第28章
今こそ尋斗は人生で最も至福の瞬間を迎える筈であった。
錬磨を殺したと思い込まされてきた自分が悔しかった。
しかし、その胸をかきむしりたくなるような悔しさも、揺一が絶望する姿を見ることで忘れられるだろう。
これまで、揺一がそうしてきたように、今度は自分が揺一の絶望を観察し、絵にするのだ。
そうすることで、自分はやっと長年目指し続けた境地に至れるのだ。
ざまあみろよ、草摩のくそじじいめ。
良秀になるのは俺だ。
揺一の味わう地獄を描いて、俺が良秀になるのだ。
滝村揺摩ではない。
滝村斗摩こそが、良秀になるのだ。
しかし。
最高の瞬間を迎える今に至って尚、脳内の警鐘は鳴りやまない。
この先に進んではならない。
この先は破滅への一本道だ。と、尋斗に警告を発し続けている。
無意識に何かを感じ取っているのだろうか。一体何だというのだ。
尋斗は胸に広がる全ての不安と疑惑をねじ伏せて、渾身の力を込めて目の前の揺一を睨みつけた。
膝を折って、身を震わせる姿を、尋人に憎悪の言葉を吐きながら頽れる姿を想像しながら。
しかし、目の前の男は、
ただ微笑んで尋斗を見つめるのみであった。
その揺摩の様子は尋斗に、愚かな人間をどこまでも愛する神のような神々しさを感じさせた。
……なぜだ。
どうして絶望しない?
どうして俺を憎いと思わない?
どうしていつもの穏やかな微笑みで俺を見るのだ。
やめろ。その顔で俺を見るな。
どうして、お前は…
「知っていたよ。」
……え?
「お前が俺を憎んでいたのも、詩織とお前が関係を持っていたのも、知っていたよ。
でも、お前が僕と詩織を交際させたいようだったから、お前の計画に載ってみたんだ。
残念ながら僕自身は詩織に愛情を抱いたことはなかったけれどね。」
そんなはずはない。
お前が詩織を気遣うところを見たんだぞ。
人に興味のないお前が、詩織に対してはいつも視線を向けていた。
あれが好意以外の何だというのだ。
「ああ、確かに。彼女に注目はしていたさ。
だって彼女は、女性に真剣になれないお前にとっての、唯一になったかもしれない人だったからね。
お前が彼女に愛情を抱けば、それが僕の新しい画題となるだろう?」
……。
「お前は知っていたのかな?お前の中で唯一の理解者である「手紙の彼女」の正体が、詩織だったということを。
そして知っていたのかな?彼女がお前の子を妊娠していたことを。」
…………なに?
…こいつは何を言っている?
意味がわからない。
詩織が手紙のあの人だというのか。
俺の子を身ごもっていた、だと。
『あなたはあなたの描きたい絵を描いて』手紙の言葉が詩織の声で再生される。
手紙に綴られた整然と並んだ綺麗な文字。
なぜ今まで気づかなかったのだろう。
確かにあの字は詩織の字ではないか。
なんてことだ。
ああ、詩織、…お前だったのか。
どうして何も言ってくれなったんだ。
いや、違う。
そうじゃないよな、俺が君の声に耳を傾けなかったのだ。
詩織が亡くなってから目をそらし続けていたが、彼女がいなくなることで感じた喪失感に、ここへきてようやっと向かい合う。
そうして、露わになった自分の気持ち。
今頃になって自覚するなんて。
俺は、君を…。
――だが、もう遅い。
最期に詩織と会った時のことが思い出される。
自分が彼女に何を言ったのか。
ああ、すまない、許してくれ。
詩織、詩織。
俺はどうしたらいいんだ。
両足から力が抜けていく。
今度こそ尋斗は耐えきれずに膝をついた。
手から重い像が滑り落ち、床にぶつかり鈍い音を立てる。
その様子を揺一が見つめている。
子どもの成長を見守る母親のような慈愛すら感じさせる眼差しで。
そうして尋斗を見つめながら語りかけた。
揺一が語るその言葉は、もはや耳からではなく、直接尋斗の脳内に響いてくるように感じられる。
――詩織はきっと亡くなる直前にお前に会いに行ったんじゃないのかな?
