学校での出来事
職員室を出ると、廊下にひとりの女子生徒が立っていた。一之瀬凛だった。同じ学年の生徒で、中学時代からの知り合いだ。形のよい眉を寄せ、険しい顔つきでぼくを睨んでいる。
「ちょっと待ちなさいよ」
あまり目を合わせないで挨拶もせずに立ち去ろうとしたら、予想通りに呼び止められた。一瞬、振り返りもせずに逃げ出そうとも思ったけれど、後々が怖いのでやめた。そっちのほうを見ると凛は渋い顔で、
「ついてきなさい」
と言ってセミロングの髪をなびかせて背を向けた。
ぼくは無言で後に従った。
案内されたのは二年A組の教室。そこにぼくと彼女が二人だけでいる。スライド式のドアが強めに閉まり、最初に教室に入っていたぼくがびくりとするまもなく、彼女はつかつかと近寄ってきた。教壇の前のところまで足早にやってくると、
「説明、してくれるんでしょうね」
明らかに怒りをおさえた口調でそう言った。
「説明って、なんの」
「とぼけないでっ」
凛は拳で教壇をたたいた。
「知らないと思ってるの。あんたがお主人になったって噂、町中に知れ渡ってんのよ」
「それがどうかしたの」
「あんた本気で言ってんの。どうかした、じゃないわよ。家族に何も言わないで出て行ったくせに」
家族、という表現にぼくの心がざわついた。
「どれだけママが心配したと思ってんのよ。いつまで経っても帰ってこないから、危うく警察に相談に行くところだったのよ」
まさか、とぼくは思った。おばさんがぼくのことをそんなに心配するなんてありえない。ぼくを責めるため、凛が大げさな表現を使っているだけだ。
「連絡がいったはずだけど」
「ええ、もらったわ。屋敷の執事から電話があった。パーティーを台無しにするような電話がね」
「……」
「昨日がなんの日だったか、知らないとは言わせないわよ」
知らないわけがない。知っているからこそそういう行動に出た、という部分もある。昨日は国民の休日でもなければ学校の行事のある日でもない。
「遥の誕生日、どうしてくれるのよ」
遥かとは凛の妹だ。まだ小学一年の女の子で、凛とは違ってぼくにつらく当たってくることもない。だから心底申し訳なく思う。
「ごめん。はーちゃんには悪いと思っている。でも毎回のことだし」
ほかの家庭ではどうなのかわからないけれど、一之瀬家というのは子供の誕生日を盛大に祝う。部屋を飾り立て、大きなケーキを買って、クラッカーを鳴らし、家族みんなで歌を歌う。
ぼくにはそれが、たまらなくつらい。その幸せを絵に描いたような光景が、どうしても耐えられない。一緒の時間を過ごすのは苦痛で、だからそういう日は外で時間をつぶすことにしている。たいていは遅くまで開いている古本屋で漫画を立ち読みし、誕生会が終わった頃合いを見計らって家に帰る。もう何年もぼくはそういうことを続けてきた。
一之瀬家のみんなは、ぼくの本当の家族ではない。ぼくとは誰も血がつながっていない。ぼくは子供のころに両親をなくし、それからは施設で過ごしていた。そのぼくを引き取ってくれたというのが一之瀬家だ。つまりぼくは養子ということになる。
「今回が初めてってわけじゃないんだから」
「まるっきり違うわよ。あんたが今回したことは何? 家出でしょ。何も言わずに家を捨てたのよ。ただ遅れてきただけとはわけが違うわ」
ぼくが一之瀬家でもっとも苦手なのは凛だった。一之瀬家で暮らし始めた当初からつらく当たられた。それは生半可なものではなかった。凛は中学時代から学年でも中心的な存在で、その影響力によってぼくを疎外した。陰湿ないじめだった。それは地元の人間が多く集まる高校でもおさまる様子がない。
一之瀬家のおじさんとおばさんも、それを見て見ぬ振りをした。家の中で何が行われようと、凛をいさめるようなことはしなかった。ぼくを汚い言葉でののしっても、暴力をふるっても、一切そのことには触れようとしなかった。実の娘のほうがかわいい、というよりも血の繋がりのないぼくに対する関心というものがなかったからだと思う。とくにおばさんには嫌われている気がする。厳しく当たられることも多くて、その顔をみるだけで心が萎縮してしまう。
中学の入学と同時にぼくを迎えてくれた一之瀬家のみんなには感謝している。普段の冷たい態度も当然だと思っている。子供ひとり養うのにはそれなりにお金がかかる。高校に行かせてもらい、ご飯も食べさせてくれるだけでも充分。もしあの雑誌を見なければ、ぼくはずっと我慢し続けることもできた。
でも見てしまった。一之瀬家を出られる口実を発見した。住み込みで、お金がもらえて、一之瀬家を離れられる、そう、そのことを思い浮かべた途端、ぼくにはもうとめられなかった。出たい、一之瀬家を出たいという衝動が抑えられなかった。その気持ちを後押ししたのが誕生日というイベントだった。
「謝りなさいよ」
「ごめん」
「あたしにじゃないわ。うちの家族によ!」
「それは無理だよ」
