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第21章

強面刑事から事件の概要を聞いた但馬と朝山は所轄が行っている揺摩の事情聴取が終わるまでの間、詩織の部屋を調べることにした。

調べるのは詩織の寝室と彼女がアトリエとして使用していた仕事用の部屋だ。

揺摩は筆がのると時間を忘れて創作に取り組むため、自宅に帰ってくる時間が遅くなることも多く、仕事場に泊まり込むこともままあった。

そのため夫婦であっても寝室は分けて生活していたのだそうだ。

詩織の寝室は所轄の捜査員が床や壁に張り付く勢いであらゆる痕跡を調べている。

遺書はまだ見つかっていないそうだ。


但馬と朝山は寝室を調べることは後に回し、最初に諸織のアトリエから見て回ることにした。

あくまで、揺摩に話を聞くために来たので、所轄の刑事の許可があるとはいえ、おおっぴらに調べて回る訳にもいかない。

所轄の捜査の支障が出ないようにアトリエの中の物には触れず、彼女の五年間の足跡を追うように見て回る。

イーゼルに立て掛けられた制作中の作品。

大小さまざまな筆が幾本かにまとめられて立てられた筆立て。

種類ごとに分けられた絵の具の数々。

完成した作品と思われるキャンバスが保管されているスチール棚。

特に不審なものを発見することもないままにぐるりと部屋を見てまわった朝山は、部屋の奥でじっと佇む但馬に気付いた。

但馬はスチール棚の陰に一脚だけ立てられたイーゼルの前に立ち、そこに掛けられたキャンバスを食い入るように見つめていた。

朝山もその絵に近づき、但馬の横からその絵を観察する。

遠目に見える立派な山を背景に、手前には古風な太鼓橋がかかり、その橋を渡る人々が描かれている。

M型の十二号、六十センチ×四十センチのその絵はいかにも滝村派の作品である。

西洋美術風に油絵具で色がつけられているが、その構図や色使いは、浮世絵の技法で表現したものだった。

右下のサインには「Soma Takimura」の字が見られる。

 

但馬があまりにも怖い顔でその絵を見つめていたものだから、「何かみつかりましたか」と、気軽に声を掛けることも躊躇われた。

しかし、結局朝山は、この絵に但馬が何を見出したのかを知りたい欲望に抗うことはできなかった。

但馬に声を掛けようと口を開いたその瞬間。

「…朝山。」

と、呟くような声で逆に但馬から声を掛けられた。

「お前、この絵をどう見る…?」

但馬は隣に立っていた朝山に向き直り、顎で先まで見つめていた絵を示した。

どう見るって、聞きたいのはこちらの方だったのだが…と思いつつ、朝山は腕組みをして首をひねる。

目の前の但馬とイーゼルに立てられたキャンバスを見比べる。

但馬の顔は真剣そのものだ。

朝山はううん、と唸ると考えつつ答えた。

「…この絵の作者は右下のサインと画風から考えて滝村草摩の作品でしょう。高咲詩織は草摩の弟子ですから、生前の師匠にこの絵をもらい受けたのでは?」

その答えを聞いた但馬は、部屋の奥に置かれた、この絵を隠すように立てられているスチール製の棚に手をかけた。

棚は意外としっかりした作りで、詩織のものと思われる過去の作品がそれぞれの段に伏せられ積まれている。彼女の作品保管用の棚なのだろう。

その棚に薄っすら積もった埃を指ですくいながら、但馬はさらに朝山に問いかける。

「あの絵だけが埃一つなく、わざわざイーゼルに立てかけられ飾られていた理由について、どう考える?」

「え…?ええと、ですね…」

朝山は埃の積もったスチール棚を見上げながら、さらに脳みそをフル回転させる。

「ううん、まぁ、あくまで推測ですが…師匠直々に彼の作品を譲り受けた訳ですからね。大事に扱うでしょうし、自分の作品とは同じ棚に保管するのは悪いと思ったので、このイーゼルに立てて保管していたのではないですか?」

但馬がこの絵の何に引っかかったのか知らないが、そこそこ筋の通った答えを導き出したのではないか?と朝山は自身を評価した。

しかし、但馬は朝山の答えに「そうか…。」と答えたきりで、その通りとも間違っているとも言わない。彼はただ、「この絵の写真を撮って、記録として残しておいてくれ。」とだけ答えた。

