第9章
その時、隣に立つ人の気配を感じた。鑑賞に夢中になっていたが、そういえば、閉館間際の時間帯だった。
美術館の職員が退出を促しに来たのだろう。
「すみません。もう、出ますね。」と、軽く頭を下げてその場を去ろうと、隣に立つ人物の方を向いた詩織は、そのまま驚いて動きを止めた。
隣に立っていたのは、長身の青年だった。
二十代後半の整った顔立ちをした男性で、薄手のニットにジーパンという出で立ちだった。
どう見ても美術館の職員には見えない。
彼は詩織のすぐ隣に立ち、『憧憬と嫉妬』を真剣な面持ちで見つめていた。
そしてそのまま、詩織に目も向けないで、こう聞いたのだ。
「君には、どう見える?」
「え?」
「さっきから、ずいぶん長いこと「嫉妬」を鑑賞していただろう。
その君に聞きたい。
なんでもいいから、感想を聞かせてくれ。
「嫉妬」は君にはどう見えた?」
その問いかけに詩織は咄嗟に答えることができなかった。
言葉にできはしなかったが、この一枚の絵の中に込められた、滝村斗摩という画家の複雑な思いを感じ取り、その人間らしい感情に親しみを抱いていた。
おそらく、揺摩氏の才能に強い嫉妬を感じ、彼をどうしても意識せずにはいられないままに、創作しているのだろう。
揺摩氏の作品を意識するあまり、彼の作風に影響され、飲み込まれそうになりながらも、「私は自分の感性のみで創作をしていますよ」と澄ました顔をしてるのだ。
表面上は滝村揺摩など気にも留めていない態度を貫いているのだ。内心は彼のことが気になって気になって仕方がないくせに。
まるで「素直になれない子供のようだ。」などと、いっかいの美大生が一線で活躍している画家に対して抱くには恐れ多いイメージを持ってしまっている。
さらに詩織は思ったのだ。
もっと自由に描けばいいのに、と。
それだけの技量があるのだから揺摩氏を意識することなく、自分の世界を感じたままに表現すればいいのに…。
むしろ、私は、そのままのあなたが描く世界をこそ観てみたい。
と、いったことをつらつらと考えていたのだが、隣に立った青年に「嫉妬」の感想を突然聞かれたところで、雄弁に語れるほど詩織の思考はまとまったものではなかったし、恐らく芸術界の関係者だろうと思われる年上の人間に、自分なんかの感想を語って聞かせる度胸も自信も詩織は持ち合わせてはいなかった。
言葉に詰まった詩織に青年は一瞬だけ視線をやると、後は興味を失ったとでもいうように、『憧憬と嫉妬』に背を向けるとそのまま立ち去ってしまった。
詩織はどうしていいか分からず、その場で固まったまま彼の青年を目で追っていたが、彼が五歩はど離れたところで我に返ると、歩き去っていく青年の後ろ姿に向かって、何か声をかけようとした。
しかし、ちょうどその時、右手側に位置する美術館出口前のホールの方から青年を呼び止める声がかけられた。
しかもその声が「おや、斗摩くん」だったために、驚いた詩織は青年に掛けようとした声を飲み込んでしまった。
(斗摩って「嫉妬」の作者の滝村斗摩さん?)
