第3章
「良秀」とは何か。それは、鎌倉時代に書かれたとされる説話集『宇治拾遺物語』に収められている説話の一つに登場する人物である。その説話の中で良秀は絵仏師、仏画を描く職人であった。彼は自分の家が火事になったとき、燃える家に妻子が残されているにも関わらず、笑ってその様子を見ていた。炎がこのように燃えるものだとやっと分かった、と。これで仏画を上手に描くことができる、と。その後、良秀が描いた仏画は「良秀のよぢり不動」と称賛されるようになった。という話である。この話は芥川龍之介の『地獄変』のモデルにもなっている。
『地獄変』に登場する良秀は、芥川の手によって絵画を写実的に描くことに対してより偏執的な人物で描かれている。『地獄変』のあらすじは次のとおりである。
平安時代の高名な画師であった良秀は、堀川の大殿様に「地獄変」の屏風画を描くように命じられた。
この良秀は横柄で高慢でかつ醜い容貌であったが、誰もが認める日本で一番の画師であった。
良秀は自分の目で見た情景を自身の筆で写しとることにこだわっており、「地獄変」制作にあたっても道端に転がっている腐乱した死体を間近に観察することに始まり、実際に弟子に様々な苦痛を与えてその様子を冷酷に観察した。
弟子たちは鎖で縛りあげられたり、鳥に襲われたりすることで死の恐怖を味わった。
良秀の弟子たちは師匠のこの仕打ちを恐れたが、何より恐怖したのは、良秀が苦しみ泣き叫ぶ弟子の様子を、ただ冷酷に観察し、写し取ることに執心していたことであった。
良秀は正気の沙汰とは思えない鬼気迫る様子で屏風を描くことに夢中になる一方で、別の日には、ぼんやりと冬空を見上げ、思うように屏風絵を描けないことに涙を溜める様子を見せることもあったそうである。
さて、この良秀には大事にしている一人娘がいた。
父親にまったく似ていない、優しく控えめで美しい、父親思いの娘であった。
この娘は堀川の大殿様のお屋敷にご奉公に上がっており、大殿様にも他の屋敷の者たちからも大変気に入られていた。
ところが、この娘は良秀が屏風絵の制作を始めたころからふさぎ込むようになってしまった。周囲の者たちは、父親の弟子への仕打ちが耳に入ったために、心を痛めているのだろうと噂したが、真実は大殿様に言い寄られているために思い悩んでいたのだった。
「地獄変」の屏風の制作が佳境に入ったある日、良秀は堀川の大殿様のもとを訪れ「地獄変」の完成にあたって、どうしても描けない描写があるのだと申し上げた。
それは、一両の牛車が中に乗っている女人と共に炎に包まれる情景である、と。
どうかその情景を実際に再現して欲しいという良秀の願いを聞き入れた大殿様は、後日、実際に一両の牛車に女房を乗せ、火を放たせた。
その日、大殿様に呼ばれた良秀が参じた屋敷の庭には、一両の牛車が用意されていた。
御簾が下ろされているため、牛車に乗せられた人物は見えない。
やってきた良秀に大殿様は、この牛車に罪人の女を縛って乗せている。お前の望み通りこの牛車に火を放つので存分に観察せよ、と告げた。
火が放たれる直前に御簾があげられると、そこに乗せられていたのは良秀の一人娘であった。
良秀は最初、思わず駆け寄ろうとするが、火が放たれるとその足を止めた。牛車が燃え上がり、娘が断末魔を上げる様子を、なんと良秀は恍惚とした様子で見入っていたのである。
ひと月後、屏風絵は出来上がり、大殿様に献上された。
その出来は素晴らしく、特に女房を乗せた牛車が、燃え盛りながら天を駆ける様は鬼気迫るものであった。
その見事さにそれまで良秀を批判していた者たちすら画師良秀を絶賛した。
一方で当の良秀は、屏風絵が完成した次の日、自宅で首をくくって死んでしまったそうである。
「何、読んでるんです?」
事件発生から一日が経った、次の日、県警本部の自分のデスクで読書に没頭していた但馬は、読んでいた文庫本から顔を上げた。自分の手元を覗き込んでくる朝山に、本の表紙をしめしてみせる。本のタイトルは芥川龍之介の『地獄変』。
