第23章
高咲詩織から今夜会いたいと連絡が入ったとき、斗摩、本名・瑞沢尋斗は自分のアトリエで一人ゆがんだ笑いを浮かべていた。
滝村錬磨を殺してしまったあの夜から五年が経っていた。
警察が事故であるとの判断を下したことで捜査が終了し、ほとぼりが冷めた頃、揺摩と尋斗は新たな作品を発表した。
揺摩の作品のタイトルは「逃避」、尋斗の作品は「壁」という。
今回も合作形式で、二人がそれぞれ共通のテーマで作品を描いたものだった。共通のテーマは「人生の岐路」。
有名リクルート企業が共催する展覧会用の作品だったので、それらしい共通テーマを設定した。自身の人生を振り返り、人生の転換点に思いを馳せ、作品を描くというテーマだった。
尋斗の作品は、そのタイトル「壁」の示すように滝村派らしい大胆な構成で白い巨大な壁を画面の右から中央にかけて描いている。描かれた壁は階段状になっていて、上って行けば乗り越えることもできそうだ。その壁の内側には青空の広がる野原が広がっている。
一方で壁の外側は構図の関係上見えない作りになっていて、「壁」の外に広がる景色は鑑賞者の想像に委ねられることになる。
作品の評価は上々で、展覧会に訪れた人々の共感を得た。
展示の際に作品に添えられる作品の説明書きでは、尋斗の作品のタイトル「壁」について次のように書かれている。
「自分の夢をかなえる上で、乗り越えなければならない『障壁』を意識し、真剣に向き合ったことが人生における岐路であった。その経験を込めてこの作品作りに励んだ」と。
実際はもちろん違う。
「壁」は確かに尋斗の人生における成功を阻害する事物を意識し、それを白いレンガ造りの巨大な壁に喩えて描いたものだ。
しかし、その「壁」のモデルは尋斗の中では非常に具体的だった。
「自分の人生において成功を阻害する事物」は「錬磨の事件」の他になかった。
錬磨の殺害が露見すれば、自分の画家人生は終わる。まさにあの夜の出来事は尋斗にとっての「人生の岐路」であった。
あの夜の出来事を暗示するように、真実の事件現場である階段を模して、壁を階段状にしているのは尋斗の遊び心でもあった。
この展覧会に出品する作品を制作するにあたって、二人でアイデアを出し合った当初、揺摩は「偽装」というタイトルで作品をつくりたいと尋斗に語っていた。
本来ならば、最初に二人の共通のテーマを決め、それから各々の作品作りに進んでいくのだが、今回に限っては、既に描きたい構想があるという。
「馬鹿か、お前は。そんな絵を描いてみろ。警察に目をつけられて、せっかく事故で片がついた件を蒸し返されるかもしれないだろ。」
「おや、まだどんな絵を描くのか聞いてもいないじゃないか。」
「聞くまでもないよ、「偽装」なんてタイトルつけやがって。錬磨の件を描こうとしてるんだろ。」
「そうそう。二人で考えて色んな偽装工作したよね。ああいう緊張感と焦りの感じられる場面を描きたいなあ。」
ぼんやりと呟く揺摩を睨みつける。
どうも、今までにない経験を描きたい欲求に抗えない様子だ。
「だから、ダメだって言ってんだろ。お前がそんな勝手なことするんなら、俺は『共犯者』ってタイトルでお前の肖像画描くぞ。」
揺摩は「いいね、それ。」と言って俯いて小さく笑った。
それを見て、なんでうれしそうなんだよ。と、心の中で毒づいた。
「冗談だ。とにかく、明らかに事件のことを暗示するような作品は却下だ。」
「明らかじゃなければいいのかな。」
「まあ、描きたい気持ちは俺にも分かる。…事件の関係者が見ても分からないようにしろよ。」
「そんだね。じゃあ、僕は「逃避」ってタイトルにしようかな。」
嬉しそうに語る揺摩を眺めながら、何で事件を題材にした絵のタイトルが「逃避」なんだよ。と思ったが、口にすることはなかった。
どうせ、殺人の罪から「逃避」した、とか何とか言うんだろう。
そんなやり取りを経た結果、表向きは「人生の岐路」という共通テーマで作った作品は大いに評価された。
草摩に錬磨と、ここ数年で滝村派は創始者と一番弟子を続けて亡くしたが、この二人がいれば滝村派は安泰だ、と画壇からは絶賛される結果となり、揺摩と尋斗は若き才能ある画家としての地位を盤石なものとしたのだった。
そうして事件から半年が過ぎた頃、尋斗は揺摩を破滅へ導く計画を実行に移しだした。
まずは詩織に近づき、関係を持った。
その後、揺摩と交際させ、結婚させる段までこぎつけた時には、計画通りに進む事態に笑いが止まらなかったのを覚えている。
揺摩が詩織と交際をすすめていた間も、尋斗は詩織との関係を持ち続けた。
