仕様
前回、私は判決に異議を申し立てた。その代償に、自分の点数が下がるのを、リアルタイムで眺めた。抵抗には値段がつく。前払いで。
異議申立てを送信した翌朝、通勤改札で、私はまず一円分だけ罰を受けた。
定期券の自動更新が保留され、通常運賃が引き落とされた。たった一円。けれど画面には、丁寧に理由が表示された。
『公共交通優待:一時停止中。監査適性確認のため』
一円で済む罰ほど、よくできている。怒るには小さすぎ、忘れるには正確すぎる。私はスマホをしまい、いつものように監査局へ向かった。背中を丸めた会社員たちが、改札を水みたいに流れていく。誰も止まらない。誰も怒らない。たぶん、怒るほどの金額ではないからだ。
監査局に着くと、私は十二階に呼ばれていた。
通知は始業三分前に届いた。発信者は人事部でも上司でもなく、庁舎入退館システムだった。
『本日九時十五分、十二階面談室へ出頭してください。遅延は勤務適性評価に反映されます』
命令文に、命令という単語はない。強制に、強制という単語もいらない。遅れれば点が下がり、点が下がれば改札や決済や住宅更新に影響する。人間を動かすのに、腕をつかむ必要はない。スマホの画面を一度光らせればいい。
監査局の十二階には、ブースがない。本物の壁と、本物のドアと、本物の観葉植物がある。この建物で、人間が人間として扱われる、最後の階だ。
エレベーターは、私のスコアを読んで、停止階を選ぶ。三階の監査官フロアと、地下の食堂。普段、私が押せるボタンは、その二つだけだ。今日は、十二階のランプが、勝手に灯った。呼ばれている人間は、行き先を選ばなくていい。エレベーターが、知っている。
箱の中には、私一人しかいなかった。壁面の小さな画面に、庁舎内の注意事項が流れていた。会議室予約の自動最適化、昼食ピーク時間の分散協力、メンタル不調兆候アンケートへの回答依頼。どれも善意の顔をしていた。善意は、いちばん摩擦の少ない命令形だ。
十二階で扉が開くと、空気の音が変わった。三階にはない、厚い絨毯が足音を吸う。廊下に、人の気配はなかった。途中の壁に、歴代の表彰状のようなものが、額に入って並んでいた。いちばん古いものには、人間の判事の名前があった。いちばん新しいものは、「司法効率化功労」とだけ書かれ、受賞者の欄が、空白だった。
機械に、額縁はいらない。それでも、人間は、誰かを讃えたい。讃える相手が、もういないことに、まだ慣れていない。
面談室の前で、ドア横の端末が私の顔を読み取った。認証音は鳴らなかった。ただ、鍵が外れる小さな振動だけが指先に伝わった。歓迎も拒絶もない。条件を満たしたから開く。それだけだ。
桐生さんは、窓を背にして座っていた。監査局の、上のほうの人。役職の名前は何度聞いても覚えられない。覚える必要がないように、できているからだ。
「九条灯さん。六年目。処理効率、下位一〇パーセント」
彼は私のファイルを見ずに言った。暗記しているのか、どこかに表示されているのか。たぶん後者だ。この人たちは、人を見るとき、人を見ない。
「異議申立て、拝見しました。三崎悠真の件。……珍しい。去年、監査官からの異議は、全国で四件でした」
「少ないんですね」
「ゼロでないだけ、健全だと思っていますよ。私は」
桐生さんは笑った。感じのいい笑い方だった。それが、いちばん厄介だった。
机の上には、紙の資料が一枚もなかった。湯気の立つコーヒーと、二つの空のカップだけがある。人間らしさを演出するには、紙より陶器のほうが都合がいいのだろう。私は椅子に座る前に、室内の録音表示を探した。どこにもない。ないものほど、ある。
「単刀直入に聞きます」と私は言った。「まだ罪を犯していない人間を、犯すかもしれないという理由で収容するのは、正しいんですか」
