第155話:緑の咆哮。白の軍勢。
温室の天窓から差し込む朝の光が、薬草たちの葉を柔らかく照らしていた。
ノエルは棚の整理をしながら、ミーナと軽口を交わしていた。
「この抽出液、やっぱり反応が顕著だ」
「やっぱり訓練区域に近い植物の方が反応を示すのね。次は寮棟のを試してみましょう」
ミーナは棚の上の瓶を手に取り、光にかざして中身を確認していた。
そのときだった。
──パキン。
乾いた音が、温室の奥から響いた。
ノエルとミーナが顔を見合わせる。
「……今の、何の音?」
ミーナが眉をひそめた。
ノエルは無言で歩を進め、温室の北側へと向かう。
そこには、昨日アニーが異変を感じ取ったリュミエルの鉢が並んでいた。
──そして、見た。
鉢のひとつが、内側から割れていた。
土が盛り上がり、根が……いや、根ではない。
それは、蔦のようなものが蠢きながら、鉢の縁を越えて這い出していた。
「ミーナ、下がって!」
ノエルが叫ぶと同時に、温室の床を這うようにして、複数の蔦が一斉に動き出した。それはまるで、温室全体が目を覚ましたかのようだった。
「なにこれ……なにこれっ!?」
ミーナが悲鳴を上げ、後ずさる。
蔦は棚をなぎ倒し、薬草の鉢を砕きながら、二人に向かって伸びてくる。
「走れ!」
ノエルがミーナの手を引き、温室の扉へと駆け出す。だが、蔦は容赦なく追いすがり、扉の前にまで伸びていた。
そのとき、外から鋭い声が響いた。
「下がれ!」
温室の扉が爆ぜるように開き、ひとりの教員が駆け込んできた。手にした杖を振ると、眩い光が迸り、蔦を焼き払う。
「先生……!」
「無事か、君たち!」
教員は二人を庇うように前に立ち、次々と迫る蔦を魔法で焼き払っていく。だが、焼かれたはずの蔦の根元から、さらに新たな芽が伸びてくる。
「再生してる……!」
ノエルが息を呑む。
温室の壁を突き破って、さらに大きな蔓が侵入してきた。
それはまるで蛇のようにうねり、天井の梁に巻きついてから、真上から二人を狙って落ちてくる。
「伏せて!」
教員が再び魔法を放つが、数が多すぎる。
温室の構造そのものが、すでに魔物の巣と化していた。
「外へ出るぞ!このままじゃ包囲される!」
教員が叫び、ノエルとミーナを促す。
三人は温室を飛び出し、裏庭へと駆け出した。
だが、背後からはなおも蔦が追いすがり、地面を裂いて新たな魔物が姿を現す。
「私が時間を稼ぐ!!その内に校門へ向かえ!!教員と生徒会で誘導している!」
「は、はい!!」
教員に言われて温室を飛び出したノエルとミーナは、裏庭の小道を駆け抜けていた。
背後では、蔦の魔物たちが地を這い、壁を這い、まるで生きた森が追いすがるかのように迫ってくる。それを教員達が魔法で何とか追い払っている姿が見えた。
「早く!こっち、こっち!」
「うん!……あっ!」
ミーナが振り返った瞬間、蔦の一本が地面を裂いて飛び出し、彼女の足首を絡め取った。悲鳴とともに倒れ込むミーナ。ノエルがすぐに駆け寄り、杖で蔦を叩き斬る。
「立てるか!」
「う、うん……!」
だが、逃げ道は塞がれていた。
校舎の外壁を突き破って現れた巨大な蔓が、まるで門のように二人の前に立ちはだかる。
その奥から、さらに数体の植物の魔物が姿を現す。
花弁のような口を開き、毒の香を撒き散らしながら、じわじわと距離を詰めてくる。
「……終わった……?」
ミーナが呟いたそのときだった。
──地が、鳴った。
大地の奥底から響くような、重く、低い音。
次の瞬間、裏庭の地面が爆ぜた。
何が巨大なものが落下してきたのだろう。
土煙を巻き上げながら、その巨大な影が姿を現した。
それは、地龍だった。
地の支配者は悠然とこちらを見下ろしている。
その巨大な瞳が、ノエルたちを捉える。
冷たい、感情のない視線。まるで、次の獲物を選別する狩人のようだった。
一歩、また一歩と、地を踏みしめながら近づいてくるたびに、地面が沈み、足元の揺れる。
その体躯は、神話に語られる古の怪物そのものだった。頭部は異様なまでに大きく、鋭く湾曲した牙が並ぶ顎は、まるで一撃で命を刈り取るために存在しているかのようだ。小さな前肢には鋭利な鉤爪が光り、飾りのように見えても油断はできない。
「……地龍……!」
ノエルが息を呑む。
本来ならば、地龍は人間を見れば即座に襲いかかるはずだった。だが、次の瞬間
地を蹴る音が雷鳴のように響き、地龍は一直線に植物の魔物へと突進した。太く隆起した筋肉が、地を蹴るたびに爆発的な推進力を生み出す。長くしなやかな尾が、まるで鞭のように空を切り、完璧なバランスを保っていた。