彼女、それまで、ずっと体調が悪そうでね。
最初は風邪気味かもって話していたんだけど、頭痛や吐き気が治らなくてね。病院に行くことを勧めたんだ。そのうち治るからとか言っていたが、流石に長引く症状に受診したようだね。
だけど、その後からどうも様子がおかしくてね。受診の結果を聞いても偏頭痛だったみたいだと本人は言うんだけど、ゴミ箱に捨ててあった領収書から産婦人科にかかったことがわかったんだ。
その時に、妊娠していることに勘づいてはいたんだけど、これから彼女がどうするのか見守ろうと思ってあえて何も言わなかったんだよ。
――そんな時に、長期の出張だろう?
君に相談に行くんだろうなって、思ったんだけど…まさか死んでしまうほど思い詰めていたとはね。可哀想なことをしたよ。
――でも、その様子だと、妊娠の話は斗摩は知らなかったみたいだね。
例の手紙の主のことも…
彼女も全部話してしまえばよかったのになぁ。
女心は難しいなぁ。
揺摩は顎に手を当てて、皮肉でもなんでもなく本当に残念そうにそういった。
尋斗は膝をついたまま、片手で顔を覆いうめくように問う。
「詩織が例の手紙の女性だと、どうして知っていた?」
――ああ、それはね、偶然。
見たから、彼女のアトリエで。
ゴミ箱に捨てられた、手紙のなり損ないを。
まだ、彼女と交際するずっと前かなぁ。必死で、斗摩さんには言わないでって頼まれたから僕から話すことはしなかったけど。
…彼女はいずれ自分で打ち明けると思ったんだけどなあ。
――彼女から手紙の主の正体を聞いたら、斗摩がどんな反応するのか楽しみだっんだけどね。残念だよ。
もう、聞きたくないと思った。
揺一の口から出る言葉のひとつひとつに、尋斗の心の中にある、核のようなものが削り取られて行くようだった。
俺は、お前に騙されて、錬磨を殺したと思い込んだ。
そして、詩織のことも、何も気づかずに…。
お前を苦しめてやってるつもりで…
逆にお前の掌の上だったって訳か。
そう呟いて、もう何も聞きたくないと耳を塞ごうとした。
もう、何もかもどうでもいいと、何も考えたくない、と。
その俺に揺一は言った。
――おや、嘘はいけない。
――お前、ここに至るまで、本当に何も気づかなかったのか?
――本当に、一ミリも、俺が錬磨を殺した可能性に思い至らなかったのか?
――詩織の真実に目を向けられなかったのか?
心臓が、ひときわ大きな悲鳴をあげた。
これは、聞いてはいけない言葉だ。
聞いてはいけない、聞けば自らを処刑台に送ることになる。
脳内で再び警鐘が大きく打ち鳴らされる。
――違うだろう。お前は賢い人間だもの。
聞きたくなくとも、耳をふさごうとも、揺一の言葉は尋斗の内側に容易く侵入する。
――本当はここへ来る前に確信していたはずだ。僕が錬磨を殺した犯人なのだと。
――詩織へ抱いた愛情にも、薄々気づいていただろう?彼女が亡くなった直後に。いや、もしかしたら、彼女が亡くなる前から何か感じるところがあったんじゃないか?