「何か分かったんですか?」と、朝山が聞いても、「まだ推論の段階だから、確かなことは言えない。」とはぐらかされてしまう。

こうなった但馬が、自分の考えを簡単に口にしないことは、これまでの付き合いの中でよくよく承知している。

朝山はため息をつくと、「後でちゃんと教えてくださいね」と念を押して、気持ちを切り替えた。

そして、揺摩の事情聴取が終わる頃合いだからそろそろ行きましょう、とまだ考え込む様子を見せている但馬を促したのだった。




 高咲揺一の事情聴取はリビングで行われていた。

但馬と朝山が部屋に入ろうとした時に、二人と入れ違いに所轄の刑事が出ていった。

ベランダに面した窓からは光が差し込んでいるのに、部屋全体が何故だか薄暗い。

心象的に暗さを感じる部屋、それはまるであの山荘のアトリエのようだ、と但馬は思った。

 リビングにはソファとガラスのテーブルが置かれている。

そのソファに一人の男が座っていた。

両ひざに肘をつき、俯いて頭を抱える姿は痛々しいものだった。

 高咲さん。

と、但馬が呼びかけた声はリビングに虚しく響いた。

その声に俯いた人物はピクリと反応し、顔を上げた。

昨日からろくに寝ていないであろうその顔は、疲労が色濃く映し出されてはいたが、五年前とそれほど変わっていなかった。

飾り気のないラフな服装に長めの前髪と無精ひげ。

画家としてさらに名が知られるようになっても、彼のスタンスは変わっていないようだ。

五年前は錬磨の死には特に動揺を見せなかった彼だが、今、長い前髪に隠された彼の顔には疲れと悲しみがうかんでいる。


「お久ぶりです、揺摩さん。県警の但馬です。」

揺摩は最初、怪訝そうに二人を眺めていたが、但馬が名乗ると「ああ、あの時の…」と言葉をもらして会釈した。

「この度はとんだことで…ご心痛お察しします。」

丁寧にお辞儀をする但馬に続いて朝山も「ご愁傷さまです」と頭を下げた。

対して揺摩は、ええ、とか、ああ、というような言葉を小さな声でもごもごと呟いた。

「既に所轄から色々と質問されておられるかと思いますが、我々からもいくつかご質問させて頂いてもよろしいですか。」

「ええ。まず、滝村鶴摩さん、本名鶴見詩織さんとご入籍されたのはいつ頃ですか。」

「ええと、一年半ほど前に…。では、ご交際はいつごろから?…確か、結婚の三年ほどまえからです。」

 聴取は淡々と進んだ。

但馬が訊いた内容を、朝山は慎重に手帳にメモする。

錬磨の事故の後、斗摩に仲を取り持ってもらう形で、以前から好意を寄せていた詩織と交際を始めたこと。

その後結婚し、この家で二人で生活していたことなど例の事件以降の様子を聞かれたままに答えていく。揺摩は聞かれたことに対して、時折、思い出すようなそぶりを見せながら滞りなく答えていく。

「最近の彼女の様子はどうでしたか?」

「…なんだか元気がないな、と思うことはありました。何か悩んでいるようにも見えましたが、僕も忙しくて、ついそのままにしてしまいました。

…あのとき事情を聴いていれば、こんなことにはならなかったのかもしれません。」

「あまりご自分を責められませんように。」

「…はい。」

「では、次の質問ですが、少々不躾な内容をお聞きしますがご容赦ください。」

「…はい、何でしょう。」

「五年前、錬磨さんの事故を捜査した当時の私の目から見て、詩織さんは斗摩さんに好意を抱いているように見えました。」

ひやり。

但馬が、それまでの聴取の流れのままに詩織の本心に迫る質問に踏み入った瞬間だった。

 

 朝山には朝山には直前まで順調に流れていた時の流れが、その時、突然凍り付いたように感じられた。

手元に目を落とし、必死に手帳にメモしていたため、斗摩と但馬の様子は朝山には見えていない。

それでも、その場の空気が変わったことは肌で感じ取れた。

自分が訊かれているわけでもないのに、心臓の鼓動が早くなり、緊張で体が強張る。

但馬は今、人間が他人に見せたくないであろう、心の奥深くに踏み込む話をしようとしている。

その無遠慮さに、この時点で揺摩が激怒してもおかしくない。

けれども、それらを全て承知の上で、それでも但馬は続けて訊ねる。

 

