第160話:光の在処
光が、満ちていた。
黒い蔓が、力を失っていく。
絡みついていたものが、するりとほどけて、地に溶けていく。
影が退き、講堂の隅々まで、柔らかな光が差し込んでくる。
膝をついていた。
いつの間に崩れ落ちたのかもわからなかった。
ただ、涙が止まらなかった。
頬を伝い、床に落ちるたびに、ずっと胸に積もっていた何かが、少しずつ外れていくような気がした。
「……どうして、あなたは……そんなふうに……」
言葉にならなかった。
責めたいわけじゃない。
ただ、理解できなかった。
なぜ、この人はそんなふうに私を見るのだろう。
聖女が、静かに膝をついた。
私と同じ目の高さに、合わせるように。
そして、微笑んだ。
「……あのとき……あなたが助けてくれたこと、私、忘れてません」
胸の中で、何かが揺れた。
ゆっくりと顔を上げる。
驚きと戸惑いが、入り混じっていた。
「……私が……?」
あのとき、自分がかけた言葉。
それが、誰かの心に残っていたなんて──思いもしなかった。
聖女は、静かに頷いた。
「はい……朝の教室で……あなたは私を助けてくれました」
その瞬間、何かがピタリと重なった。
目の前の聖女と、あの朝の教室で隣にいたアニーが、心の中で一つになった。
「私、あのとき……やっと、あなたに手を伸ばせた気がしたんです。ただ、あなたが傷ついているのを見たくなかった。それだけだった……」
声がかすれた。
懺悔のようだった。祈りのようでもあった。
「ありがとう、リゼリアさん。あなたがあのとき、私を守ってくれたこと。私、ちゃんと覚えてます。……嬉しかったんです」
瞳が、また揺れる。
胸の奥に、あの朝の光が蘇った。
勇気を振り絞って踏み出した、あの一歩。
誰にも気づいてもらえないかもしれないと思いながら、それでも踏み出した、あの一歩。
それが、確かにこの人の心に届いていた。
その事実が、静かに胸を満たしていく。
「……私、ずるいよ。あなたが傷ついてるのを見て、何度も目を逸らした……でも、それでも、あなたは……私を、責めなかった」
声が震えた。
ずっと閉じ込めていた言葉が、ようやく外に出てきた。
聖女は、首を横に振った。静かに、けれど確かな意志を込めて。
「私も、誰かを羨んだことがあります。誰かの優しさが、時に苦しかったこともあります。でも……あなたの優しさは、本物でした。だから、私は……あなたを信じたい。いいえ、あの時の……リゼリアさんが本物のあなただって……そう信じています」
肩から、ふっと力が抜けた。
長く絡みついていた黒い蔓が、音もなく霧のように消えていく。
重くのしかかっていたものが、解けていく。
静寂が戻っていた。
さっきまで満ちていた緊張の気配は消え、空気が穏やかに澄んでいる。
ゆっくりと顔を上げ、目の前に差し出された手を、そっと両手で包み込んだ。
「ありがとう……聖女様……ううん……アニー……さん」
声が震えた。涙が頬を伝い落ちる。
けれど、もう迷いはなかった。
その瞬間、講堂の天井が音もなく開いた。
眩いばかりの光が降り注ぐ。白銀の光が静寂に包まれた空間を満たし、すべての影を優しく溶かしていった。
「私は……リゼリアだ……リゼリアのままでも良いんだね」
「……リゼリアさんがいいんです。だから……帰ってきて……私は……あなたを待っています」
足元に広がっていた黒い影が、淡くなり、そして消えた。
重くのしかかっていた闇が、赦しを得たように、静かに消えていった。
──光が、満ちていく。
長い闇の底で交わされた対話が終わる。
絡みついていた影は音もなく消え、蔓は命を失ったように枯れ落ち、空間そのものが、夢の終わりのようにほどけていった。
手を、握られていた。
温かかった。
その温もりが、意識の端から端まで、静かに広がっていく。
──そして、光の中に沈んだ。
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まぶたの裏に、光が差し込んだ。
重い。目が、開かない。
それでも、少しずつ、少しずつ、意識が戻ってくる。
ゆっくりと目を開けると、空があった。
どこまでも澄み渡った、青い空。
かつてこの地を覆っていた瘴気は、跡形もなく消えていた。
風がそよいでいる。
遠くから、鐘の音が静かに響いてくる。
身体がうまく動かなかった。
どこかに寄りかかっている。温かい。
耳元で、柔らかな声がした。
「……おかえりなさい、リゼリアさん」
その声に、胸の奥が震えた。
まぶたが、かすかに揺れる。
視界はまだぼんやりとしていたが、そこに寄り添う人影が、やがて輪郭を持って浮かび上がった。
「……アニーさん……?」
声が、かすれた。
瞳に、涙が浮かぶ。
恐怖でも、後悔でもなかった。
長い闇を越えて、ようやく辿り着いた場所に、迎えてくれる人がいた。
ただそれだけのことが、胸の奥をあたたかく満たしていく。
これが、帰ってきたということなのだと、思った。




