第6章
滝村鶴摩として活動している鶴見詩織から、「これから警察が事情聴取に来る」とSNSアプリを通して連絡が入った時、斗摩は思わず舌打ちして携帯の画面を睨みつけた。
二日前の事情聴取での様子を思い出す。一通りの捜査に協力した帰りがけには、おそらく事故死だろうと警察からは聞かされていたのだが、何か怪しい要素でも見つかったのだろうか。
それとも、不運な事故という結論はそのままに、被害者のことを詳しく知りたいだけなのか…。
そういえば、こちらを注意深く観察していた但馬とかいう刑事。
あの男に何か嗅ぎ付けられたのだろうか。事故に見せかけるための偽装工作は完璧だったはずだ。
事件以降この二日間は錬磨の葬式や、仕事の関係者への連絡で慌ただしく、ゆっくり事件のことを考える暇もなかった。
今も錬磨がコラムを寄せていた雑誌の編集者から錬磨の追悼ページを掲載したいとの相談を受け、電話インタビューに応じていたところである。
自宅兼アトリエのマンションの一室で、やっと諸々の用事にひと段落着いたところで詩織からのこの連絡だ。
まったく嫌になる。
どうやら詩織は一人で警察の事情聴取を受けるのが心細いらしい。できれば一緒にいて欲しいとメッセージは訴えていた。
詩織は斗摩にとっては弟弟子にあたる。
年齢も五歳ほど年下だ。滝村派に入門しているが、画家としては鳴かず飛ばずで、コンビニのアルバイトをしながら絵を描き続けている。
描いても描いても評価されていないが、深く落ち込むこともなく、楽しそうに絵を描き続けている。
その前向きで明るい性格から周囲の人間からは大変好かれてもいる。
錬磨の師の絵を売り払い続ける勝手な振る舞いには辟易していたようだが、自分や揺摩のことは素直に尊敬している素振りが伺える。
さらに付け加えるなら、彼女は斗摩に好意を寄せている。
自分が、他の女性画家や出版社の女性編集者と関係を持ったという噂を耳にするたびに見せる態度から、詩織が自分に対して恋愛感情を持っていることは確かだろう。
その彼女が、警察に聞かれたからと言って、自分に不利な証言をするはずがない。
ここは詩織を利用して、自分の印象を上げるように、うまく証言させられないだろうか。
人好きのする彼女の証言ならば、あの刑事が、自分を見る目も変わるかもしない。
自分は詩織に恋愛感情など持ってはいない。
詩織だけではない、今まで関係を持った女性についても、利用する価値があったから交際していたにすぎない。
万が一、自分が疑われるようなことになり、警察の目を欺く必要があるのなら、詩織の望むままに関係を持って、協力してもらうのもいいかもしれない。
きっと一途な彼女のことだ、パートナーとなった俺のためにどんな証言もしてくれるだろう。
俺は手元の携帯を操作すると、詩織に電話する。彼女はすぐに電話に出た。
「……もしもし、尋斗さん?」
「ああ。メッセージ、見たよ。」
詩織は、二人きりで話をする時にだけ、俺のことを「斗摩」ではなく本名で呼ぶ。
「警察が事情聴取にくるって?」
「そう。錬磨さんについて、もう少し追加でお話を聞かせていただくだけです、って……でも私、錬磨さんのことは、あんまり詳しく知ってた訳じゃないし…」
「…そうだよな。じゃあ、俺も立ち会うよ。これからそっちに行くから。」
俺の言葉に、電話の向こうからほっとしたように息つく音が聞こえた。
「ありがとう。それじゃあ、よろしくお願いします。」
「ああ。」
通話を切る。携帯を握りしめる。
錬磨の死体を前に決意したではないか。
もう、後には引けないのだ。
何を利用してでも、警察の追求の手から逃れてみせる。
一時間後。斗摩は詩織の自宅である都内のマンションの一室を訪れていた。
玄関のインターホンを鳴らすと、すぐに応答があり、扉が開かれた。
小柄な女性が中から現れる。肩にかかる程度に切りそろえられた黒髪に、幼さの感じられる童顔。
展覧会の搬入のために、美術館職員と顔合わせをすると、いつも年齢より若く見られるのだ、と語っていた。
そう話す際も、困ったように苦笑いしながら、「ありがたいことなんだけどね。」と付け加えるものだから、嫌味を感じさせない。明るく、誰からも好かれるのが、この詩織という女性であった。
だが、さすがにその顔も、今は曇っている。
「警察はまだ来ていないの。」と言いながら中へと促す詩織の後に続く。彼女からはいつもの爽やかな洗剤の匂いがした。
玄関で靴を脱ぐ際に、自分のものではない男物の靴の存在に気付いた。
このタイミングで彼女の自宅を訪れ、なおかつ、部屋の中に招き入れられる人物など一人しか思い浮かばない。
居間に入ると、ソファに腰かけていた人物が立ち上がって出迎えた。玄関で自分以外の靴を目にした瞬間に予想していた通り、そこには滝村揺摩が立っていた。
揺摩。
錬磨殺害の共犯者。
どうして、お前がここにいる。
上着のポケットにつっこんだ手を、強く握りしめる。
「斗摩さんとの電話のあと、偶然、揺摩さんから次の作品展に関する連絡の電話がかかってきて…。今から斗摩さんと一緒に警察の事情聴取なの、って話したら心配して来てくれたんです。」
俺に笑いかけながら説明する詩織も少し困惑気味だ。
それもそうだろう。揺摩という男は、誰かを心配して、その自宅までわざわざ足を運ぶような性格ではなかったはずだ。
内向的で外出も必要最低限。世間に疎く、物欲も人に対する興味も極めて低い男。それが二十年の付き合いで形成された俺の揺摩像だ。
いやいや、待て待て。
俺は肩に入った力をそっと抜き、努めて冷静に揺摩の立場で考えを巡らせた。
錬磨を殺したのは間違いなく俺であり、揺摩と俺は警察に対して隠ぺい工作を行った。
殺人ではなく、事故死だと思わせるために。
二人とも犯罪行為に手を染めていることになる。
揺摩自身は直接手を下していないが、こうなれば俺とは同じ船の同乗者だ。
事が露見すればやつ自身も罪に問われるだろう。
警察の追及が恐ろしくない訳がないではないか。
ならば、俺と同じように、詩織の事情聴取の内容が気になって、ついこんなところまで来てしまったということも考えられるのではないか?