「詩織さんとの交際を始める上で、詩織さんの気持ちはどのようなものだったと思われますか?」

揺摩からの返答はない。

冷たく暗い沈黙のみが落とされる。

朝山は手帳にメモする姿勢のまま、顔を上げられなかった。

それ程の緊張感に支配される。

その時。

ふっ、と空気が緩んだ。

揺摩が小さく息を吐きながら微笑む気配がした。

朝山は思わず顔を上げて揺摩見た。

長い前髪も向こうで彼は、とても悲しそうに、しかしほんの少し懐かしそうに眼を細めて小さく笑っていた。

その彼が言う。

「詩織が斗摩を好きだったことは知っていたよ、もちろん。でもね、斗摩が詩織の気持ちに応じるはずがないことも僕は知っていたから。

詩織が交際を受け入れてくれた時は、斗摩を諦めて、僕と付き合うことにしたのかなって思ってたんだけどね。

…でも、こんなことになってしまって…彼女の本心は別のところにあったのかもしれないね。」

 

 但馬とのやりとりで交わされていた、形式的な受け答えではない、すこし砕けた言葉遣いで返されたその言葉。

朝山はこの言葉こそが彼の偽ることのない本心だと思った。

聞かれたくないであろう質問に、本音で応えた揺摩に、朝山はこれ以上は踏み込めない、と思った。

揺摩の心には既に十分踏み込んだ。

これ以上は気の毒だ。

人としての同情と倫理観から、揺摩の心に引かれた境界線の内側へ、一歩踏み出した足を引こうとした。

「斗摩さんが彼女の気持ちに応じることがないというのは、なぜ?」

しかし、朝山の思いとは裏腹に、揺摩に投げられる問いかけ。

朝山はぎょっとして隣に立つ但馬を注視した。

但馬の様子は平素の通りだった。

特に気負いも同情もない。

いや、内心は慰めや哀悼の気持ちで占められているのかもしれない。

しかし、それを露わにしないのが但馬という警察官の在り方だった。

但馬の追求にも揺摩は表情を変えることなく答える。

「兄弟子の私の口から言うのもなんだが、斗摩は女性関係が派手でね。

あの容姿で人当たりも良いものだから、知り合った女性から交際を申し込まれることも多いんだ。

だけど、彼には心に残る女性がいるから、長続きしないんだよ。あの斗摩にも、かわいいところ、あるだろう。

…あれ、そういえばこんな話前にもしたんだったかな」


 そんな隈の浮かんだ顔で微笑まれても、朝山言葉もなくただ揺摩と但馬のやり取りを見つめることしかできない。

「斗摩さんの心に残っている女性というのは、例の手紙の女性ですか?」

「彼の恋心についてこの場で僕の口から話すのは、斗摩に悪い気もするんだけどなあ。僕が言えるのは、彼には長年、熱心に手紙を送ってくれる女性がいるってことだけだね。」

その話を聞き、朝山は怪訝な顔になり、思わず揺摩に聞いた。

「あなたや斗摩さんのように有名な画家であれば、ファンレターのひとつや二つ送られてくるでしょう。その女性が特別だとあなたが思う訳は?」

大っぴらにメディアに顔を出していないとはいえ、斗摩は容姿端麗で人当たりも良い。そざかし熱烈なファンレターが届くことだろう。

揺摩は首を振って、

「その女性はね、名前も名乗らないんだけど、斗摩が新作を発表すると必ず手紙を送ってくるんだ。十年前から、ずっとね。

その手紙の内容を僕は知らないけれどね、その手紙を読んだ直後の斗摩はやたら機嫌がよかったり、何か考え込んだり、次の作品への創作意欲が沸き上がったりしているみたいだね。