揺摩本人が、幸せで充実した生活を送る姿を見つめながら、お前のその幸せは実はまやかしだということを知っているぞ、と密かに嘲笑ってやる毎日の、なんと甘美なことか。
揺摩の幸せをいつでもこの手で破壊することのできる優越感はたまらなった。
だからだろうか。
尋斗はこの計画のために詩織と関係を持ってから、心が満たされる感覚を覚えていた。
当初は、揺摩に怪しまれないためにも、詩織との関係の裏で今まで通り、言い寄ってくる女性たちとの関係も続けるつもりであったのに。
どうしたことか、この頃では詩織以外の女性とともに過ごしても、どうにも満たされない気持ちになってしまうのだった。
詩織から今夜会いたいという連絡が入ったときも、揺摩が今夜は帰宅しないことを知っていた尋斗は今夜の逢瀬を楽しみに、機嫌良く本日の残りの仕事に取り組んだ。
そうして、いざ詩織と会ってみると、彼女は非常に思いつめた様子でこの関係性に疲れてしまった、などと泣きついてくるのだ。
詩織と会う場所はいつも尋斗の自宅マンションだった。これも、付き合いしてきた女性を自宅に招いたことなどない尋斗にしては、考えられないことだった。
この日も尋斗は詩織を自宅に迎え入れた。いつも通り彼女と過ごす心づもりで。しかし、詩織の方はいつも通りとはいかないようだった。
尋斗が部屋に迎え入れるなり、突然彼の胸元に縋り付いて泣き出したかと思えば、この関係性を終わりにしたいと言い出したのだ。
今までにも詩織が疑いの眼で自分への愛情を確かめてくることはあった。しかし、その都度、尋斗は自分自身の才能を愛するように詩織のことも愛しているのだと、真摯に答えてきたのだ。
その答えを聞くたびに詩織は満足していたと思っていたのに、今回はどうも勝手が違っていた。
尋斗のどんな慰めにも耳を貸す様子はなく、何かを決意した強い目で、まっすぐに尋斗を見つめ、すべてを揺摩に話すと宣言したのだ。
そして、自分のことを愛しているというのであれば、揺摩との関係を清算したうえで、改めて交際を始めよう、と。
その詩織の訴えを聞いて、――本当に自分勝手な話であるが――尋斗は激しい怒りを抱いた。
自分は今の関係で満たされていたのに。
その自分の幸福を奪うのか、と。
お前も楽しそうにしていたじゃないか。
などと、見当違いな腹立たしさを覚えてしまったのだ。
だから、詩織の手を振り払い、これ以上ない程の冷酷な声で好きにしろと告げたのだった。
信じられないものを見るように、大きく目を見開いてこちらを見上げる詩織を見下ろしながら、どこか他人ごとのように、やはり自分は外道な人間なのだと感じていた。
浅くはない付き合いがあった彼女に対してこんなに冷酷な態度に出ることができるとは。
思い返せば、自分が心を動かされる人物というのは、世界にたった二人しかいないのだった。
幼い時から何事にも興味を持てず冷めた目で世の中を見ていた自分にとって、世界とは無味乾燥で白黒のつまらないものでしかなかった。その世界が色づいたのは、揺摩に出会ってからだった。
それからさらに数年後、ある手紙を受け取ったときに、生まれて初めて他人の言葉に喜びを覚えた。
今まで自分にかけられた多くの言葉には、何の感情も湧かなかった。
親や友人であろうとも、所詮は他人だ。
自分のことを理解した気になって掛けられ言葉のなんと空虚なことか、と。
そうやって、どこかで嘲笑っていた自分のもとに届いた、一通の手紙。
差出人の名前も住所も書かれていないその手紙には、自分の心のうちに抱えた揺摩への葛藤によりそう内容が書かれていた。
さらに、揺摩を意識しないで、あなたの絵を描いて欲しい、とも…。
嬉しかった。ただ、単純に。
理解されることの喜びを感じた。
そんな気持ちになったのは初めてのことだった。
それから、自分が新作を発表する度に送られてくるその手紙を心待ちにした。
数度目に送られた内容から、手紙の主が年下の女性らしいと分かった。
それからは彼女を思うときは、自分もまともな人間として、恋愛感情を持てているような気になった。
だが、その二人以外に自分の心を動かせる人間はいなかった。だから、こうして今、詩織を切り捨てようとしていることに罪悪感を持つこともないのだ。
詩織に最後の別れの言葉を突きつけようとした時だった。
怒りに染まった頭の内で、隅っこに追いやられていた冷静な自分が少しだけ帰ってきたのだろうか。
尋常でない様子の詩織をこれ以上追い詰めることに少しの躊躇いが生じた。
ここで俺に今までの関係を否定された彼女は、何を思い、どうするのだろう?
