。
胸の奥に、何かが沈む。
視界が揺れ、色が滲み、音が遠ざかっていく。
世界の輪郭が、まるで水面に映った幻のようにぼやけていった。
それでも、刀を手放さなかった。
その刃に宿る想いだけが、彼女をこの場所に繋ぎとめていた。
──これは、魔力の共鳴。
リゼリアさんの魔力に、私の魔力がそっと触れた。
それは激突ではない。ぶつかり合う力ではなく、
まるで互いの心が、静かに、深く、境界を越えて重なり合うような感覚だった。
言葉では届かない場所に、想いだけが届いていく。
それは、祈りにも似た奇跡の瞬間だった。
「……セラさん!ごめんなさい!クラリーチェさんを頼みます!」
叫びが空を裂く。
その声に応えるように、異形の魔物の動きがぴたりと止まった。
そして、私自身の動きもまた、静かに止まっていた。
まるで、彼女の中で何かが決まったかのように。
風が止み、戦場に一瞬の静寂が訪れる。
「猊下!?」
意識が、深く沈んでいく。
まるで、深海に潜るように。
光の届かぬ場所へ、ただひとりで。
──夢を見ていた。




