第153話:白耀の誓い
──軋んだ。
セラ・ヴァルムは羽根ペンを止めた。
書きかけの報告書の上で、インクが一滴、ゆっくりと滲む。
窓の外は沈む太陽の光に満ちている。
だが室内の空気が微かに歪み、紙の端が震えた。
セラは息を止め、胸の奥の冷たさを確かめるように手を握った。
「……封印が、揺れた?」
声は小さく、部屋に吸い込まれていく。
言葉が消えたあと、冷たい震えが胸に残った。
偶然ではない。
何かが触れ、古い力の震えが伝わってきた。
学院の地下で嗅いだあの匂いが、ふと頭をよぎる。
記憶は短く、しかし確かに警鐘を鳴らした。
セラは立ち上がり、机の隅に置かれた魔力計測器へと歩み寄った。
ローブの裾を指先で整え、針を見下ろす。
微かな揺れが、通常は反応しない領域で一拍だけ跳ねた。
脈打つようなそれは、心臓の鼓動に似ていた。指先がわずかに震える。
静かに息を吐く。
学院に来てから、こうした「異常」は何度か感じ取ってきた。
だが今朝の反応は質が違う。
偶然ではない。
これは兆しではない。
すでに何かが動き始めている。
セラは内側で短く「まずい」と呟いた。
言葉は口を離れず、胸の中で燃え広がる。
机の引き出しから黒革の記録帳を取り出す。
教会の封蝋が押されたそれは、表向きは因子保持者の監視記録だが、実際には教会が託した極秘任務の全記録だった。
記録帳に触れると、冷たい金属のような重みが掌に伝わる。
彼女はそれを懐に収め、背筋を伸ばした。任務の重さが肩に戻る。
教会が禁じた古い魔導理論、不老不死の断片が学院で動き出しているという報告があった。
セラは痕跡を追い、やがて「因子」と呼ばれる古い力の名を知る。
因子とは、世界の根に触れるような震えを残すものだ。
中でも「翠蛇」という名は、古い書物にだけ記され、触れる者に危険を匂わせる。
言葉に触れるだけで空気が重くなるような名だった。
不老不死の研究が実を結べば、それは単なる倫理の逸脱にとどまらない。
世界の均衡を揺るがし、眠れる龍を呼び覚ます鍵になり得る──その可能性を、セラは教会の限られた者たちから聞かされていた。
過去に見た断片的な実験の跡が、今も胸の奥で疼く。
彼女はその疼きを抑え、冷静に次の行動を組み立てる。
だが一人では限界がある。
因子が絡む問題は、個人の力で抑え込めるものではない。
教会は既に手を打っていた。
七禍具と呼ばれる禁具に対して高い耐性を示す因子保持者、アニー・レイヴェルを学院へ送り込んだのだ。
彼女は希望であり、最後の防壁でもある。
「この数値……これまでにない共鳴反応を示している」
計測器の針を見つめ、セラは喉の奥で小さく息を鳴らした。
背筋を冷たい汗が伝い、ローブの内側が湿る。
針の一拍が、空気の震えと呼応しているのを彼女は感じた。
これは兆しではない。
すでに動き出しているのだ。
七禍具と因子の関係はまだ解明されていない。
だが因子を媒介にする以上、放置すれば連鎖は避けられない。
セラはすぐに教会へ報告を上げた。
返ってきたのは冷静だが厳しい指示だった。
教会は既に対策を講じている。
だがそれが十分かどうかは別問題だ。
封印が軋んだ今、学院のどこかで何かが動き出している。
セラはその動きを、誰よりも早く感じ取っていた。
手の中の記録帳が、微かに震えたように思えた。
彼女は深く息を吸い、静かに歩き出す。
動きは始まっている。
彼女が扉を開け、廊下へと一歩を踏み出した瞬間だった。
視界の先に、風を裂くように駆ける少女の姿が飛び込んできた。
──勇気の聖女、アニー・レイヴェル。
その小さな背中は、必死の思いを乗せて揺れていた。
学院の長い廊下をいくつも駆け抜けてきたのだろう。
肩で荒く息をつきながら、それでも彼女は叫び続けていた。
「誰か、誰か──!」
その声は、もはや掠れていた。
叫ぶたびに喉が裂けそうなほどの痛みが滲み出し、それでも彼女は止まらなかった。
助けを求めるその声は、痛々しくも切実に、空気を震わせていた。
まるで、何かを守ろうとする意志だけが、彼女を突き動かしているかのように。
しかし──その必死の叫びは、虚空に吸い込まれるばかりだった。