一瞬よぎるのは、彼女が自ら命を絶つ可能性。
もし、万が一そうなったとしたら、揺摩は何を感じるのだろう?
最愛の人を失って、絶望の底に叩き込まれるのではないか?
その姿こそが自分の求めるものだったのでは?
そこまで考えた時、胸が締め付けられるように痛んだ。
原因不明の痛みに尋斗は首をひねる。
ここまでやっておいて、今更良心の呵責もあるまいよ。
嗤って、その確かな痛みを無視して、外道らしく高咲詩織を切り捨てる言葉を吐いた。
「そんなに嫌なら、この関係は終わりだ。もうお前に用はないよ。」
それだけ言い捨てて、尋斗は茫然としている詩織を残したまま、自宅を後にした。
その日はもう自宅へは帰らないつもりだった。
詩織がまだあの場に残っていたとしたら…彼女と顔を合わせるのは煩わしい。今夜と明日あたりはよそに泊まろう、そんなことを考えていた。
ただ。
なんだか予感めいたものは感じていた。
だから、数時間後、まだ早朝の時間帯に揺摩から電話がかかって来た時にも「やはり」という思いが先行しており、驚くこともなかった。
だからこそ、電話の向こうの呆然とした揺摩の声が「詩織が死んだ」と告げた時、自分はきっと冷静に「そうか」と返したはずだ。
自分が返事した声が無様にかすれていたような気がするが、きっと朝一番に声を出したからなのだろう。
その後、揺摩の自宅に向かった。何度か訪れたことのある彼らの家は警察車両と出入りする警官によって異様な雰囲気に包まれていた。
玄関前にいた警官に事情を話すと、中に案内された。揺摩は居間で事情聴取されているらしい。警察官に適当に相槌を打ちながら居間に向かう。
途中の廊下で少し待っていてくれと言われ、一人で佇んでいたときだった。
居間から二人組の人間が出てきた。
どうも見覚えがあると思い、暗い廊下で目を凝らしてみれば、それは錬磨の事件のときに捜査に来ていた刑事たちだった。
どうして彼らがここにいるのだろうか。
内心で驚くが、表情に出さないように努めた。
恐らく向こうも自分に気付いたろう、目が合った気がした。
特に年上の刑事――確か但馬とかいったか――彼の方は錬磨の事件の折もしつこく調べ回っていたから、何か言われるだろうか、と身構えた。
しかし彼らは何も言わずに横をすり抜けていった。
その態度に拍子抜けしたと共に、一種の不気味さを感じはしたが、今はそれどころではない。
彼らが玄関から出ていく姿を見届ける。この場に彼らが来ていることが気になりはしたが、今とにかく揺摩に会うために居間に入った。
そこには肩を落とし、まさに悄然とした様子でソファに深く腰掛けた揺摩がいた。
尋斗が彼に近づくと、顔を上げてこちらを見上げた。そして茫然とした様子で、「斗摩…」と呟くと、「詩織が死んでしまったよ」と力のない声で言った。
尋斗は彼にかける言葉もみつからないままに「そうだな」とだけ答えた。
二人のほかに誰もいない暗い部屋に、その声は震えて響いた。
尋斗の震えた声を聞いた揺摩は、驚いたように目を見開き、ソファに座ったまま、こちらの顔を覗き込むようにして確認すると、「大丈夫かい?」と気遣わしげに尋ねてきた。
揺摩に心配されるほど、自分はショックを受けているようにみえるのだろうか。尋斗は少しだけ動揺する。
しかも、愛する人を失って、気落ちしているであろう揺摩の姿を目にしたのに、ちっとも喜びを感じなかったのだ。
大事な人を失った絶望を、彼から感じられると期待していたのだが。
彼からは確かに悲しみを感じるが、絶望と呼べるほどの悲惨な感情は感じられなかった。
そこまで考えた時、自分がこの事態を思ったより楽しめていないことに疑問を感じた。
人の心を持たない外道の自分はどうしてしまったのだろうか。
その上、詩織の死にショックを受けているのではないかと思われ、当の揺摩に気を遣われてしまうとは。
こんなはずではなかった。揺摩の深い絶望をじっくり噛みしめ、味わうつもりだったのに。
――本当にしょうがない人。
落ち着きなくうろたえる自分の耳の奥で、詩織がため息交じりに呟く声が聞こえた気がした。




