第19章
冬の終わりの柔らかな日差しが降り注ぐある日、高咲詩織は都内のある美術館を訪れていた。
そこは詩織にとって、学生時代に運命的な出会いをもたらした特別な場所であった。
しかし、この日の彼女は終始ぼんやりとした表情で作品を眺めるばかりで、展示されている作品から多くのものを感じ取ろうとしていたかつての姿からは想像もできない様子であった。
どうしてこんなことになってしまったのだろう。
詩織は展示された美術作品を見るともなく目にしながら、ここ数日で何十回となく繰り返された自問自答を脳内で反芻する。
転機はきっと五年前にあったのだ。
あの頃、滝村の兄弟子の一人、錬磨が死亡する事故が起きた。警察の捜査の結果、師匠の山荘を訪れた際に、酒に酔って山荘の裏手の斜面で足を滑らせ頭部を強打したらしい。
錬磨という男は詩織にとっても、他の二人の滝村の画家にとっても迷惑な同門だったが、亡くなってしまったのはショックだった。
錬磨の葬儀を終え、警察から何度目かの事情聴取を受け終えた頃にはそのショックから立ち直りつつあったが、その頃から斗摩の自分に対する態度が変化した。
それまで、良くも悪くも彼とは同門の一人としての関わりのみであったものが、食事に誘われたり、休日の予定を聞かれたり、と自分へアプローチするようになったのだった。
詩織は斗摩のことが好きだったが、それをあからさまに態度に表すようなことはしかったし、以前の斗摩は自分を性的な対象として扱うことは無かった。
いや、相手にされていなかったといった方が正しいだろう。それなのに自分と斗摩が男女の仲になったのはいつからだったか。
最初は錬磨の件でショックを受けている自分を気遣ってくれているのだと思っていたが、食事に誘われるようになり、大した理由がなくとも共に過ごすことが増え、やがて休日には互いの家に通い合うようになった。叶わない恋だと、密かに想っているだけで良いのだと、自分に言い聞かせていた詩織はこの変化に舞い上がった。
人間は自分に都合の良い出来事であれば、それがあり得ない事だと理解していたとしても。その幻想に溺れてしまうものだ。
詩織は彼が自分に想いを向けることはないと知っていたが、言い寄ってくる彼を前にして拒絶できるほど強い人間ではなかった。彼の行動の裏に何事かの企みの影を感じていながらも、とうとう彼が自分に目を向けてくれたのだと思い込もうとしてしまった。
詩織と斗摩は互いの仕事の隙を見つけては共に時を過ごした。当然のように躰を重ねる仲になり、数カ月が経過した。思えばこの時が一番幸せだったのかもしれない。
だが案の定、そんなガラス細工のような幸せは長く続かなかった。ある日、真剣な顔で斗摩は詩織にある頼みごとを持ち掛けたのだ。
――なあ、詩織。済まないが君に相談があるんだ。
実は最近、揺摩の筆が進んでいなくてな。「絵に集中できない」って落ち込んじまってるようなんだ…。
事情を聴いたら、ある悩みを打ち明けられたんだが、その悩みってのが、信じられないことに恋の悩みだっていうんだ。
あの揺摩がいい歳をして恋の悩みとはなぁ、驚きだろ。
あいつも人間だったってことなんだろうが、俺だって驚いたさ。しかも、あいつの意中の相手はな、詩織、君なんだ。
ああ、びっくりするよな。でもなぁ、錬磨さんの事件の時、警察の事情聴取を受ける君を心配してわざわざ家まで訪ねてきたことがあっただろう。あの時の様子を思えば、俺は納得できる気もするんだ。
…まあ、揺摩には俺たちの関係は話していないから、あいつも俺に自分の思い人の悩みを打ち明けたんだろうが…。
残念ながらやつの恋は砕け散ることになる訳だ。
…ただ、一つ問題があってなぁ。ただでさえあいつは初めての恋に悩んで絵が描けなくなってるんだ。このまま、恋に破れて創作活動に支障が出ると俺も困る。次の合作のテーマももう決まっちまってるのに、ショックで筆をとれませんなんて事なったら…。
今回の展示イベントの締め切りに間に合わないと企画してくれた美術館にも迷惑がかかるし、締め切りが守れないと画家としての信用を失って、美術展からお呼びがかからなくなるかもしれない。それが俺たちにとってどんなにマイナスか…君ならわかるだろう。
…そこで、詩織に協力して欲しい事があるんだ。
あいつの恋人になって欲しい。
ああ、そんな顔しないでくれ。ちょっとの間、そう、次の作品が完成するまでの間付き合ってやるだけでいいんだ。
本当に済まない。君とって辛いことを頼んでいることはわかっている。だが、俺を助ける為だと思って協力してくれ。
