第27章
斗摩のマンションから出た朝山は、パトカーの運転席でじっと但馬の帰りを待った。
今頃、但馬は斗摩に「個人的な推測」を語って聞かせていることだろう。
その場に自分も同席したかったが、仕方ない。あの場は但馬に任せるのが最善だったと自分を納得させる。
斗摩と対峙するにあたって、但馬と朝山は前もって打ち合わせを行っていた。
その中で、但馬の言う「個人的推測」も朝山は聞かされている。
揺摩が真犯人だとするその説に最初は驚いたが、語られる内容は現場の状況に一致していた。
しかし、証拠がない。
錬磨を殺害したとされる例の凶器は姿を消している。
現場も五年の時を経て、どれだけ証拠が残っているか…。しかも現場は真犯人である揺摩のアトリエだ。自分の犯行を示すようなものをいつまでも残してはおかないだろう。
どうしたものかと、朝山が頭を抱えた時、但馬が言ったのだ。
斗摩にこの「推測」を聞かせてみよう、と。
真実を知った斗摩にとっては、自分が揺摩に陥れられたと感じるはずだ。
そうすれば捜査協力にこぎつけられるかもしない、と。
協力とまではいかなくとも、何か動きはあるだろう、と。
確かに朝山も、五年も前の事件に新たな展開をもたらすにはそれしかないような気がした。
さて、斗摩はどう出るだろうか。と考えていると、助手席のドアが開き、但馬が体を滑り込ませてきた。朝山はお疲れです。とだけ声を掛ける。
「斗摩がどこで俺たちの動きを確認しているか分からん。とりあえず、本部に戻るぞ。」という但馬の言葉に朝山は車を発進させた。
マンションの駐車場を出て、すぐの赤信号で止まる。
横の歩道に目をやると、バスの停留所のベンチに一人の男が座っていた。
その男が朝山に視線を向ける。
朝山も無言で男と視線を交わす。
信号が青になると何事もなかったかのように朝山はパトカーのアクセルを踏み込んだ。
あの男は朝山も良く知る、所轄の私服警官だった。
実は事前に斗摩に動きがあれば報告してもらうよう張り込みを依頼してあったのだ。
「どうでした。」
マンションが見えなくなってから、朝山は助手席の但馬に尋ねる。
「手ごたえはあった。じきに斗摩は動くだろう。」
「それにしては、浮かない顔ですね。」
作戦成功のように思えるが、何の懸念があるのか、但馬は難しい顔のままだ。
「錬磨を殺害したのは揺摩だとする推測に間違いないだろう。だが、動機が分からない。」
ハンドルを握る朝山もその言葉にううんと唸る。
「錬磨の絵画偽装販売の件を知って、同門の画家として許せないと思った…とかですかね?」
そうなのだろうか、と但馬は考える。
但馬にはもっと別の動機があるような気がしてならない。もっと別の、自分たちには理解できないような、ほの暗い動機がそこにある気がしてしまうのだ。
『良秀にならねば…』
ふと思い出した言葉。
かつて揺摩が口にした言葉だ。
滝村派の目指すところは良秀となること…。
突然、心臓を冷たい手で撫でられたような感覚に陥った。
なにがなんだか分からないままに、薄気味悪い思いにとらわれる。
やはり、揺摩の動機には一筋縄ではいかないものがあるのだと感じた。そしてそれにはきっとあの言葉が関係している。
『良秀にならねば』
その時、但馬の携帯に着信が入る。発信相手は張り込みを頼んだ警官の一人だった。
「但馬警部補!瑞沢尋斗に動きがありました。先ほど慌てた様子で車に乗り込みマンションを出ました。走り去った方向から、揺摩氏の山荘へ向かった可能性が高いと思われます!」
「了解。助かったよ、ご苦労さんでした。」
但馬は短くねぎらいの言葉を述べると、聞き耳を立てていた朝山にむかい、「揺摩の山荘に向かってくれ。」と指示した。
「了解」と元気よく答える朝山。その一方で、想定通りの展開に事態が動いているにも関わらず、但馬の眉間には依然として深いしわが刻まれていた。
瑞沢尋人が揺摩・高咲揺一の山荘に到着した時、山荘の玄関はいつものように鍵がかかっていなかった。
勝手知ったるとばかりに玄関から中に入る。
一応、「揺摩」と名を呼んでみるが応える声はない。
これもいつものことなので、尋斗は遠慮なく室内に上がると揺一のアトリエとなっている階段奥の部屋を目指した。
二階へ上がる階段をできるだけ目に入れないように進む。
