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最弱の農民ロールの私、裏切った仲間ごと助けて救世主となる  作者: 農民
第3章:聖導リュミエール神聖学院
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第154話:勇気の聖女


 学院の中庭に足を踏み入れた瞬間、セラさんとともにぴたりと歩みを止めた。


 何かが違う。



 空気が、妙に重たい。

 まるで世界そのものが、透明な膜に包まれてしまったかのようだった。


 風は止み、鳥のさえずりも遠のいて、時間だけが静かに軋んでいた。


 二人は顔を見合わせ、言葉を交わすことなく、その異様な気配の正体を探るように、じっと耳を澄ませた。


「……あれは」


 セラさんは目を細め、じっと前方を見据えた。

 その視線の先、広場の中央に張られた結界が、淡い光を帯びて脈動している。


 本来ならば清浄なる力で満たされているはずの聖域結界──。

 クラリーチェさんが展開したものだ。


 だが今、その内側は黒い瘴気に覆われ、まるで生き物のように渦を巻いていた。

 濃霧のように揺らめくそれは、内部の様子を完全に遮っている。


 結界の表面には無数のひびが走り、光の膜は今にも砕け散りそうなほど脆く、危うい。


 胸に、言い知れぬ不安がじわりと広がっていった。


「間に合って……!」


 地を蹴った。

 風を切るように駆け出すその姿に、セラさんが思わず手を伸ばすも、声は喉の奥で凍りついた。


「今はダメよ!」

「っ!」


 広場に漂う異様な気配に、周囲の生徒たちもざわめき始める。

 何事かと足を止める者、興味本位で近づく者、恐怖に顔を引きつらせて後ずさる者──。


 だが、誰一人として知らなかった。

 あの結界の内側で、何が起きているのかを。

 ただ、ひび割れた光の膜が、静かに、しかし確実に崩壊へと向かっていることだけは、誰の目にも明らかだった。


「全員、下がって!」


 セラさんの叫びが、鋭く空気を裂いた。


 その瞬間だった。

 結界が、砕けた。

 甲高い破裂音が響き渡り、まるで無数のガラスが一斉に砕け散ったかのように、光の膜が粉々に弾け飛ぶ。


 次の瞬間、黒い瘴気が爆発のように四方へと吹き荒れ、広場を覆い尽くした。


 視界が闇に染まり、空気が震える。

 そして──。


 その中心から、何かが飛び出してきた。

 それは影のように素早く、禍々しい気配をまといながら、一直線に迫ってきた。


「っ……!」


 息を呑んだ。

 目の前に現れたそれは、常識の枠を逸脱した異形の存在だった。


 植物のように絡み合う蔦が、まるで意志を持つかのようにうねり、蛇のような胴体と成して、地を這いながら不気味な音を立てて進んでくる。


 その顔の中央には、深い闇を湛えた黒い瞳があり、見る者の心を吸い込むように揺れていた。


 そして──。


 その蛇の顔は苦悶に歪んだ、リゼリアさんの顔だ。

 信じがたい現実が、胸を締めつける。


 あの優しかった彼女が、なぜこんな姿に……?

 答えのない問いが、心をかき乱した。


「リゼリア……さん……?」


 声は震えていた。

 恐怖からではない。

 目の前の現実が、あまりにも残酷だったからだ。


 異形の魔物、そこにリゼリアの面影が微かに残っている。


 その唇が、何かを訴えるようにわずかに動いた。

 助けて、と言いたかったのかもしれない。

 だがその声は届かず、苦悶に歪んだその表情は、もはや人のものではなかった。


 胸に、鋭い痛みが走る。

 目の前にいるのは、友か、それとも──。


 その瞬間、異形の魔物がうねる触手を放った。

 鋭く空を裂く音とともに、黒い蔦のようなそれがアニーへと襲いかかる。

 

「っ!」


 セラさんが咄嗟に杖を振るい、まばゆい光の奔流が放たれた。

 閃光が触手を弾き飛ばし、地面に火花が散る。

 