――でも、気づかないふりをした。
――お前の悪いところだよ。自分の心を守るために、都合の悪いことは見えないふりをする。気づかないふりをする。
――詩織への愛を自覚することはお前にとってそんなに恐ろしいことだったのかい。ああ、愛した女性を苦しめていた事実を、受け止めきれないと無意識に思ってしまったのかな。
――では、僕の犯行を認めることができなかった理由は、お前が僕の絵が大好きだからかな。
――わかるさ。ずっとお前を観察してきたっていただろう。お前が僕への信仰にも似た憧憬と嫉妬から来る憎悪に葛藤する様子はとても興味深かった。いい題材だったとも。
――だが、今のお前の抱える絶望は今まで描いた作品がかすむほど素晴らしい題材になるだろう。僕はどうしてもこの絶望を描きたい。人間の抱く感情としてこれほど強烈なものは他にない。そうだろう、斗摩。
ああ。
確かに俺は最低な人間だった。外道な人間であることに間違いはない。
だが。
愛していたことにも気づかずに、唯一の女性を死に追いやったこの俺が外道なのか。
画家でありながら本業を忘れ去り、詐欺まがいの行為によって金儲けを企んだ男は外道ではないのか。
弟子の一人を高みに上らせるために、別の弟子を生贄にした師は外道でないのか。
人間の感情を描くために、果ては人を殺しても平然としている男は外道ではないのか。
結局どいつもこいつも同じ穴だ。
ふと、揺一に視線を向けると、奴は、それはそれは興味深そうにじっと俺を見つめていた。
くそ、俺を描こうというんだな。悔しいが、今の自分をモデルにすればさぞかし匂い立つような美味な絶望を描き出せることだろう。
しかし、この手のうちにある木像が警察に渡ればどうなるか。
遠からず揺一は逮捕されるだろう。当然、俺も無傷ではすまないが。
…しかし。
そうなれば、次に滝村揺摩の作品がこの世に生まれるのは、一体いつになるのだろう。
自分の唯一の神であった滝村揺摩の作品が二度とこの世に生み出されないかもしない。その可能性に今更ながら心が震えた。
そんなことは許されない気がした。さっきまで、揺一を警察に突き出す気満々だったくせに。
まったく、俺は自分の気持ちに気づくのがいつもおそすぎるようだ。
それに。
結果的に練磨を殺してはいなかった俺は、たとえ逮捕されても、人殺しとして裁かれることはないのだ。愛する詩織と己の子を死に追いやったのに。
遠くからパトカーのサイレンの音が聞こえる。きっと但馬だろう。
様々な思いを胸に、目を閉じて天を仰ぐ。
そうだ。揺一の言う通りだった。
きっと俺は但馬に話を聞いた時から無意識に気づいていた、錬磨殺しの真実に。
もっとずっと前から気づいていた、詩織への愛情に。
しかし、気づきたくないと心に蓋をした。
その蓋が開きそうになると、こうして心が警鐘を鳴らしていたのだ。
だってそうだろう。真実に気づけば、自分の気持ちに気づけば、俺の取るべき道はただ一つ。
それは破滅への一本道。
わかったよ、クソジジイ。
尋斗は膝まづいたまま、大きく息をついた。
俺も自分の芸術の神が誰かの手で裁かれるのを見たくはない。敬愛する画家の作品が永遠にこの世に生み出されない可能性になど耐えられない。
揺一の視線を感じる。
大声で喚き散らしたい。泣き叫びたい。そんな衝動がこみ上げる。
それでも、その気持ちを抑えつけたのは俺の最後の意地だった。
最低で外道な人間にも最後の意地くらいあるのだ。
そうだ、よく見ていろよ、揺摩。
俺のこの、最後の矜持をな。
萎えた足を無理やり動かして立ち上がる。
足下に転がる木像を拾い上げる。
そして作業机の傍の暖炉に近づく。
勢いよく炎は燃えている。
悪かったなあ、詩織。これで少しは許してくれるか。
暖炉の前に立つ。
相変わらず背中に揺一の視線を感じる。
それでいい。見届けろよ、絶望に打ちひしがれた男の矜持を。
それまで後生大事に抱えていた木像を頭上高く掲げて、暖炉の中に放り込む。
周囲に火の粉をまき散らしながら、炎の中に投げ入れられた木像が燃えていく様を確認すると、ゆっくりと背後を振り返った。
「凶器」は失われた。
高咲揺一の犯罪を立証する証拠はなくなった。
揺一の犯行が否定されれば、間違いなく俺が殺人犯として裁かれることになるだろう。
警察も、もともとそのつもりだった筈だ。
そこに「犯人」の自白が加われば、但馬刑事が何を主張しようとも、錬磨殺しの犯人は俺ということになるだろう。
黙って尋斗の行動を見守っていた揺一にゆっくりと向き合う。
彼の表情からは先ほどまでの微笑みは消え、代わりにいつになく真剣な表情が浮かんでいた。
そんな揺一に向かい、いっそ皮肉げに笑いながら俺はこう告げた。
「滝村錬磨を殺したのは、間違いなく、瑞沢尋斗さ。」