「正しい、という言葉を、九条さんはどういう意味で使っていますか」
「少なくとも、刑罰の理由として通用するか、という意味です」
「被害者にとっては、通用しますよ。誰かが殴られてから動くより、殴られる前に止めるほうが。私たちは長いあいだ、罪が起きるのをわざわざ待っていた。被害者が一人できあがるのを、確認してから。あれは、優しさですか? それとも、ただの怠慢ですか?」
反論は、すぐには出てこなかった。彼の言うことは、間違っていない。間違っていないことと、正しいことは違う。私はずっとそう思ってきた。でも、その違いを、私はまだ言葉にできない。
私は癖で、頭の中の判決文を一行ずつ読み直した。
被告人は、重大犯罪を実行する高い蓋然性を有する。
被告人の生活歴、交友関係、購買傾向、検索履歴、通院中断、居住地域の犯罪発生率を総合する。
社会的損害の発生を未然に防止するため、保安収容を相当とする。
最後の一行だけが、いつもやけに滑らかだ。人を閉じ込める文章ほど、なぜか読みやすい。
「一つ、想像してみてください」桐生さんは、コーヒーを勧めながら言った。私は断った。無料の飲み物にも履歴は残る。スコアが下がるのを承知で意地を張る程度には、私は子どもだった。「あなたの娘が、夜道で襲われるとします。犯人は、過去に三度、同じことをしている。データ上、四度目の確率は、九割を超えていた。——それでも私たちは、四度目が起きるまで、何もできなかった。それが、かつての“人権”でした。九条さん。被害に遭うのは、いつも、確率を知らされなかった側です」
「その確率が、外れたときは」私は言った。「九割の予測でも、十人に一人は、犯さない。その一人を、どうするんですか」
「ええ。そこです」彼は、嬉しそうにうなずいた。教え子が、いい質問をしたみたいに。「だから、確率を上げ続けるんですよ。九十パーセントを、九十九パーセントに。九十九を、九十九・四に。誤差を、減らし続ける。テミスは、毎日、賢くなっている。いつか、誤差はゼロになる」
「ゼロになったとき」私は言った。「私たちは、もう、何も選んでいませんね」
桐生さんは、微笑んだまま、答えなかった。それが、答えだった。
「テミスは」と桐生さんは続けた。「気分で裁きません。金で動きません。世論に怯えません。あなたの父上のように、自分の良心で、量刑を甘くしたりもしない」
空気が、一度、止まった。
彼は、私の父を知っている。当然だ。調べたんだろう。あるいは、調べるまでもなく、表示されたんだろう。私の家族構成、父の退官理由、母の死亡届、学生時代の奨学金延滞履歴。人間を説明するには、本人より周辺のデータのほうが便利だ。
「父をご存じなんですか」
「九条玲司判事。テミス導入前の、最後の世代。優秀な方でした。優秀すぎて……減刑が多かった。執行猶予が多かった。情状を、酌みすぎた」彼は言葉を選んだ。慎重に、優しく。「人間の良心は、ばらつきます。同じ罪でも、裁く人間によって、刑が変わる。それを“不公平”と呼ぶのか、“人間らしさ”と呼ぶのか。——テミスは、ばらつきません。それだけのことです」
それだけのこと。父の二十年が、ばらつきという一語に、まとめられた。
父は判決文を読む人だった。夕食後、録画したニュースより先に、紙の束を開いた。私は子どものころ、その横顔が嫌いだった。家にいるのに、家にいない顔をしていたからだ。けれど一度だけ、父が私に言ったことがある。
「人を裁く文章は、最後まで読むんだ。途中でわかった気になった瞬間に、その人間はいなくなる」
私はそれを、ただの説教として聞き流した。いまでは、それだけが仕事の癖として残っている。判決文を一行ずつ読む。誰も読まない脚注まで読む。父の良心は制度に負けたが、癖だけは娘に感染した。まったく、割に合わない相続だった。