「ふざけてんの。あんたどれだけ恩知らずなわけ? 誰のおかげでいま生きてられると思ってんの。だれのおかげで高校通えてると思ってんの。誰があんたのことを拾ってあげたと思ってんのよ!」
ぼくは奥歯をかみ締めた。悔しくて、悔しくて、どうしようもないくらいの感情が溢れてきて――でも、彼女の言うとおりだった。
「何、その目。文句あるっていうの」
「感謝、している。ぼくが生きていられるのは一之瀬のおじさんとおばさんのおかげです」
「なら今日きなさいよ。二人の前で土下座して謝りなさい」
「だからそれは」
「無理だなんて言わせないわよ。強引にでも連れてくんだから」
凛がぼくの腕をつかんだ。中学時代はソフトボールをしていただけあって、力は弱くない。まともにスポーツに取り組んだことのない小柄なぼくには、ぐいぐい引っ張っていこうとする彼女に抵抗する術は一つしか思いつかなかった。何も考えずにとにかく思い切り腕を振り払った。
力の加減はできなかった。小柄といっても高二の男子が力を入れればそれなりの強さになる。きゃっ、と聞いたことのない悲鳴をあげ、凛は床に倒れこんだ。それと同時に教室のドアが開いた。
「なんだ、凛、おもしろいことしてんじゃねえか」
そこに現われたのはアキラだった。背が高く、浅黒い肌をしている。同じ学年とは思えないほど体格がいい。染めた長髪は肩まで伸びていて、ピアスやアクセサリーの光物が目立つ。このアキラというのは凛の彼氏だ。
「あ、あんた、どうしてここに」
凛がアキラの腕をかりて立ち上がる。
「今日は帰ってって言ったじゃない」
「そう冷たくすんなよ。彼氏が好きな女に会いにきたんだからよ、歓迎してくれてもいいだろ」
アキラはガムでも噛んでいるようなしゃべり方をする。ぼくにはそれが言葉というよりは不快な雑音のように感じられる。同時にこんな男と付き合っているような凛に対しても嫌な感情が沸き起こる。
「お前さ、どこ行くつもり?」
一刻も早くこの場を立ち去りたい、と二人を避けて教室を出ようとしたぼくを、アキラが呼び止める。
「なんにもないわけ? なあ、人の彼女傷つけておいてそれはないだろ」
ぼくの足がとまる。
「ガキじゃねえんだからよ、何を言えばいいかくらいわかるだろ」
アキラの腕がぼくの肩に置かれる。その動作自体はゆっくりなのに、手の平から伝わる力は決して穏やかなものじゃない。アキラの身体は同じ年とは思えないほど大きく、はだけたシャツからは厚そうな胸板が覗いている。
「なあ、弟くん、おれはさ、きみと仲良くやりたいわけよ。その辺の気持ちわかってくれるだろ」
「――じゃない」
「は?」
「もう弟じゃない」
お主人がどういうものだったとしても、ぼくはもう二度と一之瀬家に帰るつもりはない。すでにそう決めている。たとえあの洋館を追い出されたとしても。
「なんだよ、それ。おい凛、こいつ何言ってんだ」
アキラが首を振り向かせると、凛が口を開いた。
「悠太は、お主人になったのよ」
「お主人?」
「知らないの? あんたほんとにバカね。森の中にある屋敷で働くっていうあれよ」
「ああ、そういや子供の頃に聞いたことがあるな。化け物退治とかするやつだろ。へえ、こいつがねえ」
アキラはふたたびぼくに顔を近づけさせた。
「ってことは、もう凛の家族ってわけじゃないんだな。なら、気を使う必要もないよな」
アキラの指がぼくの頬にめり込んだ。ぼくの口が変形した。
「さあ悠太くん。二度も言わせないよな。なにを言えばいいかくらい、もうわかってるよな」
「……ご、ごめん」
「声が小さえよ」
貫くような衝撃が腹部を圧迫した。頬から離れたアキラのかたく握られた拳が、無防備の腹を打ち付けた。一瞬息ができなくなり、足から力が抜けてその場に座り込んで、ぼくはごほごほと咳き込んだ。
「凛に聞こえなかったら意味がねえだろ。もっと声だせよ。なあ、お前、どういう教育受けてきたんだよ」
「はあ、はあ、ごめ――」
「どっち向いてんだよっ」
その声が頭上から降ってくると同時に、がしりと頭をつかまれた。髪の毛を引きちぎるような感じで身体の向きを逆のほうへと変えられ、そのまま床に額をつけさせられた。
「ほら、謝れよ。ごめんなさいってはっきり言えよ」
後頭部を手で押さえつけられ、さらに力が加えられ、ぼくの顔面は床と接していた。抗うような力はなく、そんな気も起こらなくて、鼻も口も塞がれ、呼吸をすることも難しくて、でも、それでもぼくがどうにかごめんなさい、と口にしようとしたら、
「アキラ、もう、いいよ」
凛の声がした。
「その辺にしときなよ」
「何言ってんだよ、凛。お前、自分が何されたかわかってんのか。こいつ、お前を吹き飛ばしたんだぞ」
「あたしがいいって言ってんのよ。それに、先生だってくるかもしれないし」
「わかったよ」
アキラが舌打ちをしてぼくの頭から手を離した。
見えないところで気配が動く。二人が連れ立って、遠ざかる足音をぼくはいつまでも暗闇の中で聞いていた。




