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最弱の農民ロールの私、裏切った仲間ごと助けて救世主となる  作者: 農民
第3章:聖導リュミエール神聖学院
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第157話:祈りの刃、迷いの果てに


 クラリーチェさんが奪い返された、その瞬間だった。

 異形の中心に囚われていた彼女が、私の腕に抱きとめられた刹那——魔物の動きが、まるで糸が切れた操り人形のように狂い始めた。

 全身が痙攣し、黒く濁った瘴気がその体から爆ぜるように四方へと吹き荒れる。

 空気が震え、大地が呻き、世界が一瞬、息を呑んだ。


 そして、咆哮が響いた。

 それは怒りか、あるいは悲しみか。


 いや、どちらでもなかった。

 言葉を持たぬその声は、ただひたすらに、魂の奥底から絞り出された叫びだった。

 奪われたものへの執着と、取り戻せぬ絶望が、音となって世界を貫いた。


「来る……!」


 セラさんの叫びが空気を裂くよりも早く、魔物の身体から無数の触手がうねりを上げて飛び出した。

 黒く濁ったそれらは、まるで生き物のように蠢きながら、一直線に私へと襲いかかる。

 その腕の中には、まだ意識の戻らぬクラリーチェさんの姿があった。


 その瞬間、空間を震わせるような絶叫が響き渡った。


「ガェジデェェェェェェェェl!!!」


 それは言葉ではなかった。

 だが、確かに伝わってくる。

 奪われたという怒り、届かぬという絶望、そして、引き裂かれた心の痛み。

 魔物の咆哮は、理性を持たぬ存在の、ただひたすらに純粋な悲しみの叫びだった。


 一瞬の迷いもなく地を蹴った。

 白金のローブが風を裂き、宙へと舞い上がる。

 跳躍、回転、滑空、そして壁を蹴っての反転。


 すべての動きが一つの流れとなり、まるで風そのもののように、触手の間を縫って舞い踊った。

 殺意を孕んだ無数の触手が襲いかかる中、動きは一分の隙もなく、すべての攻撃を紙一重でかわしていく。

 腕の中に、クラリーチェさんの重みがある。

 意識を失ったその身体は、思ったより軽かった。

 その軽さが、胸の奥に刺さる。

 それでも、足は止まらない。止めるわけにはいかなかった。


「すご……」

「か……かっこよすぎます……聖女様……!」


 セラさんの背後、守られていた生徒たちが思わず息を呑む。

 目の前で繰り広げられる光景は、もはや人の技ではなかった。

 風を纏い、光を裂き、アニーは神話の戦乙女のように宙を舞っていた。


 そのまま魔物の胴体部へと一直線に迫る。

 蔦と鱗に覆われたその中心部——そこには、リゼリアさんの顔が、まるで呪われた宝石のように埋もれていた。


 瞳が鋭く細められる。

 次の瞬間、一瞬の隙を見逃さず、風を切るように刀を振り抜いた。


 銀光が走る。

 それは、希望の刃だった。


 ──だが。

 その一閃に、確かな手応えはなかった。


 刃が届いたはずの場所。

 そこにあったはずのリゼリアさんの顔は、直前で植物の根に覆われ、まるで幻のように掻き消えていた。

 切り裂いたのは、ただの外殻。

 中は空虚で、命の気配すら感じられない。


「……っ、逃げた?」


 声が、かすかに震える。

 それは驚愕でも、恐怖でもない。

 ただ、確かに掴んだはずのものが、指の隙間から零れ落ちたときの、あの感覚だった。


 身を翻した、その刹那──。


「背中です!リゼリア様、背中におります!」


 セラさんの声が、鋭く空気を裂いた。

 迷いのない叫びが、戦場に響き渡る。


 その言葉を聞くや否や、即座に反応した。

 クラリーチェさんの身体をしっかりと抱き直し、再び地を蹴る。

 風を裂き、触手の根をすり抜け、まるで迷いのない矢のように魔物の背後へと回り込んだ。


 その動きは、まさに一瞬の芸術。

 瞳は、すでに標的を捉えていた。


 そこに──いた。

 魔物の背中、うねる蔦の中心に、リゼリアさんの顔が浮かび上がっていた。


 だが、私が近づいた瞬間、再び植物の根がその顔を覆い隠す。


「……隠してる。自分を……!」


 瞳が細められる。

 リゼリアさんの意識は、まだ残っている。

 だが、それは深い苦しみと恐怖の中に沈み、外界を拒絶していた。


「リゼリアさん……!」


 声は、静かに、しかし確かな意志を宿して放たれた。


 その呼びかけは風に乗り、魔物の背へと届く。

 だが、返答はなかった。


 代わりに、魔物の巨体がわずかに震えた。

 その身を包む瘴気が、まるで怒りと悲しみを混ぜ合わせたように濃く渦を巻き、空気を重く染めていく。


「……もう一度、行きます」


 決意を込めて呟くと、クラリーチェさんをしっかりと抱きしめ直し、再び跳躍した。