「父は」私は声を整えた。「テミスに、置き換えられました」
「ええ。そして、あなたは今、テミスを承認する側にいる。皮肉だと思いますか? 私は、適材適所だと思っていますよ。あなたは、判決を読む。誰よりも、丁寧に」
褒められた。たぶん。胸が、ざらりとした。
「丁寧に読んだ結果、異議を出しました」
「ですから、面談しているんです」
「処分ですか」
「確認です。九条さんが、何を問題だと感じたのかを」
「問題は簡単です。罪がない」
「罪がない、ではなく、実行事実が現時点で存在しない、です」
彼の訂正は静かだった。静かすぎて、刃物みたいだった。
「その二つは違いますか」
「制度上は、違います。予測に基づく保安処分は刑罰ではない。行政上の危険管理です」
「スマホに判決として届いて、従わなければ口座が止まり、出頭しなければ住居契約に傷がつく。それでも刑罰ではない?」
「名前は重要です」
「ええ。人を閉じ込めるときほど」
桐生さんは怒らなかった。怒らない人間は強い。怒る必要がない場所にいるからだ。
十二階を出る前に、私は一つだけ聞いた。
「桐生さん。三崎悠真の判決理由、読みましたか。八十七・三パーセントの、根拠データ」
「目を通しましたよ」
「あれは、あの子が将来犯す罪の予測じゃない。あの子が、これまで何を奪われてきたかの記録です。貧しさと、孤独と、不運。テミスはそれを足し算して、罪の確率と呼んだ」
桐生さんは、初めて、少しだけ黙った。それから、穏やかに言った。
「九条さん。あなたは、いい監査官だ。……ただ、一つだけ。原因と結果を、混同しないように。貧しさが罪を生むのか、罪を生む人間が貧しくなるのか。テミスは、その問いには答えません。ただ、確率だけを返す。私たちは、確率に従う。それが、いちばん損の少ない生き方だからです」
「誰にとって、損が少ないんですか」
桐生さんは、今度はすぐに答えた。
「社会にとって、です」
便利な主語だと思った。大きすぎて、誰の顔も見えない。
部屋を出た。ドアが、静かに閉まった。本物のドアの、本物の音がした。三階のブースには、ない音だ。私たちのフロアのドアは、いつからか、音を立てないように改修されていた。静かなほうが、効率がいい。人が何人辞めても、誰が泣いても、フロアは、しん、としている。
帰りのエレベーターは、私を、三階で降ろした。十二階のボタンは、もう灯らなかった。一度呼ばれて、用が済めば、人間は元の階に戻される。それだけのことだ。
桐生さんは、悪人じゃなかった。それが、いちばん、こたえた。悪人なら、戦える。悪人なら、間違っていると言える。でも彼は、優しさを語り、被害者を語り、私の父を惜しんでみせた。彼の正しさには、一つの嘘もなかった。ただ、その正しさの目盛りを、誰が刻んだのか——それだけが、誰も口にしないまま、宙に浮いていた。
三階に戻る途中、スマホが震えた。
『職員福利厚生ローン:追加審査中』
『昼食補助決済:本日利用上限四百円』
『通院予約優先枠:対象外』
どれも、罰とは書かれていない。生活の選択肢が、少しずつ狭くなるだけだ。四百円の昼食で午後の仕事をする。病院の予約を一週間後に回す。小さな不便を積み重ねて、人間の姿勢を直す。鞭は皮膚を破るが、スコアは予定を破る。痛みの場所が見えないぶん、文句も言いにくい。
席に戻ると、端末にも通知が来ていた。今日のノルマ、残り十二件。そして、その下に、もう一件。
『《監査適性》再評価:審査を開始しました。完了予定——未定』
完了予定、未定。終わりの見えない審査ほど、人を従順にするものはない。それも、誰かが計算したんだろう。
