第154話:勇気の聖女
学院の中庭に足を踏み入れた瞬間、セラさんとともにぴたりと歩みを止めた。
何かが違う。
空気が、妙に重たい。
まるで世界そのものが、透明な膜に包まれてしまったかのようだった。
風は止み、鳥のさえずりも遠のいて、時間だけが静かに軋んでいた。
二人は顔を見合わせ、言葉を交わすことなく、その異様な気配の正体を探るように、じっと耳を澄ませた。
「……あれは」
セラさんは目を細め、じっと前方を見据えた。
その視線の先、広場の中央に張られた結界が、淡い光を帯びて脈動している。
本来ならば清浄なる力で満たされているはずの聖域結界──。
クラリーチェさんが展開したものだ。
だが今、その内側は黒い瘴気に覆われ、まるで生き物のように渦を巻いていた。
濃霧のように揺らめくそれは、内部の様子を完全に遮っている。
結界の表面には無数のひびが走り、光の膜は今にも砕け散りそうなほど脆く、危うい。
胸に、言い知れぬ不安がじわりと広がっていった。
「間に合って……!」
地を蹴った。
風を切るように駆け出すその姿に、セラさんが思わず手を伸ばすも、声は喉の奥で凍りついた。
「今はダメよ!」
「っ!」
広場に漂う異様な気配に、周囲の生徒たちもざわめき始める。
何事かと足を止める者、興味本位で近づく者、恐怖に顔を引きつらせて後ずさる者──。
だが、誰一人として知らなかった。
あの結界の内側で、何が起きているのかを。
ただ、ひび割れた光の膜が、静かに、しかし確実に崩壊へと向かっていることだけは、誰の目にも明らかだった。
「全員、下がって!」
セラさんの叫びが、鋭く空気を裂いた。
その瞬間だった。
結界が、砕けた。
甲高い破裂音が響き渡り、まるで無数のガラスが一斉に砕け散ったかのように、光の膜が粉々に弾け飛ぶ。
次の瞬間、黒い瘴気が爆発のように四方へと吹き荒れ、広場を覆い尽くした。
視界が闇に染まり、空気が震える。
そして──。
その中心から、何かが飛び出してきた。
それは影のように素早く、禍々しい気配をまといながら、一直線に迫ってきた。
「っ……!」
息を呑んだ。
目の前に現れたそれは、常識の枠を逸脱した異形の存在だった。
植物のように絡み合う蔦が、まるで意志を持つかのようにうねり、蛇のような胴体と成して、地を這いながら不気味な音を立てて進んでくる。
その顔の中央には、深い闇を湛えた黒い瞳があり、見る者の心を吸い込むように揺れていた。
そして──。
その蛇の顔は苦悶に歪んだ、リゼリアさんの顔だ。
信じがたい現実が、胸を締めつける。
あの優しかった彼女が、なぜこんな姿に……?
答えのない問いが、心をかき乱した。
「リゼリア……さん……?」
声は震えていた。
恐怖からではない。
目の前の現実が、あまりにも残酷だったからだ。
異形の魔物、そこにリゼリアの面影が微かに残っている。
その唇が、何かを訴えるようにわずかに動いた。
助けて、と言いたかったのかもしれない。
だがその声は届かず、苦悶に歪んだその表情は、もはや人のものではなかった。
胸に、鋭い痛みが走る。
目の前にいるのは、友か、それとも──。
その瞬間、異形の魔物がうねる触手を放った。
鋭く空を裂く音とともに、黒い蔦のようなそれがアニーへと襲いかかる。
「っ!」
セラさんが咄嗟に杖を振るい、まばゆい光の奔流が放たれた。
閃光が触手を弾き飛ばし、地面に火花が散る。
「お下がりください……この状況では、アニー猊下のお力を発揮することはできません」
セラさんの声は冷静で、しかしその奥に焦燥が滲んでいた。
彼女は素早く周囲を見渡す。
騒ぎを聞きつけて集まってきた生徒たちが、広場の周囲に群がっていた。
恐怖と興奮が入り混じった視線が、セラさんと私、そして異形の魔物に注がれている。
その注目が、まるで重圧のようにのしかかっていた。
「セラ先生……」
声には、揺れる不安が滲んでいた。
「ご安心を。ご学友は、必ずや助けてみせます」
静かだが力強い声でそう告げると、セラさんは杖を掲げて魔法陣を展開した。
淡い光が彼女を包み込み、堅牢な障壁がその身を守る。
そして、セラさんの視線が、瘴気の奥に倒れている人影を捉えた。
ユリウスさん──。
迷いはなかった。
セラさんは躊躇なく駆け出し、黒い瘴気を裂いてそのもとへと突き進む。
地に伏した彼の身体を抱き起こし、首筋に指を当てる。