…こんなことを言われたのだ。
酷い話だ。
揺摩にとっても、自分にとっても。
斗摩が揺摩のことを意識していることは、彼の作品に最初に出会った時から知っていたことだが、あまりにも不道徳な提案だった。
それに、自分はどうなる?こんな扱いを受けておいて、はいわかりました、と承知すると思われているのだろうか。
いや、そもそも斗摩が自分を好きになることなどないと最初から分かっていたではないか。これも彼の悪だくみの一部なのではないのか。それに、いつかこうなることは薄っすらと勘付いていたんじゃないのか。
でも、この関係を築いた数カ月の中で、彼が本当に自分に好意を寄せるようになっているかもしないじゃないか。
心のうちに次々と浮かんでは消える声に、心臓が締め付けられるようだった。
詩織は気づいていた。先ほどの斗摩のセリフ。
『本当に済まない。君にとっては辛いことを頼んでいることはわかっている。』
彼は『君にとっては』と言ったのだ。
揺摩の恋人になることを、詩織にとっては辛いことだ、と。つまり、斗摩にとっては辛いことでない、と。
それでも、僅かな望みを胸に詩織は彼の目を見て、真剣に訴えた。
「私が好きなのは尋斗さんだよ。」
すると、彼は詩織の肩に手を置き、優しい顔でこう言うのだ。
「もちろん承知しているとも。君は瑞沢尋斗を愛してくれている。
そして、滝村斗摩としての俺も愛してくれているだろう?画家としての俺を、俺の作品と一緒に愛してくれているんだろう?」
「……。」
考えるまでもない問いかけだった。
斗摩のその言葉はこれ以上なく、詩織に突き刺さる問いであり、詩織を黙らせるに十分な問いでもあった。
彼の作品に出会って、衝撃を受けたのだ。
彼自身に出会って画家の道を目指したのだ。
少しでも彼に近づきたくて滝村の門を叩いたのだ。
詩織にとっては、彼を愛すことと、彼の作品を愛すことは同じことだった。彼が作品を生み出すことができない状態に陥ることなど許せない。自分の力でそれが回避できるというなら、何を犠牲にしても実行すべきだった。
それでも、今の幸せな関係を手放すことが出来なくて、斗摩の頼み事に頷けない。
「…じゃあ、私とあなたの関係はどうなるの?」
「大丈夫。揺摩とは付き合っているふりだけしてくれれば良いんだ。俺と詩織の関係は今までと変わらないよ。」
……ああ、本当にこの人は、禄でもない人間だ。どうしようもない程に最低な男だ。
なのに、どうして自分はこの関係が続くことに喜びを感じてしまうのだろう。
詩織は斗摩が自分の肩に置いていた手を取り、両手で強く握って答える。
「…わかった。」
詩織が承知したことに斗摩はとても喜んだ。詩織が両手で握った自らの手に、もう片方の手を重ねる。
「ああ、ありがとう。これで、これからも俺は絵を描き続けられるよ。」
斗摩の満面の笑みを見つめながら、詩織は哀しみの混じった笑顔を返した。
今思えば、あれが最初の転機だったのだ。
その後、斗摩が間を取り持つ形で、揺摩は詩織に交際を申し込み、詩織もそれに応え、二人は付き合いはじめた。
揺摩は優しく、紳士的だった。
互いに仕事が休みの日には美術館や映画館に行き、食事を共にした。
相変わらず揺摩は口数少なく、自信がなさそうに俯き加減で話すし、詩織に対しても遠慮がちに接したが、詩織と共に過ごすときには以前より笑顔が増えていたように思う。
もともと同門としての付き合いはあったのだ。
交際を始めた最初はその延長のような関係性だった。
しかし、それも次第に距離感が縮まっていき、恋人と呼べる関係となった。
しかし、同時に揺摩には内緒で斗摩との関係も続けられていたのだった。
斗摩は揺摩と詩織の交際がうまくいっていることを心の底から喜んでいるようだった。そこに兄弟子を裏切っているという罪悪感など微塵も感じられなかった。むしろ、以前に詩織と付き合っていた時より楽しそうであった。
約三年の交際を経て、揺摩からプロポーズされた時、詩織は激しく動揺した。
何れこうなる事はわかっていた筈なのに、どうすれば良いのか分からなくなってしまった。
こうなるともう、斗摩ばかりが悪いわけではない。
この関係が歪なものであると思いながらも目を背け続けてきた詩織ももはや同罪だった。
揺摩が想いを寄せてくれば来るほどに、真実を告げなくてはと気持ちが焦った。
それなのに、自分と揺摩が仲睦まじくしている様子に喜ぶ斗摩を見るたびに、ずるずるとこの関係を続けてしまったのだ。
