第15章
そして、師匠との邂逅から数週間ほど経ったある日、自分は揺摩に出会ったのだ。
その出会いはまるで天啓だった。
滝村草摩の下で絵を描くようになった自分であったが、草摩は弟子に何かを教えたりはしなかった。ただ淡々と自分の創作に励むのみであった。
その師が初めて自分に出した指示が、「兄弟子に会ってこい」だった。どうやら自分には二人の兄弟子がいるのだそうだ。
一人は滝村錬磨。最初に草摩のもとに弟子入りした男で、自分より二十歳ほど年上らしい。
もう一人は滝村揺摩という男。自分の二歳年上で、昨年草摩のもとに弟子入りしたそうだ。
年齢が近い方が話もしやすいだろうと、まずは揺摩という人物から会いに行くことにした。
揺摩の住むアパートの一室で、彼と彼の作品に出会った。
彼は一人暮らしのアパートで創作活動をしており、訪ねた際も油絵を描いている途中だった。
チャイムを鳴らし、出てきた揺摩に、新たに滝村の弟子となった者です。と頭を下げると、「ああ、どうも。」とぼんやりした返事を返され、玄関から中へと通された。
1LDKの部屋はアトリエを兼ねており、通された部屋の中央にはキャンバスが立てられその周辺には画材道具が乱雑に散らばっていた。
秋も深まる季節。部屋の中はなんだか少し寒々しい。
揺摩は洗いざらした長袖のTシャツにジーンズ姿で、特に寒そうなそぶりも見せずに、どうぞ。と室内へといざなった。
部屋の隅にあるテーブル脇に座布団が二組用意される。そこに座って、師との顔合わせの時と同じように俺は決まり口上を述べた。
揺摩は隣に立てられた三十号のキャンバスに描かれた、自分の作品を見上げがら俺の挨拶を聞いている。長い前髪に隠れた表情はどこかぼんやりとして、俺の挨拶などきこえていないようだった。
ひとの挨拶を聞いていない様子はまさに滝村草摩の弟子といえる。
揺摩の視線を追って俺も描きかけのキャンバスに視線を投じた。
その時、目にした描きかけの絵を、自分は一生忘れないだろう。
そこに描かれていたのは風景画だった。
穏やかな光に包まれた、春の景色のようだ。
画面右側には緑の生い茂った田園風景が描かれ、中央には昔ながらの農家ふうの一軒家が立っている。数人の人々が笑い合いながら農作業に勤しんでいる。
光、生命、平穏、信頼、協調、そんな言葉がお似合いな、長閑な風景だ。一見は。
美しく長閑な景色が広がる一方で、画面左側には中央の一軒家の陰になっている部分が掻かれていた。
そこだけは日が当たらず、暗い影が落ちている。
その影の中に一人の若者が佇んでいた。
明るい日差しの中で働く者たちを見つめる、その若者の表情は、憧憬、嫉妬、嫌悪、憎悪など、負の感情に満ちていた。
画面いっぱいの幸福の中に混じる、ひとさじの悪意。
満たされた日常の中に潜む、わずかな惧れ。
そんな思いを想起させ、見るものに不安を抱かせるような絵だった。
なんだか不愉快な絵だと思った。
しかし、これが現実であり、これこそが人間を描き出しているのだ、とも思った。
そして、こんなものが描けるのか、と深く衝撃を受けた。
退屈な人間という生き物を、そいつらが生きるこの世界を、こんなふうに見つめて表現する人間がいたのか、と。
こんなものを、自分は一生、描くことはできない。
どんな技術を身に着けたところで、感性が違うのだ。
天才だ。と、思った。
未完成の作品を見つめたまま固まってしまった自分に、揺摩は首をかしげている。
知らず、乾いた唇を舐め、自分は確かこう聞いた。
「この作品は…なんですか」
我ながら、要領の得ない問いかけだ。
「ああ、この作品はですね、先日、田舎に住む、実家の両親が事故で亡くなりまして。その際に近所の方々が葬式の手伝いに来てくださったのですが、実に楽しそうで…。その時の様子をもとに描いたんです。」
しかし返ってきた返事はもっと要領の得ないものだった。
この絵が実家の葬式の風景には、到底見えないが。
揺摩は続けて語る。
「近所の方々の中のおひとりが、どうも、村八分っていうんですか。皆さんから避けられているようで、その方のことがどうにも気になって、注意して観察していたんです。
つつがなく葬式が終わって、四十九日に実家を訪れた際に聞いた噂によると、その方、両親の葬儀の日から十日後に、町内の集まりの最中に包丁で近所の方を切りつける事件を起こしたそうなんです。」
それまでこちらを見もしなかった揺摩が、自分を見ている。
視線が絡む。
凄惨な事件の話をしているとは思えないほど、穏やかな表情だった。
「この絵のタイトルは『春の景色』にしようと思います。
あの人は、春の穏やかな日常の中で、他人を殺したいほどの激情を、日々、味わっていたんだと思うと…その情景を描きたくなってしまいました。
いや、うまく説明できないな。
自分の絵の話をするのは苦手です。というか、人と話すのは苦手です。
…でも、あなたが、僕の絵に共感してくれたようだから、ついお話ししてみたくなりました。
いやあ、こんなことは初めてなんで、上手に説明できなくて申し訳ない。」
と、少し照れくさそうに述べた。
…壊れている、と思った。
そいつの人間性が破綻していると感じたのだ。
自分の両親の葬式に行って、ご近所の不仲に心を傾ける神経。
それを恥ずかしそうに語る感性。
人として何かが欠けている。
しかし、絵の才能だけを評価するなら、彼は確かに天才と呼ばれる域に達していた。
自分がどんなに努力しようとも、こんな絵は一生描けない。
描けるはずがなかった。
この壊れた感性を自分は持ちえないのだから。
それまで、自分の才能にそれなりの自負を持っていたのに、こんな人間が世の中にはいるのだと知ってしまった。
それまで見ていた世界が、崩壊し、一から組み直されていく…そんな感覚に陥った。
そして、感じたのは激しい嫉妬と憧れだった。
こんな絵が描けるようになることが、自分の最終到達点だったのだ。
今までは、目に見える目標が存在しなかった。
どんな画家もどんな作品も、自分の目を開かせてはくれなかった。
しかし、今なら分かる。
自分が目指していたのは、まさにこの境地だったのだと。
神を見出した民草のごとく、彼と彼の作品との出会いは、自分の人生を変えてしまうものだと思った。
その後、どうやって帰宅したのかは覚えていない。
だが、次の日から自分は揺摩と交流を深めようと、何度も彼のもとを訪れた。
そして、彼が絵画のこと以外は無関心であることや、自分の才能が他者とは一線を画すものだということに気付いていないことを知った。
絵画以外の話をする時の揺摩は無口で、常に俯き加減で話をする陰険な男だった。
だが、自分がこれまでの人生で培った、対人スキルを存分に活用して彼と交流した。
いつもの外面の良さを存分に発揮して接するうちに、少しずつ距離も縮まり、笑顔で話ができる関係になった。
それでも彼の内面を掴めた感触は全くなかった。
大抵は、俺が楽しそう話すのを見て、微笑みながら相槌をうつのみで、揺摩自身の内面が語られることはほとんどなかたからだ。