玄関ホールから、青年に向かって声を掛け、片手を挙げながら歩いてくるのは、眼鏡をかけた白髪の初老の男性だった。
背広姿で肉付きのよい首から下げられた職員証には「館長 多田」と書かれている。
斗摩のほうも「どうも、多田館長」と軽く頭を下げ、笑顔で歩み寄る。
少し離れた所で詩織が呆然としながら様子を見守っていると、多田館長はにこやかな表情で斗摩に近づき、親しげに彼の肩をたたいた。
「来ていたのなら、声を掛けてくれればいいのに。搬出にはまだ早い時間だがどうしたんだい?」
「いやあ、展示期間中がどうしても忙しくて…。師匠や皆の作品をじっくり見る時間が取れませんでしたので、搬出前に早めに来させてもらって見ておこうかと思いましてね。
多田さんにもお声がけしようと思ったんですが、搬出の準備で忙しくされていると、ご迷惑かと思ったもので…。すみません。」
「いやいや、いいんだよ―――」
二人は話しながら職員関係者専用スペースへ向かって歩いて行ってしまった。
すぐ後ろで立ち尽くしている詩織を気にも留めずに。
当然だ。
滝村斗摩にしてみれば、詩織に声を掛けたことなど、単なる気まぐれで、詩織の存在などきっともう、記憶の片隅にも残っていないだろう。
だが、詩織にとっては違う。
彼が、彼こそが、滝村斗摩だったのだ。
隣に立った時に目にした、彼の端正な横顔を思い出す。
それから振り返り、『憧憬と嫉妬』を見つめる。
いや、彼女の目には二枚の絵画のうち、一方のみしか映っていない。
目に焼き付けようとするかのように「嫉妬」をじっと見つめた。
そこに先ほど出会ったばかりの斗摩本人の姿が重なった。
その瞬間、詩織の胸はしめつけられるように痛んだ。その痛みは、今まで経験したことのない程に甘い痛みであった。
目を閉じ、大きく深呼吸をする。閉館時刻が迫っていることを告げる、館内アナウンスが流れ始めた。詩織は踵を返し、美術館を後にした。その足取りは軽く、瞳には何かを決意したような強い意志の光を宿していた。
深い水底から水面近くに一気に浮上するような感覚。詩織は何度も目を瞬かせた。
自宅のアトリエで一枚のキャンバスを前に随分と長い時間、過去の思い出に耽っていたようだ。
斗摩との出会いを経て、当時大学生だった詩織は、将来を画家として創作に捧げる生活を選んだのだった。
それもただの画家を目指すのではなく、滝村派の画家として活躍することを目標とした。
その後、滝村草摩のもとを訪れ、何度も追い返されながらも、ようやく滝村の門に入ることを認められ、現在に至る。
今、思い返せば、あの美術館で、詩織は斗摩と彼の作品に一目惚れしてしまったのだろう。最初に作品を目にしたときに感じた親しみは、今や大きな愛情となり、胸の内にくすぶり続けている。
実はあの美術館での出会いから一年後、詩織は斗摩に手紙を出していた。
あの日、答えることができなかった、斗摩の作品から感じ取ったものを伝えるための手紙だった。
手紙の中では斗摩への恋心には一切触れず、「嫉妬」を鑑賞したことと、その感想を淡々と綴った。
そして、自分の名前も経歴も、美術館で出会ったことすら伏せ、差出人不明の手紙となるようにして郵送した。
あれを読んで、斗摩はどう感じてくれたのだろう。
そもそも、正体不明の人物から送られた手紙など読んでくれたのかどうかも分からない。
だが、詩織はそれでも構わなかった。
ただ、あの日の彼の問いかけに答えられなかった自分が、不甲斐なくて仕方がなく、その後悔を昇華するために書いた手紙だった。
自己満足以外の何物でもない。
それからは、斗摩が新作を発表するごとにその絵を鑑賞し、手紙を書いた。
時にはあなたの自由な表現を感じられた、と。
また、時には揺摩を意識しすぎているが、根底にあるテーマを深く味わえた、と。
ホント、自分勝手。
過去を懐かしむように、また自嘲するように、詩織は笑みをこぼす。
そうだ、斗摩といえば…。
今日の刑事の事情聴取の際の彼の様子はどこか不自然だった。
詮索されることが嫌いな彼が、途中から妙に機嫌の良い様子であったように思う。
しかも、詩織の感じる限りでは、その機嫌の良さを隠そうとしていたようにも思えた。
例えるなら、そう、とびっきりの宝物を発見した子供が、その宝物を独り占めするために、周囲にその存在をひた隠しにしているような、そんな態度ではなかったか。
ずっと彼のことを見てきた詩織だからこそ分かる程度の不自然さだ。あの刑事たちは気づいていないだろう。
何かまた、良からぬ謀でもしているのだろう。
詩織の愛する滝村斗摩は、決して善人ではないのだから。
「困った人。」
ぽつりと呟いたその声は、我ながらどこか嬉しそうな色を含んでいたと思う。周囲に隠れて悪だくみするような、どうしよもない人だけれど、愛しいと思う気持ちが揺らぐことはない。
「そんな私にも困ったものね。」
今度の呟きには、小さな悲しみと、諦観の色が含まれていた。