ちらりと目に入ったキャビネット。
但馬の言う通り、五年前の事件の日まで飾られていた例の木像はそこにない。
ぐっと唇を嚙みしめて奥の部屋へと進み、揺一のアトリエの扉をノックする。
しかし、またしても反応はない。
ドアノブに手を掛け中に入る。
雑然と積まれたキャンバス、あちこちに散らばる筆立てと絵の具などの画材の数々。
大きな作業机を照らす、赤々と燃える暖炉の火。
中は見慣れたいつも通りの様子であった。
ただ、揺一の姿だけが見えない。
山荘の横手に揺一の車は止まっていた。
この山荘を訪れていることは間違いない。
この部屋にいないのならば、二階のどこかの部屋で作品の整理でもしているのだろう。
主がいないのならば今が好機だ。
尋斗はここに来る道すがら、ずっと考えていたのだ。凶器の隠し場所を。
揺一が錬磨を殴り殺したとして、その凶器に例の木像が使われたとして、揺一はその凶器をどうしたのだろう。
自分に錬磨を殺害したと思い込ませたという事実はあれど、尋斗にはどうしても、あの揺一が必死で自分のために証拠隠滅を図る姿を想像することができなかったのだ。
あの、絵画のこと以外には恐ろしく無関心な男は、自分の犯した犯罪を証明する証拠にも無頓着なのではないか。
おそらく例の像は、最低限、人目のつかないところに無造作に隠されているのではないか。そんな気がしてならない。
そう考えてみると、尋斗には凶器の隠し場所に心当たりがあった。
いつも揺一が作業しているあの大きな作業机、その机の下には使われなくなった筆立てや大ぶりの刷毛、固まってしまった絵の具など雑多な物が乱雑に押し込まれていたはずである。
創作に励む揺一自身にとって最も目の届く場所であり、かつ、自分以外の人間の目に触れることのない、絶好の隠し場所ではないか?
尋斗はもう一度室内に誰もいない事を確認し、作業机の下に潜り込むといくつかの画材を引っ張り出してみた。
すると、大きな筆立ての裏から、像の腕がのぞいているのが見えた。
高ぶる鼓動を抑えながら像のその腕を掴み、引きずり出す。
よく確認するまでもない。この奇妙な形は例の像に他ならなかった。
しかも、像の下部から裏側にかけてべったりと赤黒いしみがついている。
…ああ、やはり。
これで自分の殺人の疑惑は晴れたというのに、ちっとも喜びを感じなかった。
むしろ嫌な予感は未だ継続中で、ますます胸の内に広がる焦燥は強くなるばかりだった。
一体自分はどうしてしまったのだろう。
真実を知ることに怯えているとでも言うのだろうか。
その時だった。
「おや、斗摩。いらっしゃい。」
その声は背後から掛けられた。
いつもと変わらぬ穏やかで柔らかな声だった。
尋斗はゆっくりと振り返る。
つい先ほど見つけたばかりの「凶器」を手にしたまま。
アトリエの入り口、開かれた扉の前に揺一が立っていた。
尋斗が黙ったまま揺一に視線を向けると、彼は怪訝そうにまじまじと尋斗を見つめ、その手にあるものを目にしてから納得顔で「ああ」と呟いた。
「見つけてしまったんだね。
…わざわざ探し出したってことは、五年前のあの夜に起こったことに、気づいてしまったのかな。」
全く焦る様子も、悪びれる様子もなく、そう尋斗に問うた。
凶器という証拠を押さえられたのは向こうのはずなのに、なぜか尋斗は自分の方が追い詰められているように感じていた。
「揺摩…」
「うん?」
「どうしてだ、…なぜ、殺した?」
その問いに揺一はうっすらと微笑みながら答えた。
「そうだね。その像を見つけてしまったんなら、あの夜のこと、お前にも知ってもらうしかなか。」
そういうと、部屋の中央の作業机の前で佇む尋斗の前までゆっくりと歩をすすめ、記憶を浚うように上を向いて目を閉じる。
「あの夜、お前が錬磨さんと、何事か揉めている声を耳にした僕は、このアトリエの部屋から階段の方へ向かったんだ。
そうしたら、二階の階段前でお前が錬磨さんを突き飛ばすのが見えた。
でも錬磨さんに掴まれて、結局お前も一緒に階段から転げ落ちてしまったよね。
お前たちは一緒に落ちたんだけど、お前の方は階段下のキャビネットに激突した。その衝撃でキャビネットの扉が開き、中に飾られていたものが飛び出してしまったんだ。
今、お前が持っているその像もね。