ただのファンレターを読んでいるときとは全く反応が違う。

機嫌がいい時なんて、まるで、好きな女の子に褒められた後みたいなんだ。

あ、僕がこんなふうに言っていたってことは、斗摩には内緒にしておいてくれよ。」

と、その場面を思い浮かべたのか、少しばかり微笑んで言った。


 滝村斗摩にそんな純真さがあったことに朝山は驚いた。

五年前の事故の捜査のときも、女性関係が派手であったことは、こちらもある程度把握していた。

しかし、その人物像とは異なる、兄弟子しか知らない一面があったということだろう。

顔も素性も分からない女性から一方的に送られた手紙によって思いを寄せる…残念ながら朝山には理解できないが、但馬はこの話を知っていたようだ。

それ以上の深入りは行わなかった。

お疲れのところありがとうございました、とあっさりと身を引き、揺摩への聴取は終わりとなった。


但馬と朝山がその場から去ろうとしたとき、制服警官がリビングにやって来て、遠慮がちに二人の刑事に声を掛けた。

揺摩から連絡を受けて、親しい知人がやって来たが、会わせてよいかとのことであった。

但馬は頷くと、「こちらの用件は済みましたので、我々は引きあげます。ご協力どうもありがとうございました。」と挨拶をして、朝山と二人で居間を出る。

警官と部屋の入り口ですれ違い廊下へ出た。

玄関へ向かう廊下を歩む。

その前方、廊下の奥の暗がりにポツンと人影が佇んでいた。

警官の話していた揺摩の呼んだ「親しい知人」だろう。

廊下の暗がりに溶け込むようにして立っている人影に何気なく目をやって、朝山は思わず息をのんだ。

朝山につられて但馬も同じようにその人物に目を留め、動きを止める。


二人の視線の先、そこには滝村斗摩が五年前と変わらぬ容姿で、陰に溶け込むように立っていた。

その人物が滝村斗摩であると認識した瞬間、朝山は但馬を振り返った。

五年前の事故の関係者に、期せずして会うことができたのだ。

揺摩にしたように、ここで簡単に聴取をとることもできる。

但馬は数度瞬きをして、それからゆっくりと歩み出した。

玄関に向かうには、自然、斗摩にいる方向に進むことになる。

斗摩も目の前の二人組が、かつて錬磨の事件を捜査していた刑事だと気付いたのだろうか。

じっとこちらを見つめている。その目に警戒の色を乗せて。

朝山も但馬の後に続く。

但馬が斗摩の目の前まで進み、軽く会釈をして斗摩の横を通り抜けた。

何か声を掛けるものと思っていた朝山は拍子抜けした思いだったが、但馬と同様に軽く会釈をして斗摩をやり過ごした。

背中にこちらの様子をうかがうような斗摩の視線を感じながら玄関に至り、揺摩宅を後にする。

二人とも無言で車に乗り込み、県警本部へ向かった。

朝山の運転する車は、滑るように出発した。

しばらくは互いに口をつぐんだままだったが、数分経ったころにやっと朝山が口を開いた。

「よかったんですか。斗摩氏にお話を伺わなくても。」

但馬は、「ああ。」と、どこか上の空で答えると、

「…お前は、斗摩の様子をどう見る?」

と逆に質問してきた。

「え、いや、我々が五年前に捜査を担当した刑事だってことには気づいていたようですが、その他に言えるようなことは特には…。但馬さんは彼にどんな印象を?」

「…妙な例えばなしになるんだがな、斗摩の様子を見て、俺はまるで…」

「まるで?」

浮かんだイメージをわかりやすく言葉にする前に一度口を閉じると、朝山が食い気味に訊ねてくる。

あくまで俺個人が思い浮かべたたとえだ。

朝山に伝わるだろうか。

「まるで、大切な人にサプライズでプレゼントをしたのに、そのプレゼントを喜んでもらえなかった。しかし、贈った相手は自分を気遣って喜んでいるふりをしてくれている。それに気づいてしまった人間みたいだ、とな。思ったんだが…」

朝山は宙をにらんでしばらく考えていたが、その後、悲しげな顔で首を振った。

「……わかりません。」

まあ、そうだろうな。

「いいんだよ、分からなくて。俺が勝手に思い浮かべたイメージなんだから。」

小さく笑って答えた但馬だが、真面目な顔を作ると、「それより、高咲詩織の部屋で見つけた例の絵について、調べたい。手伝ってくれるか?」と年下の相棒に尋ねた。

「もちろんです!」

やる気に満ちた返答に目を細めて微笑む。

「草摩師から直接譲ってもらった…ってことなんだろうが、彼女なりの想いが詰まっているように感じてなぁ。

草摩がいつ頃制作したものか。

いつ、どんな美術展に出されたのか。

いつ頃詩織に譲られたものか。

…とにかく何でもいい、調べてくれ。」

朝山は車のハンドルを握り、力強く頷いた。


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