誰ひとりとして、彼女の声に足を止める者はいない。
まるで、それが自分には関係のない出来事であるかのように。
中には、彼女の姿を見てくすくすと笑い声を漏らす者さえいた。
その目には、憐れみも同情もなく、ただ他人の不幸を娯楽とする冷たい光が宿っていた。
アニーの声は、そんな無関心と嘲笑の海に沈む。
それでもなお、彼女は叫び続けた。
誰かが、応えてくれると信じて。
「……何かあったのかしら」
セラは小さく呟いた。
その声には、戸惑いと、どこか焦りの色が滲んでいた。
目の前を駆け抜けていくアニーの姿に、胸騒ぎがした。
その背中から伝わる切迫した空気に、思わず足が動く。
「アニーさん!」
声を張り上げた瞬間、アニーの肩がびくりと跳ねた。
振り返った彼女の瞳には、驚きと、何かに追われるような怯えが浮かんでいた。
「っ!?」
セラの声に驚いたアニーは、足をもつれさせるようにして転んだ。
乾いた音を立てて床に倒れ込むその姿は、痛々しいというよりも、あまりに無防備で、見ている者の胸を締めつけるほどだった。
だが──。
通りすがりの生徒たちは、そんな彼女を見て笑った。
くすくすと、あるいはあからさまに声を上げて。
その笑いには、悪意と優越感が滲んでいた。
この学院では、力と血筋がすべてを決める。
平民であり、魔力の才にも恵まれなかったアニーは、最初から「無能」の烙印を押されていた。
ましてや、あのクラリーチェが彼女に興味を示しているという噂が広まってからは、その嘲笑はさらに勢いを増した。
「なぜ、あんな子が?」
「何か裏があるに違いない」
そんな嫉妬と猜疑が、彼女をさらに孤立させていった。
セラは、冷ややかな視線を投げかける生徒たちを見渡し、胸の奥に重くのしかかるような頭痛を覚えた。
(……呆れたものね。今は笑っていられるでしょうけど、その“無能”と蔑んでいる彼女こそが、勇気の聖女だと知ったとき──貴方たちの顔がどう歪むのか、楽しみだわ)
セラは冷ややかな視線を周囲に投げた後、すぐにアニーのもとへ駆け寄った。
床に倒れ込んだ少女の前に膝をつき、そっと手を差し伸べる。
「大丈夫?」
その声は、静かで優しかった。
アニーは顔を上げる。
鼻筋から流れる赤い筋が、彼女の必死さを物語っていた。
それでも、彼女の瞳は決して曇っていなかった。
「た、助けてください!と、友達が!た、大変なんです!」
全身を床に叩きつけられた痛みなど、アニーは気にも留めていなかった。
膝を擦りむき、鼻血を流しながらも、彼女は立ち上がる。
震える足に力を込め、気弱な心を奮い立たせて──ただ、友を救うために。
学院の広い廊下を、彼女は必死に駆けてきた。
本来なら、人目を避け、物陰に隠れていたい性分のはずだ。
大声を出して助けを求めるなど、彼女にとってはどれほどの勇気を要したことだろう。
けれど、彼女は叫んだ。
喉が枯れても、声が掠れても、なおも叫び続けた。
──勇気とは、恐れを知らぬことではない。
恐怖を感じながらも、それを乗り越えようとする意志。
その力こそが、真の勇気と呼ばれるべきもの。
セラの脳裏に、かつて聖女が語った言葉がよみがえる。
「恐れを抱くことは罪ではない。それを越えて誰かのために立ち上がる者こそ、真に強いのです」
今、目の前にいる少女は、まさにその言葉を体現していた。
(なるほど……少しは納得したわ)
セラは静かに目を細め、口元にわずかな微笑を浮かべた。
その笑みは、どこか誇らしげで、そして温かかった。
彼女はそっと囁く。
その声は、まるで秘密を打ち明けるかのように、優しく、けれど確かな響きを持っていた。
「……私は、ミリアリーデ様直属の白耀騎士団の者です」
「……っ!?」
アニーの瞳が大きく見開かれる。
驚きと戸惑い、そしてどこか安堵の色が混じったその表情に、セラは確信を深めた。
「アニー猊下、何なりとお命じください……白耀の聖騎士──セラ・ヴァルムが、必ずやお力になります」
その言葉は、まるで誓いのように、静かに、しかし力強く響いた。
学院の冷たい空気の中で、たしかな光が灯った瞬間だった。