先日の事情聴取の中で滝村揺摩の話していた「良秀」という言葉の意味が分からなかった俺は、あの後揺摩に説明を求めた。結局は揺摩の要領を得ない説明に斗摩の補足が加えられ、古典作品に登場する絵師らしいということがわかった。
実際に目で見たものを描くことに執着した絵師が、自分の大切なものを失う経験すら自分の作品の肥やしにしてしまう、という話のようだ。
滝村派の画家たちは、この良秀を目指して精進しているということなのだから、芸術家とは因果な商売である。
「…それで、報告書はあがったか?」
俺の言葉に朝山は頷くと、手にした書類を読み上げる。
——曰く、滝村錬磨(本名、渡錬啓二)氏の死亡に関しては事故であるとの見方が強いとの結論に至ったとのこと。
錬磨の死亡推定時刻は、十二月二日の深夜から十二月三日の深夜。
遺体が小川の水に浸かってしまっており、状態が良くなかった。そのため死亡推定時刻の幅が広がってしまった。
死因は後頭部の強打によるもの。直接死因につながった打撲痕以外にも数か所の打撲痕が見られ、酔って森の小川付近で足を滑らせ滑落した際に、打ち所が悪く亡くなったのではないかとの見解が出されている。
錬磨が画壇仲間から嫌われていた情報は確かであり、殺人を疑う声も上がったが、殺害の動機を持ち、かつ、犯行可能であった人物は現状では上がっていない。
錬磨の死亡推定時刻にあたる十二月三日の夜は、揺摩・斗摩を始め、錬磨と顔なじみの画家たちのほとんどが都内のホテルで開催された忘年会に参加しており、都内から車で二時間はかかる山荘のアトリエに犯行時間にやってくることのできた者はいなかった。
この件については裏付けも取れている。錬磨のスマホから十二月三日の午後四時に、都内のホテルで、ある画商と商談の約束をした記録が出てきたのだ。
揺摩と斗摩の証言の通りである。
勿論、当日に約束通り商談が行われたことは商談相手の画商にも確認済みである。
商談相手の画商は錬磨氏が亡くなったことに驚きながらも、三日の夕方午後四時から四時半ごろにかけて、確かに都内のホテルで錬磨氏と商談を行ったと証言した。
この証言により、滝村錬磨の死亡推定時刻は十二月三日の午後四時半以降に絞られたが、この時刻のすぐ後、午後五時から受付が開始されていた件の忘年会に参加していた多くの画家たちにアリバイが認められた。
「——以上により、この件は錬磨氏が酔って山荘の裏手を散策中に起きた不運な事故との結論に落ち着きそうですね。」
「…まあ、そうなるだろうなあ」
「但馬さんは納得していないようですけど?」
「……。」
但馬は腕を組みなおす。
納得は…できていない。
事情聴取の際に、言いようのない違和感を揺摩と斗摩に対して抱えてしまってから、この事件にどこかひっかかりを覚えてしまっているのだ。
刑事の勘というものが存在するとすれば、その類だろうか。その勘に従えば、あの揺摩・斗摩の弟弟子たちには何か裏があるような気がしている。
しかし、先ほど朝山が読み上げた報告書の通り、あの二人にはアリバイがあるのだ。
錬磨が画商との商談を終えたのが午後四時半すぎ。その後錬磨は事故現場の山荘に向かったと推測される。
一方でその頃、揺摩・斗摩は画壇連中との忘年会に参加している。都内のホテルに二人が現れたのが午後五時だという。これはホテルの受付係が証言しており間違いない。山荘で錬磨を殺害することは不可能だ。
画商との商談の時刻が早まっていたり、何かしらの理由で商談そのものが中止されたりしていれば、午後五時以前に錬磨の殺害は可能になる。が、商談相手の画商の証言によりその可能性もなくなった。しかも、その商談相手に確認をとったのは他ならぬ朝山と但馬自身である。
但馬はその時の様子を思い返した。朝山と二人で聴取に赴いたのは大山堂というギャラリーを都内に構える画商だった。