結婚して欲しいと真摯に告げる揺摩を前にして、事ここに至ってはもう後戻りはできないと感じていた。それに、斗摩に相談したところで、彼は結婚を後押しするだろうことも分かっていた。
結局、詩織は揺摩のプロポーズを受け入れてしまった。
これは自分への罰だとも思ったし、この頃には詩織自身が揺摩と斗摩、それぞれの関係性に疲れていたこともあったのだろう。
揺摩は優しく、詩織の意見を優先してくれる、夫として申し分のない人物であった。
彼の妻として生きていこうと覚悟を決めようと思った。…つもりだった。
後にこの時の自分を思い返すとき、詩織はいつも自分の心の卑しさが嫌になる。
この時、詩織は心の奥では、結婚を許諾した自分を斗摩が引き止めてくれるのではないかと期待していたのだから。
そんなだから、今こんな状況になっているのだ。
詩織は遠くに見える美術館をぼんやりと眺めていた。
いつの間にか、自分は美術館を後にし、目の前の公園に足を運んでいた。公園を目的もなく歩きまわり、一息つくようにこのベンチに腰掛けたのだ。
視線を自分の周囲へと転じると、公園のベンチに座っている自分の周囲は夕刻のオレンジ色の光に包まれていた。ここを訪れたのは昼過ぎだった筈だが、すっかり時間が経過してしまっている。
家に帰らねば。
頭ではわかっているものの、身体はそれを拒否している。
揺摩は昨日から関西で行われている美術展のイベントに泊りがけで参加している。そのため、三日間家を空けることになっていた。
そうでなければ一昨日からの心ここにあらずの詩織の状態に不審を抱いた揺摩が、外出を引き留めただろう。
だが、その揺摩も今は不在だ。家に帰っても詩織は一人で過ごさなければならない。
一昨日、最近どうも体調が優れないと感じていた詩織は病院へ行って診てもらうことにした。
内科の医師の診察といくつかの問診を受け、勧められたのは産婦人科の受診だった。
まさかと思いながらも勧められるままに受診した結果、自分の胎内に新しい命が宿っていることが告げられたのだ。
どうしよう、と思った。
喜びは感じなかった。
ただ、不安だけを感じた気がする。
だってこの子は揺摩の子ではないから。
斗摩との子であることは確実だった。
呆然としたまま病院から帰ったが、帰宅しても何も考えることができなかった。
どうしよう、と焦る気持ちだけがぐるぐると頭の中を飛び回っていた。
次の日も、ただどうしよう、どうしようと、何も手につかないまま過ごした。
一夜が明け、相変わらず何も考えられないままに、いつの間やらあの美術館に足が向いていた。
そして、どうやら気づけば辺りは薄暗く、穏やかな陽射しの中で散歩を楽しんでいた人の姿も見えなくなっている。
肌寒さを感じ、詩織はベンチから立ち上がった。流石にここに座り続ける訳にはいかない。
もう帰ろう。
しかし、帰ってどうするというのか。
今日も揺摩は帰ってこない。しかし、いざ帰ってきたとして、どんな顔をして接すれば良いのか。
…そうだ、斗摩に会いに行こう。
今までどうして思いつかなかったのだろうか。
斗摩に会って、相談しよう。それしかない。
その後で、揺摩にも真実を告げよう。
いつも優しく穏やかなあの人は、この話を聞いて何と言うのだろう。
軽蔑され、罵られるだろうか。
当然だ。
自分はその罵倒を甘んじて受け入れなくてはならない。
自分の罪を糾弾されることは恐ろしいことだ。
それでも、もうこの秘密を抱えたまま生きていくことはできない。
虫のいい話だが、詩織の精神はもう限界だった。
詩織は羽織ったコートのポケットに手を入れた。
幸いなことに財布とスマホは持って家を出ていたらしい。
手にしたスマホを操作し、メッセージアプリを起動する。
画面に表示された揺摩のアイコンを暫く見つめてから意を決して通話ボタンをタップした。
スマホを耳にあて、目を閉じて呼び出し音に耳を傾ける。
そうだ、これがきっと最後のチャンスだ。
今までは自分の幸せだけを考えて誤った選択をし続けていた。
でも、ここで道を正すことができれば。
いや、ここで道を正さなければならない。
都合の良い夢を、もう終わりにするのだ。
少しだけ、頭の中にかかっていた靄が晴れてきた気がする。
スマホから聞こえていた呼び出し音が途切れ、聞きなれた斗摩の応じる声が聞こえた。
詩織は瞳を閉じたまま深く息を吸いこんだ。冷たい空気が気管に滑り込んでくる。気を落ち着けて、取り込んだ空気を吐き出す。
それから詩織は電話越しの相手の顔を思い浮かべながら、その口を開いた。




