第16章
そうやって絵を描き続けて、気づけば十年ほどが経ったある日、俺は揺摩と二人で師匠に呼ばれた。
草摩が弟子を呼ぶことは珍しかった。
一体何事かと思えば、師は自分はどうやら末期がんを患っており、余命数年の命だというのだ。
驚く二人に、草摩は彼らしく、ただ淡々と事実のみ話した。
その話しぶりはあまりにも普段通りで、芸術の道半ばで命の終わりを迎えることの悲憤や憤りは全く感じられなかった。
あまりにもいつもと変わらないその様子に、冗談かなにかではないかと疑った。
しかし、滝村草摩という人間は、冗談をいうような人間ではない。
もちろん、すべてが事実であった。
その話の最後に、草摩は言った。
人生の最期を意識した時、師として弟子に助言らしい助言をしてこなかったと、わが身を顧みたのだ、と。
師らしい行いがなかった点については確かにそうだった。だが、揺摩も自分、もそのことを不満に思ったことはなかった。
しかし、師は続ける。
この期に及んで、師匠らしいことをしてみようという気になった。と。そして、次の自分の個展が開かれる際に、お前たちの作品を大々的に展示しよう、と。
今まで自分たちに無関心だった師の言葉とは思えなかったが、自身の作品が多くの人の目に触れる機会を与えられるのは、願ってもないことだった。
しかも、滝村草摩はそれなりに評価の高い芸術家だ。その彼の個展なら、名のある芸術評論家も訪れるだろう。これは自分たちにとって大きなチャンスとなる可能性がある。
不意に与えられた機会に鼓動が高鳴るのを自覚する。
隣で同じように師の話を聞いている、揺摩の様子を目の端で伺う。
彼も真剣に師の話に耳を傾けている様子だ。
彼は今、何を考えているのだろう。
自分と同じように、飛躍の機会を得て胸の高鳴りを感じているのだろうか。
師はさらに続けた。
但し、その個展で披露するお前たちの作品は、二人で作り上げろ。
一つのテーマでそれぞれの作品を描け。
そして二人の合作として発表するのだ。
今でこそ画家は個人活動が主流になっているが、江戸時代に活躍した浮世絵師などは、同門の絵師たちで合作した作品を多く発表していることをお前たちも知っているだろう。現代では珍しくなったこの作品作りの方法で話題性も呼び込むことができるだろう。
これには揺摩も驚いた様子だった。
むろん、俺も驚いた。
話題性などという言葉が、師の口から出てきたことにも驚いたが、自分と揺摩の合作…?そんな作品作りの方法は考えてもみなかった。
「合作」という言葉を聞いた瞬間、生まれた感情は喜びであった。
その頃の自分は揺摩の作風を自分の中に落とし込むことに必死だった。
彼の考え方、感性を自分の作品に取り入れたいと思っていた。
それこそが、自分の描きたい世界だと信じていた。だからこそ、彼と同じテーマで合作の作品を造るスタイルは魅力的だったのだ。
自身の指標となる人物と合作できる可能性を提示されたことは、最初、大きな喜びとして感じられた。
しかし、次に自分の中に生まれたのは恐怖にも近い不安感だった。自分は揺摩の作品に大いに感じ入り、彼を勝手に標榜している。だから合作の話は歓迎されるものであったが、揺摩からしてみればどうだろうか。
揺摩とはいまや親しい間柄と言ってもよい関係を築くことができている。
他者と積極的に関わりを持とうとしない揺摩にとって、自分は最も親しい人間であると言えるだろう。
だが、親しい間柄になった今も、揺摩が自分を画家としてどう評価しているのか聞いたことはなかった。
自分が揺摩以外の画家たちに対して思うのと同様に、揺摩も滝村斗摩という画家のことなど歯牙にもかけない存在だと思っているのではないか。
そう想像すると、これまで経験したことのないような不安と恐れを感じた。
揺摩はきっと「合作」の提案を歓迎しないだろう。
己の才覚のみで称賛される作品を生み出せるのに、わざわざ他人と、それも自分より劣ったものと共に創作したいと思うはずがない。
そこまで考えた自分は、揺摩の口から拒絶の言葉が出ることを、ただただ恐れた。
ところが、信じられないことに、揺摩はあっさりと師の「合作」の提案を受け入れた。
それはいい考えですね。僕も、斗摩となら面白い作品が作れると思います。彼は素晴らし絵描きだと常々思っていますから。と、とびきりの笑顔つきで評したのだ。
この反応はいけなかった。
自分以外の人間ならば、自身の才能を認める言葉と受け取り、大変喜ぶことだろう。
しかし、揺摩という画家を指標としていた俺にとって、それは裏切りの言葉に他ならなかった。
信じた神が自ら俗世へ堕落したに等しい感覚だった。
崇める神が凡庸な自分を評価してしまった。
それだけならまだしも、その神は君と私は同等だ、などとのたまった。
そうか。お前が自らその座を降りようとするのなら、いっそ俺が引きずり降ろしてやろう。
この瞬間、神に裏切られた絶望は、瞬時に悪魔の野望へとなり変わった。
