第20章
その日、但馬は非番明けだった。
最近はだいぶ冬の寒さも和らぎつつあり、ありがたいことに腰の調子もすこぶる良い。
機嫌よく職場にやってきて、いつも通りデスクに着き、休みの間に溜まった机上の書類に目を通していた時だった。
朝山が書類片手に、慌てた様子で近づいてきた。
「但馬さん、但馬さん!大変ですよ!」
「おう、朝山。おはようさん。」
「あっ、済みません。おはようございます。」
挨拶をすっ飛ばして開口一番、用件を話し出そうとする朝山に向かって、但馬が落ち着いて朝の挨拶をすると朝山も申し訳なさそうに挨拶を返した。
よしよし、素直でよろしい。朝の挨拶は社会人にとっての基本だからな。
「で、朝っぱらからどうした?」
隣に立って話を切り出したそうにもじもじしている朝山に椅子ごと向き合い、わざとゆっくりと彼の顔を見上げた。
言外に落ち着けと示したその態度の意味を、朝山は正しく理解した。まだ若いが聡明で将来性のある後輩だ。
ひとつ息をついて気を落ち着けた朝山は冷静な声音で手にした書類を読み上げた。
「先ほど県警に入った所轄からの報告なんですが、県下のある住宅でそこに住む住民が自殺したとの通報が入ったそうです。」
「自殺?」
但馬は眉根を寄せた。
痛ましい話だ。
だが、ただの自殺の通報で朝山が慌てて自分に報告に来るとは思えない。
「はい。浴室で手首を切ったことによる失血死によるものとみられるそうですが、詳しくは現在捜査中です。…問題はその亡くなった方についてなんですが…」
「俺たちの知っている人間だったのか…?」
朝山も書類から顔を上げ、苦い表情で但馬を見やる。
「ええ。亡くなったのは三十代の女性で、名前は…高咲詩織、と。」
「詩織……?…そりゃ、まさか…。」
聞かされた名前に最初は心当たりがなく疑問符を浮かべたが、詩織という名の響きにすぐに記憶がよみがえる。
「そうです。五年前、滝村派の画家が死亡した事故の際に聴取した関係者です。滝村鶴摩さん、当時の名前は鶴見詩織さん、でしたが。」
なんてこった。数回顔を合わせて話を聞いただけとはいえ、知っている人間が亡くなったと聞くと胸のあたりが冷たくなるような、嫌な気持ちになる。
「苗字が変わってるってことは、結婚したのか。」
「そのようです。ただ、その…彼女の結婚相手、つまり夫がですね、滝村揺摩さん。本名、高咲揺一さんです。しかも、その彼が第一発見者のようなんです。」
は?
揺摩と詩織が結婚した?
但馬は五年前の記憶を辿るが、どう思い返しても揺摩と詩織が夫婦となっている様子を想像できない。
揺摩の気持ちはともかく、詩織の気持ちは揺摩ではなく、斗摩に向いていたはずだ。
錬磨の死亡は事故によるものとの結論が出されてから五年。
その後、彼らに会う機会はなかったが、その間になにがあったのだろうか…。
そもそも錬磨の死亡事故を捜査している時も、言い知れない違和感を抱えていたのだ。
それがここへきて、人間関係に納得できない変化が見られた。
もしや、事件の本質を見誤ったか?
