第156話:涙の蔓に囚われて
中庭は、もはや静寂の名残すら許されぬ戦場と化していた。
瘴気は濁流のように渦を巻き、裂けた大地からは熱気とともに黒煙が立ち昇る。
空気は重く、まるで世界そのものが息を潜めているかのようだった。
四方から這い出すのは、植物の魔物たち。
ねじれた蔓、牙を持つ花弁、毒を孕んだ葉。
その中心に、異形の存在が立ちはだかっていた。
かつてリゼリアと呼ばれた少女──今や魔物と化したその姿は、見る者の心を凍らせる。
全身は蔦と鱗に覆われ、蛇のようにうねる体躯が地を這う。
その先端にあるのは、かろうじて人の面影を残す顔。
苦悶に歪んだその表情は、確かにリゼリアのものだった。
虚ろな黒い瞳。その奥に、ひとしずくの涙が静かに揺れていた。
「リゼリア様……!」
その名を呼ぶ声は、震えていた。
セラ・ヴァルムは、杖を高く掲げたまま、魔物と化したかつての主の前に立ちはだかる。
その背後では、数人の生徒たちが恐怖に顔を引きつらせ、互いに身を寄せ合っていた。
逃げ遅れた彼らを守るため、セラは一歩も退かない。
「下がっていなさい。私が時間を稼ぐわ」
静かに、しかし確固たる決意を込めてそう告げると、彼女は目を閉じ、詠唱を始めた。
その声は低く、澄みわたり、まるで空気そのものを震わせるような力を帯びていた。
魔物の咆哮が響く中、セラの声だけが、確かな意志をもって空間を支配していた。
「ラディアント・バースト!!ルミナス・アージス!!フレア・インフェルノ!!」
セラさんの叫びとともに、杖の先端にまばゆい光が集まり始めた。
空間が震え、幾重にも重なる魔法陣が宙に浮かび上がる。
その展開速度と精緻な構築は、まさに“白耀の騎士”の異名にふさわしい。
魔名を用いた多重詠唱──それは、選ばれし者にしか扱えぬ超高等魔導技術。
学院の生徒でそれを成し得る者は、セラ・ヴァルムをおいて他には1名だけである。
「聖光断罪陣!」
多重魔法を込めた魔名の詠唱が空を裂いた瞬間、光と炎が交錯する閃光が放たれた。
それはまるで天の裁きのように、魔物の蔓を焼き尽くす。
断末魔のような咆哮が中庭に響き渡り、渦巻いていた瘴気が一瞬だけ後退する。
だが、セラの魔法が焼き払ったのは、あくまで正面の一角に過ぎなかった。
中庭の至るところから、植物の魔物たちはなおも蠢き、彼女を包囲するように迫ってくる。
左右から伸びる蔓が、蛇のようにうねりながら彼女の身体を狙って跳ね上がった。
「……ふん。無駄よ!」
彼女の周囲には聖なる意志を宿したその光の障壁がある。
魔物の芽が触れた瞬間に焼き尽くされ、侵食を許さなかった。
攻撃だけではない。
セラ・ヴァルムが紡ぐ魔法には守りも込められていた。
「この調子なら……猊下が来るまでの時間は稼げそうね……ヴォルト・ストライク!!」
セラさんが次なる魔法の詠唱に入ろうとした、その刹那だった。
後方の影から、ひとりの生徒がよろめくように飛び出してきた。
「っ……!」
その姿を捉えた瞬間、セラの胸に冷たい戦慄が走る。
魔物の蔓が、まるで獲物を見つけた蛇のように、しなやかに、だが容赦なくその生徒へと伸びていく。
セラさんは即座に詠唱を断ち切り、振り返ると同時に駆け出した。
風を裂くように走り、間一髪で生徒を抱きかかえる。
「大丈夫!?」
その声は、鋼のように強く、けれどどこか優しさを含んでいた。
彼女は背に鋭い痛みを感じている。
魔物の蔓が彼女のローブを引き裂き、無数の棘が肌を貫いていた。
鮮やかな紅が宙に舞い、地に落ちる。
だが、セラは倒れない。
その腕の中で震える生徒を、決して離さなかった。
「セラ先生!!」
悲鳴が、張り詰めた空気を裂いた。
振り返った生徒の瞳には、血に染まったセラの背が映っていた。
その身を盾にして守られたことを理解した瞬間、恐怖と混乱が叫びとなって溢れ出す。
セラさんは、苦悶に顔を歪めながらも、なおも立ち上がっていた。