驚いた僕はすぐにお前たちに駆け寄ったんだけど、錬磨さんの方はじきに意識が戻ったようで、自力で起き上がることができた。
でも、彼はお前に突き落とされたことで頭に血が上ってしまっていたんだろう。
そばに落ちていた置物を掴んで、気を失っているお前に殴りかかろうとしたんだ。
だから、咄嗟に僕も足元に転がっていたこの像を拾って、彼の背後から力いっぱい殴りつけたんだ。
…結果はお前も知っての通りさ。
錬磨さんは頭から血を流して動かなくなってしまった。
そのあと、とりあえず凶器となったその像を自分のアトリエに隠して、気を失ったままのお前を起こしたというわけさ。」
自分の犯行を語る口調のわりに、揺一の声は変わらず穏やかで、尋斗と絵画について語る時の口調と何ら変わらない。
その様子に揺一の人間性の破綻が垣間見える。
いや、違う。
揺一の異質さは、彼と出会った時から知っていたではないか。
それでも、尋斗は尋ねずにはいられなかった。
但馬の推測が、揺一の語った言葉が真実だったとしても、納得できないことがあったからだ。
「待て、おかしいじゃないか。お前は俺を助けるために錬磨を殺したといったが、それならどうして俺を騙した。
俺は今までずっと自分が錬磨を殺したと思っていた。
俺を助けておいて、そのくせ、俺を陥れたっていうのか。」
揺一は不思議そうに答える。
「お前を助けるのは当たり前じゃないか。二人で一緒に絵を描いていくって、決めたんだから。」
尋斗は悔しげに顔を歪める。
「『天才滝村兄弟』のためか。」
忌々しい、「二人の天才」という看板のために。
俺を助けて人を殺したというのか。
しかし、揺一は首を振った。
「それは違う。
お前が、瑞沢尋斗が居ないと、僕の創作は行き詰ってしまうからだよ。」
疑問符を浮かべる尋斗を、揺一は見つめる。
その表情を見て尋斗は気づいた。
その顔は、錬磨の死体を前に途方に暮れていた自分を見つめていた時と同じ顔だった。
そして、初めて出会った時に、彼が描いた絵について質問した自分を見つめていた時と同じ顔だった。
「…どういう意味だ」
尋斗は掠れる声でそう聞いた。
「僕はね、人の感情が分からないんだ。
生まれた時からずっと、喜びや悲しみ、そして怒り。
そんな感情を、抱いたことがない。
成長するにつれて、周囲の人たちに合わせてそれらしい表情を浮かべることができるようにはなったけれど、あくまでその場を乗り切るだけの模倣に過ぎなかった。
その内、自分の周りの人たちの感情を絵に映し取ることに夢中になってね。
そうして今の僕の基盤となる人間が生まれたんだ。
だけどね、描いても、描いても、人の感情を僕自身が理解することも、感じることも出来なかった。
そんな時、君お前に出会ったんだよ。
それまで僕の絵を見た人は皆、ただ褒めてくれた。
でもお前は僕が何を見たのか、どうしてこの絵を描いたのかを知ろうとしてくれた。
そして、僕の絵をただ褒めるのではなく、僕を目指してくれただろう?
あの時、僕はね、ああこの人はきっと僕に似ているんだ、と思ったんだ。
お前の感情をよく見て、ずっと傍にいることで僕は人の感情を理解できるかもしれないと考えた。
お前は気付いていないようだけど、お前出会ってから僕が描いた絵は、全てお前の感情を映し取って描いたものなんだよ。
お前という人間は本当に興味深い。
僕のテーマはいつだって「瑞沢尋斗」という人間だった。
だから師匠に、お前との合作の作風を提案された時はありがたかったね。
二人で一緒に絵を描いて行けるなんて…これでお前のリアルな感情をどんどん描き出せる、と思ったんだ。
それなのに、一瞬の衝動からお前を殺そうとするなんて、いくら兄弟子の練磨さんでも許せないよ。
ああ、騙したような真似して悪かったね。
最初は気を失ったお前を起こして、事実をそのまま話すつもりだったんだけど、どうもお前は自分が錬磨さんを殺したと勘違いしているみたいだと気付いてね。
その時のお前の「人を殺してしまった人間」としての感情や様子があまりにも、その、新鮮で。
新たな絵のテーマとして最高だつたものだから、つい言いそびれてしまったんだ。」
「…俺を、絵の題材にする為に、嘘をついたってこと、か?」
「自分の最高のモデルが人を殺した秘密を抱えるなんて、そんな機会二度とないだろう?