胸の内に疑惑と焦燥が湧き上がる。
すぐにでも県警を飛び出して、揺摩のもとへ行き事情を聴きたい思いに駆られる。
しかし逸る気持ちを押さえつけて、但馬はゆっくりとデスクから腰を上げた。
こんな時は心のままに焦って行動してはいけない。
冷静に、落ち着いてじっくりと物事を見極めて行動しなければ。
一度誤った判断を下してしまっているのだとしたら、尚更、冷静な思考と判断が必要となる。
「但馬さん…」
心配そうに声を上げる朝山の肩を宥めるように軽く叩いてやる。
聡明な後輩もきっと但馬と同じ気持ちなのだろう。
過去の自分たちの捜査が十分でなかったとは思わない。
その時の最善を常に尽くしている。
それでも覆い隠された真実を見逃すことはあるのだ。
あの事故も実は巧妙に真実が隠されていたのだとしたら…。
調べなければならない。
しかし、焦って行動を起こしても良い結果は得られない。
まだ若い朝山の手前、まずは自分がどっしりと落ち着いた態度を見せてやらなければ。
但馬は朝山の目を見て、低い声でゆっくりと、言い聞かせるように言った。
「まずは揺摩氏に会って詩織さんに関する話を聞くぞ。五年前の事故について見直すかどうかはそれからだ。じっくりと考えて慎重に動くぞ。いいな?」
「はいっ」
力強く頷く朝山を連れ、但馬は県警を後にした。目指すは滝村揺摩の自宅、…高咲詩織の自殺した現場だ。
滝村揺摩は本名を高咲揺一という。
本名と住所は五年前の事件の際に確認済みだった。
当時、彼の自宅を訪れることはなかったが、今になってこんな形でやって来ることになるとは思ってもみなかった。
揺摩は早くに両親を亡くしており、田舎の土地を受け継いだ。
しかし、彼は自分の生まれ育ったその土地をあっさり手放し売却すると上京し、古い戸建ての家をかりてアトリエ兼自宅としていた。
入籍後はその家に詩織も同居していたという。
但馬と朝山が揺摩の自宅に到着したとき、揺摩宅前にはパトカーが二台停車していた。所轄の警官が既に現場で捜査しているのだろう。
周囲に野次馬の類は見られないが、不自然に静かな周辺の住宅からは、それぞれの家々の中から様子を伺っている気配を感じた。
但馬と朝山が遠慮がちに玄関扉を置けると、目の前に無線を手にした制服警察官が立っていた。
近所の住人聞き込みをしに行こうとしていた彼は、突然の闖入者に驚き、険しい顔で口を開こうとするが、その前に但馬が警察手帳を示してみせる。
一瞬呆けた顔をしたものの、すぐに口を引き結ぶとお疲れ様です、と敬礼する。
その顔には、自殺の現場になぜ県警の刑事がやって来るのか?という疑問が表れていた。
お疲れ様です、とこちらも敬礼で応え、但馬が丁寧に事情を説明する。
「過去に我々が捜査した事件の関係者が亡くなったとききまして、事件との関係性を見極める為に来たのですが、こちらの自宅を改めても構いませんかね。」
但馬は所轄の警官に対してであれ、一般の事件関係者であれ、基本的には丁寧な物腰で接する。
ただ、常の但馬なら絶対に使わない丁寧言葉遣いが、聞いている人間には違和感に感じられてしまう。
慣れない態度でもって無理に礼儀正しくあろうとしています、とでも言う雰囲気が滲み出てしまう。
いやぁ困った、慣れない言葉遣いはするもんじゃないねぇ。
と、頭をかく姿まで容易に想像させる。
その雰囲気は警察という堅い職に就く彼を、親しみやすく柔軟な人間に見せる効果があるようだ。
警察と聞いて身構える人間は多いが、大体は彼のその態度を見て毒気を抜かれてしまう。
そのお陰で但馬主導で行う、事件関係者への聴取は大抵スムーズに行われる。
少々聞きにくい、プライベートに踏み込む質問もその調子であっさりと聞いてしまったりもする。
聞かれた方は多少は機嫌を損ねるがついつい但馬のペースに載せられて答えてしまうのだった。
大したものだ、と朝山はこの但馬の手腕にいつも感心してしまう。