 植物の根を避け、空中で一回転。

 風を裂くように身を翻し、しなやかに根の上へと着地する。

 そのまま迷いなく、根を伝って異形の魔物の背へと駆け上がった。


 その先に、リゼリアさんの顔があった。

 すぐそこに。手を伸ばせば届くほどの距離に。

 だが──。


 その顔は、まるで蜃気楼のように揺らめき、目前でふっと掻き消えた。


「ミナイデェェェェェェェェl」


 風が唸りを上げ、絶叫が空に木霊した。

 それは空気そのものを引き裂くような咆哮で、世界が爆ぜるかのような衝撃が辺りを包む。


 咄嗟にクラリーチェさんを強く抱きしめた。

 その細い身体が突風にさらわれぬよう、全身で守る。


 そして、自らも飛ばされぬよう、手にした刀を蔦へと深く突き立て、己の身体を固定した。


「キリがない……」


 呟きは、風の残響にかき消されそうになった。

 やがて突風が収まると、すぐに背後を振り返る。

 だが、そこにリゼリアさんの顔はなかった。


 魔物の背を這いずるように伸びる、無数の植物の根。


 その異形の身体のあちこちに、リゼリアさんの顔が浮かんでは消え、また別の場所に現れては、すぐに霧のように溶けていく。


 まるで、彼女自身がこの魔物と一体化し、どこにもいて、どこにもいないかのように——。


「猊下!!まとめて斬り飛ばせませんか!?」


 背後から、セラさんの必死な声が飛んできた。


 その叫びに、わずかに首を振る。


 リゼリアさんのことを考えなければ、たしかに魔物を倒すのは難しくない。


 この場にいる誰よりも、私自身がそれを理解していた。


 だが──。

 それでは、リゼリアさんを巻き添えにしてしまう。

 彼女の命を奪ってしまうことになる。

 瞳が、再び魔物のうねる根の奥を見据える。


 その奥に、まだ救えるはずの命があると信じて。


「それだけは……ダメ」


 声は、風に溶けるように静かだった。

 だが、その一言には、揺るぎない決意が込められていた。


 魔物の異形の身体を、リゼリアさんの顔が浮かんでは消え、また別の場所に現れては、すぐに霧のように溶けていく。

 その動きは、まるで何かから逃げるように、あるいは、誰にも見つけられたくないと願っているかのようだった。


 その姿に、胸を締めつけられる。

 リゼリアさんは、まだ自分を保っている。

 けれど、それはあまりにも脆く、今にも崩れてしまいそうな光の残滓だった。


「お願い、リゼリアさん……あなたを、見失いたくない」


 瞳が、魔物の奥に揺れるその面影を、必死に追いかける。


「……逃げないで」


 声は、風に溶けるほどにか細かった。

 誰の耳にも届かぬほどの囁き。

 けれど、その言葉は確かに、心から発せられたものだった。


 瞳は、魔物のうねる根の奥に浮かぶリゼリアさんの面影を、まっすぐに見据えていた。


 逃げ惑うように姿を変え、消えては現れるその顔を、決して見失わぬように。


 ──もう、斬るだけでは届かない。

 静かに刀を構えた。


 その刃先は、今や敵を討つためではなく、迷いの中に沈む魂へと手を差し伸べるためのもの。


 そっと目を閉じる。

 風が止み、世界が静寂に包まれる。

 その胸の奥にある、確かな想いだけが、支えていた。


「……傲焔を通じて……翠蛇が共鳴している。これなら……通じる……はず」


 静かに呟いた。

 その声は、確信と祈りの狭間に揺れていた。


 ──その瞬間だった。

 何かが、身体を貫いた。

 それは熱でもなく、冷たさでもない。

 ただ、深く、重く、底なしの闇に引きずり込まれるような感覚。


 胸の奥に、何かが沈む。

 視界が揺れ、色が滲み、音が遠ざかっていく。

 世界の輪郭が、まるで水面に映った幻のようにぼやけていった。


 それでも、刀を手放さなかった。

 その刃に宿る想いだけが、彼女をこの場所に繋ぎとめていた。


 ──これは、魔力の共鳴。

 リゼリアさんの魔力に、私の魔力がそっと触れた。

 それは激突ではない。ぶつかり合う力ではなく、

 まるで互いの心が、静かに、深く、境界を越えて重なり合うような感覚だった。


 言葉では届かない場所に、想いだけが届いていく。

 それは、祈りにも似た奇跡の瞬間だった。


「……セラさん!ごめんなさい!クラリーチェさんを頼みます!」


 叫びが空を裂く。

 その声に応えるように、異形の魔物の動きがぴたりと止まった。


 そして、私自身の動きもまた、静かに止まっていた。


 まるで、彼女の中で何かが決まったかのように。

 風が止み、戦場に一瞬の静寂が訪れる。


「猊下!?」


 意識が、深く沈んでいく。

 まるで、深海に潜るように。


 光の届かぬ場所へ、ただひとりで。

 ──夢を見ていた。


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