人殺しとしてのお前のリアルな感情と表情は素晴らしかった。
ほら、絵の題材のためならば何者をも犠牲にしなければ、だろ。」
「…良秀にならねば、か?」
「ああ、その通り!
良秀のように、常にリアルを映し取るのが滝村派の目指す在り方だからね。」
息をすることも忘れたように揺一の話を聞いていた尋斗は、大きく息をつくと自分のいる部屋を見渡した。
この部屋は今でこそ揺一のアトリエだが、かつては師の草摩のアトリエだった部屋だ。
目を閉じると、暖炉前の作業机に向かい、背を丸めて筆を動かす師の姿を思い出すことができる。
同時に、病床に伏した亡くなる直前の姿も思い出される。
お前たちは二人で絵を描いていけ、だと?
クソジジイめ。
恐らく草摩は知っていた。
揺一が人の感情を理解できぬままに、尋斗にそのモデルを求めていた事を。
きっと草摩は、あれだけ良秀になることを目指しながらも、その境地に到達することはなかったのだろう。
周囲の人間がどんなに彼を高く評価したとしても、彼自身は納得していなかった。
そこで、死の足音を聞きながら彼は自分が良秀になれないのなら、弟子をその高みへ導こうとしたのだ。
もう一人の弟子を犠牲にして。
草摩は弟子に無関心であるように見えていたが、その実、それぞれの才能を見抜いていたのだ。
だからこそ、揺一の望むように彼の才能を伸ばすために、揺一と尋斗の二人で絵を描く道を進ませたのだ。
そこまで考えて、尋斗は手にしたままだった像を強く抱え直した。
師の裏切りに対する憤りと、揺一が自分をモデルに絵を描いていたことを知って感じた複雑な思いに混乱してしまっている。
自分が唯一認めた天才が、自分をずっと見ていたのだという事実に喜びの気持ちを感じそうになっている己を、揺一に騙されていたことへの怒りで押さえつける。
あの日の決意を忘れたのか。
唯一の神が自ら地に堕ちるなら、俺の手で引きずり落として、天才の名を恣にしてやるのだ、と。そう決意したはずではないか。
そうだ、こいつを地獄に突き落とすのだ。
この手にした凶器を警察に突きだしてやる。
ああ、だがその前に、こいつに絶望を味わわせてやらなければ。
しっかりしろ、こいつに一矢報いてやるネタを俺は持っているじゃないか。
今こそぶちまけてやる。
お前の愛した女が、本当は誰を愛していたのかを、な。
「なあ、揺摩。お前が俺に打ち明けてくれたように俺もお前に話したいことがあるんだ。
実はな、詩織と俺はずっと――そう、お前と詩織が交際を始める前から――愛し合っていたんだよ。
なあ、揺摩よう、お前は俺をずっと見ていたと言っていたが、
知っていたか?おれがお前を嫌っていたことを。
知っていたか?「二人の天才」と呼ばれることに嫌悪していたことを。
知っていたか?お前の愛した女性が実は俺の女だったことを。」
まるで呪いの言葉のように、相手の絶望と不幸を願い、苦しむ表情を求めて言葉を紡いだ。
今の自分はきっと、醜悪な顔をしていることだろう。
だが、それでいいのだ。
外道らしく人の道に悖る行いを誇ってやるのだ。
さあ、どうだ。
悲しいか?
悔しいか?
それとも俺が憎らしいか?
感情が理解できないだと?ここまでされて何も感じないことなどあろうはずがない。
見せてみろ、お前の感情を。あのバカみたいな微笑みではない、リアルな感情を。
そして今度は俺が、お前を描いてやる。お前の絶望を映し出してやる。