自分などいくら経験を積んだとしても、あんな空気をまとうことはできまい、と。
だが、勘違いしてはいけない。
親しみやすい雰囲気だからと言って、但馬を御しやすい人物だと侮ると痛い目を見ることになる。
丁寧な物腰の裏では、物事の真実を見抜く鋭い洞察力を発揮して、油断なく相手を観察しているのだから。
玄関前の警察官は事情をきくと、納得顔で無線に何事か報告すると二人を屋内へと案内した。
玄関を入って廊下を進む。
廊下の奥で数人の鑑識が忙しなく作業している姿が見えた。
どうやら廊下の突き当りが自殺現場となった浴室と洗面所になっているようだ。
よくある住宅の間取りに見えることから、廊下の両脇にある扉がそれぞれリビングや寝室など他の部屋につながっているのだろう。
浴室の手前には洗面台と洗濯機が据えられた洗面所兼脱衣スペースがある。それ程広くない洗面所と浴室に、捜査員と鑑識が立ち代わり出入りして作業している。
数人の捜査員の中に浴室を覗き込み、中で作業している鑑識と話し込む人物がいた。なかなかの恰幅の良さと強面が特徴的な男である。
但馬と朝山を先導してきた警察官はその人物に足早に近寄り、何事かを耳打ちする。
強面の人物はこの現場の指揮をとる所轄の刑事だったようだ。
彼は報告に来た警察官と二言、三言やり取りすると、こちらを見やり軽く頭を下げた。
ゆっくりとした足取りで近寄ってきた彼は、但馬と朝山を見て強面の顔をくしゃくしゃっと歪めた。
…どうやら笑ったらしかった。
但馬も笑顔で愛想よく笑って言う。
「どうもどうも、忙しいときにすみませんねぇ。うちで過去に捜査した件の関係者が今回亡くなった女性でしてね。情報提供をお願いしてもよろしいかな?」
くしゃくしゃ刑事は何度も頷きながら、「いやぁ、県警の捜査員が来たと聞いて何事かと思いましたがね、そういうことなら協力いたしますよ。」と答えた。
但馬は、では早速ですが、と前置きして質問をはじめた。
「まずは、今回の件、自殺とみられているようですが、亡くなった女性は高咲詩織さんで間違いありませんね。」
「ええ、ご遺体は既に現場から運び出されていますが、通報者は彼女の夫ですし、まず本人で間違いないでしょう。」
但馬はさらに質問を続ける。
「通報者については?」
強面の刑事は懐から取り出した手帳をめくり、ええと…と呟きながら答える。
「通報者は高咲揺一さん、亡くなった詩織さんの夫です。
通報は本日の早朝五時。
数日仕事で不在にしていた揺一さんは、昨夜の夜遅く仕事相手と一緒に大阪から都内まで帰ってきたそうなんですが、そのまま行われた仕事の打ち上げが深夜から明け方まで及んでしまい、本日の始発電車でご自宅に帰ってこられたところ、浴室亡くなられている奥方を発見されたそうです。」
但馬は俯き考える仕草をしていたが、なるほど…と呟くと、顔を上げ更に尋ねた。
「死因は?」
「浴室のバスタブに湯を張って、睡眠薬を服用。その後手首を切って入浴したとみられています。
死因は失血死でしょうね。
…今のところ現場から不審な証拠も見つかっていませんからねぇ、自殺で間違いないでしょうなぁ。」
そこで朝山が口を挟む。
「第一発見者の揺摩さん…高咲揺一さんは今どちらに?」
「今別室で事情聴取を受けています。」
「彼と話をすることは可能でしょうか?」
「ウチの事情聴取が済んでからであれば構いませんよ。」
「ああ、助かります」
朝山と強面刑事がそのほかにも、いくつかのやり取りを行っている間、但馬は何事かを呟きながら情報を咀嚼していたが、満足したのか強面刑事に捜査協力の礼を述べた。
そして最後に、詩織の住んでいたこの家を簡単に捜索していいかを尋ねた。
強面はあっさりと頷き、所轄の捜査の妨げにならない範囲でお願いしますね。と付け加えてから承諾した。
但馬と朝山はもう一度捜査協力に礼を述べると浴室前を離れた。