「まだ生きてる……!」
安堵と焦りが交錯する中、セラさんはユリウスさんを抱え上げ、結界の外へと引きずり出した。
その瞬間、駆け寄り、彼の傍に膝をつく。
「ユリウスさん……!」
声が震える。
その手が、そっと彼の額に触れた。
微かに残る体温が、彼の命がまだ灯っていることを告げていた。
だが、その熱はあまりにも弱々しく、彼がどれほどの力を使い果たしたのかを物語っていた。
「次は……クラリーチェさんね……!」
セラさんが静かに立ち上がり、前を見据える。
瘴気の渦巻く魔物の中心部──。
絡み合う蔓と鱗の隙間から、ひとつの顔が覗いていた。
それは、クラリーチェさんだった。
クラリーチェさんの身体は、異形の魔物の外殻に完全に取り込まれていた。
まるで繭に閉じ込められたかのように、身動きひとつ取れず、ただ顔だけが外に露出している。
その瞼は閉じられ、眉間には深い苦悶の皺が刻まれていた。
まるで悪夢の中に囚われているかのように──。
「必ず助けるわ……!」
セラさんの声が震えた。
その言葉には、祈りにも似た切実さがあった。
目の前の現実に打ちのめされながら、それでも前を向こうとするその姿に、胸が締めつけられる。
そして──。
魔物の中心部、クラリーチェさんを包み込むように蠢く蔓の奥に、もうひとつの顔があった。
黒く染まった瞳、苦悶に歪んだ表情。
それは、リゼリアさんだった。
クラリーチェさんとリゼリアさん。
ふたりの姿は魔物の核に取り込まれ、その存在そのものが、この異形の力の源となっているように見えた。
「……いえ、違うわね」
セラさんが低く呟く。
その瞳に、確信の光が宿る。
「リゼリア様……貴女が、クラリーチェさんを取り込んでいるのね」
その言葉を聞いて、目の奥が痛くなった。
リゼリアさんの意識は、まだどこかにある。
完全に消えてはいない。
それだけは感じ取れた。
だが、その魔力は暴走し、制御を失ったまま、周囲の空間すら侵食し始めている。
空気が軋み、光が歪み、世界そのものがゆっくりと崩れていくような感覚。
「……アニー猊下、ユリウスくんを頼みます」
「え?」
そのとき、耳元で微かな音が響いた。
──カチッ。
懐に仕込まれた通信石が、淡く光を放ち、ミリアリーデ様の声が静かに届いた。
『アニーさん。今は下がりなさい。ここはセラに任せるのです』
「でも……!」
『あなたの力と素性を、ここで明かすべきではありません。しかし、2人を助けるには貴女の力が必要です。今は、指定の場所へ』
「……」
唇を噛みしめた。
けれど、ミリアリーデ様の声には、揺るぎない信頼と確信があった。
「……わかりました」
ユリウスさんの身体を背負い、その場を離れた。
混乱と瘴気に満ちた広場から遠ざかり、向かったのは学院の裏庭──。
人の気配がほとんどない静かな場所だった。
そこには、白耀騎士団の2人が待っていた。
白銀の鎧に身を包み、凛とした佇まいで立つその騎士は、私の姿を認めると無言で一歩前に出る。
そして、胸に拳を当てて敬礼を捧げると、1人は慎重にユリウスさんの身体を受け取った。
同時に、もう1人は荷物から一枚の白いローブを取り出して差し出す。
それは、聖務に臨む者だけが身にまとう、金糸の刺繍が施された荘厳な装束であり、祈りと誓いの象徴だった。
その布を見つめ、静かに息を吸い込んだ。
今、自分がなすべきことはただひとつ──。
仲間を救い、この絶望に光をもたらすこと。
瞳に、揺るぎない決意の光が宿った。
静かに装束を受け取り、ひとつひとつの動作を確かめるように身に纏っていく。
そして、最後に手に取ったのは顔を覆うための布。
その中央には、燃え盛る炎の中に立つ一本の剣の紋章が刻まれていた。
“勇気の座”──。
それは、選ばれし者にのみ与えられる聖印。
『これで、勇気の聖女とアニーさんが結びつくことはありません。そのローブには認識疎外と探知防止の魔術が幾重にも盛り込まれています』
通信端末からミリアリーデ様の声が静かに響く。
深く息を吸い、布を顔に巻いた。
もはや、迷いはなかった。
「ありがとうございます……私、やります!」
『覚悟が決まっているようですね……任せましたよ』
「はい!」
その声は、確かに未来へと踏み出す者のものだった。
静かに歩き出す。
仲間を救うために。
そして、自らの運命を切り拓くために──。