「やれやれ、さすがの揺摩も、かわいい後輩が気になったってところか?」
肩をすくめ、何でもないふりで尋ねると、「ああ。斗摩が一緒にいてくれるって聞いていたし、僕じゃ何の力にもなれないだろうけど、心配でね。」と答えて、うつむきがちに少し笑った。
その様子に詩織も「ありがとうございます。揺摩さん。」と微笑んでいる。
微笑み合う揺摩と詩織。その二人の同門を見守る、俺の内心は——
——反吐が出そうだった。
揺摩と詩織が仲良さそうにしていることが不快なのではない。
そうではなく、揺摩が何かにつけて、自信のなさそうな素振りや控えめな言動をとるのを目にする度に、砂でも食っているような不愉快な気持ちがこみ上げるのだ。
そう、俺は滝村揺摩が大嫌いだった。
揺摩という男は、内向的で世間に疎く、物欲も人に対する興味も持たず、喧嘩もしない温厚な性格で、そして。
紛れもない天才だった。
何に対しても関心を寄せない揺摩だが、絵を描くことにかけては真剣で、必死だった。創作に耽ると寝食を忘れ、命を削るように作品を生み出していた。
あの気味の悪い微笑みも、穏やかな表情も忘れ、口もとを引き結び、ただ真剣な瞳で作品だけを見つめてひたすらに、描く。
そうして生まれた作品は、素晴らしかった。
揺摩の描くテーマは「人間」に焦点を当てたものが多かった。
喜び、悲しみ、憎しみ、人間の持つ様々な感情をリアルに描き出す、そんな作品を作り上げるのだった。
俺も創作には真剣に取り組んでいる。
楽して金を稼げるなら、それに越したことはないと思うし、女とはそこそこに遊びたい。コツコツと働くことは性に合っていないとも思っていて、親の実家が資産家であるのをいいことに、欲望に忠実に暮らしている。
この考え方が、世間様にとって褒められるような倫理観ではないのも承知で好き勝手して生きている。
利用できるものは利用して、笑顔を振りまき周囲の人間を欺いて、常に賢く立ち回る。
これっぽっちも褒められた人間ではない。
そんな最低人間の俺が、創作にだけは真摯に取り組んでいるのだ。
技術を磨き、知見を深め、より良い作品を作りだすための努力なら惜しまない。
そうやって描き続けて、今、画壇の注目を浴び、天才と評価されるところまで登ってきたのだ。
自分の作品には自信がある。
自分の将来性にも確信がある。
だが、そんな俺が、絶対に勝てないと思う相手が、画家としての滝村揺摩の存在であった。
揺摩が描く、人間の真理に迫る作品は、時に残酷でグロテスクなモチーフを通して描かれる。
だがそれこそが俺の求めるものだった。
俺が求めても、手に入れられない境地にやつは立っている。
それなのに、世間は言うのだ、「二人の天才」と。
表面上はありがたく頂戴しているその賛辞の言葉を耳する度に、俺は、煮えたぎった泥を直接胃に注がれているような心持ちがするのだ。
明らかに劣っていると自覚しているのに、本物の天才と俺を同列に評価されている。
節穴どもめと嘲笑ってみたところで、この憤りとも口惜しさともつかない気持ちは、収まりがつかない。
さらに俺を苛立たせるのは、揺摩の態度だった。
俺と同列に括られて怒るどころか、嬉しそうに笑うのだ。
それが何より我慢できない。
自分に自信のない様子に、俺に向ける穏やかな微笑み。俺が到達できない境地を軽く超えていくくせに、そんな情けない顔を見せるなよ。
堂々と、いっそ傲慢に振舞えよ。
——天才のくせに。
この感情が、醜い嫉妬から来るものだということは理解している。
だが、それがどうした。
俺は揺摩が嫌いだ。
憎んでいると言ってもいい。
いつも浮かべている微笑みを引き剥がしてやりたいと思うのだ。
苦悩や悔しさでゆがむ顔をみたいと思うのだ。
憎しみや怒りを感じさせてやりたいと思うのだ。
本当に俺は最低な人間なのだと心の底から思う。だが、これが俺だ。
いつか揺摩が地獄の底で苦しむ姿を遥か高みから嗤いながら眺めてやりたいのだ。
その、いつかのためにも、こんなくだらない事件にはさっさとけりをつけてしまいたいものだ。
そのためにも、まずはこの事情聴取をうまく利用してやろう。俺は心のうちにくすぶる思いを隠して、揺摩と詩織に向かって安心させるような笑顔を浮かべてこう言うのだ。
「心配するなよ。俺がついてるから。」
その時、玄関から来訪を告げるチャイムの音がした。