あの瞬間から俺は敬愛すべき兄弟子をいつか地獄へ突き落としてやろうと願うようになったのだ。
具体的にこうしてやろうというものはない。
それでも、ただ漠然と揺摩を絶望の淵へ叩き込んでやりたいとずっと願い続けている。
結局、師の提案した「合作」は大いに評価された。
それ以降も同じように合作による作品発表を続けた。
揺摩も俺も単独で創作することもあったが、やはり二人で共通のテーマを扱った「合作」の方が世間の注目を浴びた。
そうして活動をつづけた結果、二人とも絵画界の若き天才としてもてはやされるようにまでなった。
やがて、鶴見詩織という新たな門人も増えた頃、病状の悪化により草摩師匠は息を引き取った。
師が亡くなったことにより、滝村の筆頭は一番弟子の錬磨となったが、その当時の練磨は既に創作への意欲を失っており、ほとんど作品作りに手を付けていない。
おそらく、草摩が自分の個展に俺と揺摩の合作を提案したことにより、自分をないがしろにされたと感じたのだろう。
その時から、彼は作品を造ることよりも、高く売ることに心血を注ぐようになっていた。
俺にとってはもはや画家とは言い難い、恥ずべき半端者。
それが錬磨への評価だった。
だが、滝村の評判を下げることしかできない、そんな目障りな兄弟子も、もう死んだ。
捜査の結果、錬磨氏の死は事故によるものだと判断されました、と但馬とかいう刑事から連絡が入ったのは、つい先ほどのことだ。
いやに鋭い目をした男だったが、俺と揺摩の偽装工作はどうやらばれずに済んだらしい。
喜ばしいことだ。
さらに喜ばしいことに、おれは今回の事件の事情聴取の最中にある重大な事実に気が付いてしまった。
それは、詩織の家で行われた聴取での発見だった。
あの揺摩が、詩織のことを気遣う素振りを見せたのだ。あの他人に無関心で、何を考えているかも分からない男が、鶴見詩織の聴取にわざわざ立ち会ったのだ。
同席した刑事たちにしてみれば、同門の弟弟子を気遣う態度として何の違和感も持たないだろうが、長年の付き合いの自分に言わせるなら、揺摩という男の行動にしては異例のことだと言わざるを得ない。
そのとき、ひらめいてしまった。
俺にはわかってしまった。
滝村揺摩は鶴見詩織を好いているに違いない、と。
この可能性に思い至った瞬間は衝撃的だった。
こいつも人間だったのか、と感動すら覚えた。
そして、今までぼんやりと抱えていた願いを叶える、揺摩を地獄に突き落とすための計画が、明確な形を持って脳内に浮かび上がってきたのだ。
揺摩は鶴見詩織に恋している。
あの他人に興味のない人間が、唯一好意を持った対象だ。
それはどれほどの執着だろう。
きっと彼女を手に入れたいと願ってやまないだろう。しかし、
鶴見詩織は滝村斗摩に恋している。
本当に残念なことだ。
揺摩の恋情が彼女に届くことはない。
なんということだ。
俺は今、あの滝村揺摩に対して優位に立っている。暗い喜びに身も心も震えるようだ。
揺摩の思いが儚く散ることを知って、俺の心は歓喜した。
恋に破れて絶望する揺摩を想像するだけで、今まで感じたことがないほど高揚した。
だが、まだ足りない。
俺の餓えた心はもっと深い彼の絶望を望んでいる。
ただ、恋に破れて落ち込む姿だけではだめだ。それではつまらない。
そう、たとえば、こんな筋書きはどうだろう。
恋焦がれた女性と晴れて恋人となった。
その後めでたく結婚し、幸福な家庭を築いていた。
しかしある日、愛してやまないその妻が、弟弟子と長年不貞行為をはたらいていたと知ったら、どうか。
片思いに破れるよりもはるかに大きな絶望を味わうだろう。
その時、揺摩はどんな表情をするのだろうか。
何を語るのだろうか。
そして、絶望を味わった彼は、どんな作品を生み出すのだろうか。
俺は思い浮かんだこの計画に胸躍る心地だった。
まずは詩織に連絡をしよう。今回の事故で心を痛めているのではないか、と気遣ってやろう。
その際に一緒に飯でも食べに行こう。
そうやって、少しずつ距離を縮めていけばあいつはすぐにこの手に堕ちてくるだろう。
自惚れでもなんでもなく、その程度の好意を持たれている確信があった。
そのあとは、詩織をうまく誘導して、揺摩と交際させてやろう。
ああ、どうしよう。先ほどから胸の高鳴りを抑えられない。
これから起こる絶望が、楽しみで仕方ない。
これから俺は、自身の神を自らの手で撃ち堕とすことができるのだ。
その時、ふと、数日前に錬磨の死体を揺摩と二人で眺めていた場面が脳裏に浮かんだ。
そういえばあの夜、練磨の死体を前に隠蔽工作をすることを提案したのは揺摩の方だった。
練磨を殺したのは斗摩なのに、なぜ揺摩は自分を庇うような真似をしたのだろうか。
警察の事情聴取の最中に余計なことを口走ることを恐れ、わざと封印していた記憶をたどる。
あの日、揺摩と斗摩が隠した真実が脳内に蘇った。