その巨体が蔦を薙ぎ払い、牙が魔物の胴を食いちぎる。触手が暴れ、毒の花粉が舞うが、地龍は怯むことなく、次々と魔物を踏み潰していく。
「な、なんで……私たちを襲わないの……?」
ミーナが呆然と呟く。
ノエルもまた、信じられないものを見るような目で地龍を見つめていた。
地龍は、まるで“選んでいる”かのようだった。
その瞳は一度たりともノエルたちを見なかった。
ただ、植物の魔物だけを狙い、確実に、冷酷に、狩っていく。
だが──。
地龍が一体を踏み潰したその瞬間、地面のあちこちから新たな蔓が噴き出した。
まるで地龍の出現に呼応するかのように、植物の魔物たちが次々と現れ、地龍の周囲を取り囲んでいく。
「数が……増えてる……!」
ノエルとミーナが再び立ち止まった時だ。
上空で空間が軋むような不協和音を響かせ、まるで世界そのものが悲鳴を上げるかのように虚空が裂けた。そこから現れたのは、天を統べる者──。
天竜の銀の瞳は、遥か高みから人の営みを見下ろすように冷ややかで、けれどその奥底には、長き時を生きた者だけが抱える深い哀しみが滲んでいた。
偉大なる空の支配者が翼を広げた瞬間、空気が悲鳴を上げる。
逆巻く風が雷鳴を纏って、裏庭の植物の魔物を一斉に焼き尽くす。
「……嘘……でしょ?」
「ははは……まるで従えているみたいだ……ね」
2人が目を見張ったのは、天龍の姿ではない。
地を這うように伏せた地龍が、重々しく顎を大地に預けている。
一方、空を裂くように舞っていた天龍は、ゆるやかに旋回しながら降下し、その鋭い双眸を伏せ、頭を垂れた。
まるで、空の覇者としての誇りを手放すかのように。
二柱の龍が、同時に膝を折る。
その先の姿に2人は目を見張ったのだ。
そして、彼らの視線の先には、翼を広げた一体のグリフォン。
天使のような翼を持ち、その体毛はすべて純白だ。伝承に語られるグリフォンからは明らかに逸脱しており、まるで白銀のグリフォンとも言うべきその姿は、神話の頁から抜け出したかのように荘厳で、見る者すべての心を奪う威厳を湛えていた。
「ねぇ……あのグリフォンって……もしかしてさ」
「うん……間違いない……勇気の聖女様の……グリフォン……」
龍を従えて降臨したグリフォンを見上げるミーナの瞳には希望の光が灯っていた。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
白銀の翼を広げ、グリーは高空から地上を見下ろしていた。冷たい風がそのたてがみを撫で、鋭い眼差しが遥か下の光景を捉える。
彼女はアニーが生み出した魔物の指揮を任されていた。その手腕は見事であり、魔物で生い茂る学院において、死者は出ていない。
主の親しき学友が、裏庭で教員と共に奮闘の末、無事な姿を見せたのを確認すると、グリーはゆるやかに翼を傾け、次なる視線を寮棟へと移した。
そこには、アニーを日頃から悩ませていた女生徒たちの姿があった。
彼女たちは今、絡みつく蔓と咲き乱れる毒花に囲まれ、逃げ場のない絶望の淵に立たされていた。
グリーの瞳が細められる。冷ややかに、まるで価値のないものを見るように、彼女たちを見下ろす。
そのまま翼を翻し、見捨ててしまいたい衝動が胸をよぎる。
だが、グリーは主から託された命を思い出す。忠義を誓った者として、感情に流されるわけにはいかない。彼女は一声、鋭く空を裂くように鳴いた。
『ツッチー殿とウッシー殿、寮棟を頼めるか?』
グリーの声が空を震わせるように響いた。
『御意!』
『心得ましたでござる!』
応じたのは、牛鬼と土蜘蛛。
かつては魔物と呼ばれた存在だが、今やその枠すら超越している。
天龍すらも凌駕する力を持ち、主の影響を受けて進化を遂げた異形の戦士たちである。
彼らが動いた瞬間、空気が震えた。
牛鬼の咆哮が大地を揺らし、土蜘蛛の足音が雷鳴のように響く。
植物の魔物によって鬱蒼たる森と化していた寮棟は、まるで幻だったかのように、瞬く間に刈り払われていった。
蔓は焼かれ、花は砕かれ、根は引き裂かれる。圧倒的な力の奔流に、魔物たちはなす術もなく消えていく。
そして、グリーは天を裂くように翼を広げた。
白銀の羽が陽光を反射し、空に一瞬、神々しい光の弧を描く。
そして、彼女は咆哮とともに叫んだ。
『皆の者!心得よ!今こそは主の晴れ舞台!!勇気の聖女が威光を示せ!!誰一人……死なせるな!!』
その声は雷鳴のごとく学院全体に響き渡り、空気を震わせた。
次の瞬間、地の底から湧き上がるような咆哮が学院内を満たす。
それは怒りでも恐怖でもない。
燃え上がる闘志の咆哮。アニーが生み出した白の軍勢──彼女の力により命を得た魔物たちが、一斉に雄叫びを上げたのだ。