その手には、なお力強く握られた杖。
彼女は歯を食いしばり、震える膝を押さえつけるようにして、再び杖を振り上げる。
「フレア・インフェルノ……!聖雷炎展開・第二層……!」
その詠唱とともに、雷鳴が轟き、炎が爆ぜた。
雷と炎が交錯しながら奔流となって放たれ、迫りくる蔓を焼き尽くす。
魔物の追撃は、光と熱の壁に阻まれ、届くことはなかった。
──このままでは、持たない。
セラさんの胸中に、冷たい現実が突き刺さる。
魔物は、なおもその力を増していた。
天を衝くように振り上げられた蔓は、これまでの比ではないほど巨大で、その先端には無数の棘が蠢き、まるで生き物のように獲物を求めていた。
空が陰り、瘴気が渦を巻く。
その中心で、セラは血に染まったローブを翻し、ふらつく足を無理やり踏みしめて立ち上がる。
杖を再び握りしめ、彼女は魔物を真っ直ぐに見据えた。
「来なさい……私は、まだ……!」
その声はかすれていた。
だが、そこには確かな意志があった。
──そのときだった。
魔物の咆哮によって空が裂けた。
眩い閃光が天を貫き、直後、轟く雷鳴が中庭を震わせ、魔物達を焼き尽くした。
逆巻く風が瘴気を吹き飛ばし、重く淀んでいた空気が一瞬にして澄み渡った。
「……!」
セラさんは目を見開いた。
その視線の先──
無数に蠢いていた植物の魔物たちは、まるで幻だったかのように消え去っていた。
残されていたのは、ただ一体。
蔦と鱗に覆われ、なおも人の面影を残す、変貌したリゼリアだけだった。
「……遅いじゃないのよ……もう」
セラさんは血に濡れた唇をわずかに歪め、空を見上げた。
その顔には、痛みと疲労の中に、確かな安堵の色が浮かんでいた。
雲を裂くようにして、白と金のローブを纏った影が降り立つ。
その姿は光に包まれ、まるで神話から抜け出したかのようだった。
顔を覆う布の中央には、燃え盛る炎の中に立つ一本の剣──“勇気の座”の聖印が、はっきりと刻まれている。
「勇気の聖女……様?」
セラさんの背後で、彼女に守られていた女子生徒が、息を呑んでつぶやいた。
その声には、畏敬と希望が入り混じっていた。
学院が崩れ落ちようとしていたその瞬間、聖女が自らの手で救いの光をもたらしたのだった。
舞い降りた勇気の聖女は、明らかに魔力による音声と分かる声で虚空へ言葉を紡ぐ。
「……ミリアリーデ様、傲焔の使用許可を──」
『──許可します』
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
意識が、遠い。
蔓に絡め取られてから、どれほどの時間が経ったのかも分からなかった。
身体は動かない。魔力も、もはや指先まで届かない。
冷たい。痛い。それだけがわかる。
暗闇の中、どこか遠くで魔法の炸裂する音がした。
誰かの声。
詠唱の響き。
──この声は?セラ先生?
かすかに名前を呼ぼうとしたが、唇は震えるだけで声にならなかった。
そのとき。
瘴気の奥で、何かが変わった。
重く淀んでいた空気が、一瞬にして吹き散らされた。
眩い閃光が暗闇を裂き、轟く雷鳴が中庭を揺らした。
次の瞬間、蔓の隙間から光が差し込んでくる。
「まずは……クラリーチェさんを助けます。セラさん……っ……お願いします」
「……はい!猊下……お任せください」
声が、降ってきた。
風が唸り、空気が震える。
直後、蔓ごと身体を引き裂くような衝撃とともに、重力が消えた。
気づいたとき、私は誰かの腕の中にいた。
「……ま……また……助けて……くださったのですね……」
霞む視界の中で、懸命に目を開く。
白金のローブが、風に揺れていた。
顔を覆う布の中央に、燃え盛る炎の中に立つ一本の剣──"勇気の座"の聖印が、はっきりと刻まれていた。
ああ。
あの日と同じだ、と思った。
命の危機に瀕したあの日、光の中から差し伸べられた手のことを、私はずっと忘れていなかった。
あの背中が、またここにいる。