「お下がりください……この状況では、アニー猊下のお力を発揮することはできません」


 セラさんの声は冷静で、しかしその奥に焦燥が滲んでいた。


 彼女は素早く周囲を見渡す。

 騒ぎを聞きつけて集まってきた生徒たちが、広場の周囲に群がっていた。


 恐怖と興奮が入り混じった視線が、セラさんと私、そして異形の魔物に注がれている。

 その注目が、まるで重圧のようにのしかかっていた。


「セラ先生……」


 声には、揺れる不安が滲んでいた。


「ご安心を。ご学友は、必ずや助けてみせます」


 静かだが力強い声でそう告げると、セラさんは杖を掲げて魔法陣を展開した。


 淡い光が彼女を包み込み、堅牢な障壁がその身を守る。

 そして、セラさんの視線が、瘴気の奥に倒れている人影を捉えた。


 ユリウスさん──。

 迷いはなかった。

 セラさんは躊躇なく駆け出し、黒い瘴気を裂いてそのもとへと突き進む。


 地に伏した彼の身体を抱き起こし、首筋に指を当てる。


「まだ生きてる……!」


 安堵と焦りが交錯する中、セラさんはユリウスさんを抱え上げ、結界の外へと引きずり出した。


 その瞬間、駆け寄り、彼の傍に膝をつく。


「ユリウスさん……!」


 声が震える。

 その手が、そっと彼の額に触れた。

 微かに残る体温が、彼の命がまだ灯っていることを告げていた。


 だが、その熱はあまりにも弱々しく、彼がどれほどの力を使い果たしたのかを物語っていた。


「次は……クラリーチェさんね……!」


 セラさんが静かに立ち上がり、前を見据える。

 瘴気の渦巻く魔物の中心部──。

 絡み合う蔓と鱗の隙間から、ひとつの顔が覗いていた。


 それは、クラリーチェさんだった。


 クラリーチェさんの身体は、異形の魔物の外殻に完全に取り込まれていた。

 まるで繭に閉じ込められたかのように、身動きひとつ取れず、ただ顔だけが外に露出している。


 その瞼は閉じられ、眉間には深い苦悶の皺が刻まれていた。

 まるで悪夢の中に囚われているかのように──。


「必ず助けるわ……!」


 セラさんの声が震えた。

 その言葉には、祈りにも似た切実さがあった。

 目の前の現実に打ちのめされながら、それでも前を向こうとするその姿に、胸が締めつけられる。


 そして──。

 魔物の中心部、クラリーチェさんを包み込むように蠢く蔓の奥に、もうひとつの顔があった。


 黒く染まった瞳、苦悶に歪んだ表情。

 それは、リゼリアさんだった。


 クラリーチェさんとリゼリアさん。

 ふたりの姿は魔物の核に取り込まれ、その存在そのものが、この異形の力の源となっているように見えた。


「……いえ、違うわね」


 セラさんが低く呟く。

 その瞳に、確信の光が宿る。


「リゼリア様……貴女が、クラリーチェさんを取り込んでいるのね」


 その言葉を聞いて、目の奥が痛くなった。

 リゼリアさんの意識は、まだどこかにある。


 完全に消えてはいない。

 それだけは感じ取れた。


 だが、その魔力は暴走し、制御を失ったまま、周囲の空間すら侵食し始めている。


 空気が軋み、光が歪み、世界そのものがゆっくりと崩れていくような感覚。


「……アニー猊下、ユリウスくんを頼みます」

「え?」


 そのとき、耳元で微かな音が響いた。


 ──カチッ。

 懐に仕込まれた通信石が、淡く光を放ち、ミリアリーデ様の声が静かに届いた。


『アニーさん。今は下がりなさい。ここはセラに任せるのです』

「でも……!」


『あなたの力と素性を、ここで明かすべきではありません。しかし、2人を助けるには貴女の力が必要です。今は、指定の場所へ』

「……」


 唇を噛みしめた。

 けれど、ミリアリーデ様の声には、揺るぎない信頼と確信があった。


「……わかりました」


 ユリウスさんの身体を背負い、その場を離れた。




 混乱と瘴気に満ちた広場から遠ざかり、向かったのは学院の裏庭──。

 人の気配がほとんどない静かな場所だった。


 そこには、白耀騎士団の2人が待っていた。

 白銀の鎧に身を包み、凛とした佇まいで立つその騎士は、私の姿を認めると無言で一歩前に出る。


 そして、胸に拳を当てて敬礼を捧げると、1人は慎重にユリウスさんの身体を受け取った。


 同時に、もう1人は荷物から一枚の白いローブを取り出して差し出す。


 それは、聖務に臨む者だけが身にまとう、金糸の刺繍が施された荘厳な装束であり、祈りと誓いの象徴だった。


 その布を見つめ、静かに息を吸い込んだ。

 今、自分がなすべきことはただひとつ──。

 仲間を救い、この絶望に光をもたらすこと。

 瞳に、揺るぎない決意の光が宿った。


 静かに装束を受け取り、ひとつひとつの動作を確かめるように身に纏っていく。


 そして、最後に手に取ったのは顔を覆うための布。

 その中央には、燃え盛る炎の中に立つ一本の剣の紋章が刻まれていた。


 “勇気の座”──。

 それは、選ばれし者にのみ与えられる聖印。


『これで、勇気の聖女とアニーさんが結びつくことはありません。そのローブには認識疎外と探知防止の魔術が幾重にも盛り込まれています』


 通信端末からミリアリーデ様の声が静かに響く。

 深く息を吸い、布を顔に巻いた。

 もはや、迷いはなかった。


「ありがとうございます……私、やります!」

『覚悟が決まっているようですね……任せましたよ』

「はい!」


 その声は、確かに未来へと踏み出す者のものだった。


 静かに歩き出す。

 仲間を救うために。

 そして、自らの運命を切り拓くために──。


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