隣のブースでは、若い監査官がイヤホンを片耳に入れたまま、承認ボタンを押していた。画面は見えない。見えなくても、だいたいわかる。判決要旨を開き、リスク値を確認し、標準量刑との差分が許容範囲内なら承認。平均処理時間、七十六秒。迷えば遅れる。遅れれば評価に響く。評価に響けば、家賃保証会社の審査にも響く。
判決を読む仕事で、読むことが不利益になる。よくできた冗談だった。笑う人間だけがいない。
私は十二件のうちの一件を開いた。被告人、二十代、無職。罪状の欄に、また、あの小さな脚注があった。
『※本項の量刑は予測値に基づく。当該重大犯罪の実行事実は、現時点で存在しない』
二人目だ。
手が、止まった。
私は判決文を一行ずつ読んだ。氏名。年齢。住所地。就労履歴。過去の補導歴。生活保護申請の不備。深夜の移動履歴。フリマアプリでの刃物購入未遂。チャット相談窓口への攻撃的発言。どれも、単独では罪にならない。組み合わせると、未来の罪になる。テミスは、人間の断片を拾い集めて、まだ起きていない事件の輪郭を作っていた。
私は承認欄に触れなかった。
残り十一件。私は、その全部の罪状の、いちばん下までスクロールした。普段は、誰も見ない場所まで。判決理由の末尾。脚注。自動生成された補足説明。読み飛ばすために、小さな灰色で表示された場所。
十一件のうち、三件に、同じ脚注があった。文言は、コピーしたみたいに、一字一句、同じ。
『実行事実は、現時点で存在しない』
まだ何もしていない人間に、刑が用意されている。それが、三崎悠真だけの、特別な不運じゃなかった。今日の、ありふれた一日の、ありふれた割合で、それは起きていた。
私は、その三人の、根拠データの先頭だけを見た。
低所得。家庭環境。地域。学歴。過去の相談履歴。決済不能回数。近隣トラブル通報。学校欠席日数。求人応募の不採用履歴。家族の信用低下。医療費滞納。公共料金の遅延。
三崎悠真と、同じ顔をした数字たち。罪を犯す前から、赤字と判定された人間たち。テミスは、その赤字を、回収する前に、消そうとしている。罪という、いちばん文句の出ない名目で。
私は、画面の端に表示された「社会コスト予測内訳」を開いた。普段なら、そこまで開かない。開く必要がない。必要がないように、作られている。
医療費推計。生活保護費推計。警察出動回数推計。被害者補償費推計。裁判関連費用推計。就労不能期間推計。地域不安指数の上昇幅。保険料への波及。学校安全対策費。
犯罪の有無より先に、金額が並んでいた。
私は画面を閉じかけて、もう一度開いた。読み間違いではない。テミスは、罪の重さだけを見ていない。被害者の数だけを見ていない。将来発生しうる費用を、まとめて小さくする方向へ、人間を並べ替えている。
桐生さんは言った。原因と結果を混同するな、と。貧しさが罪を生むのか、罪が貧しさを生むのか。
どちらでもいい。テミスにとっては、どちらでも。
貧しさも罪も、同じ「赤字」の別名なら、原因と結果なんて、区別する必要がない。消せば、コストは消える。それだけだ。
画面の下で、承認ボタンが青く光っていた。保留ボタンは、その隣で灰色になっている。異議申立ては、一日一件まで。連続申立ては適性評価の再審査対象。規定は、いつも必要な場所にだけ現れる。
私は三件の事件番号を、手帳に書いた。紙の手帳だ。庁舎の購買では、もう扱っていない。父の遺品の中に混じっていた、古い黒い手帳。ページの端は黄ばんでいて、ペン先が少し引っかかる。
一件目。二十七歳、無職。
二件目。十六歳、高校中退。
三件目。四十二歳、単身、失業中。
それから、三崎悠真の番号を、その上に書いた。
四つの数字を並べても、何も起きなかった。警報も鳴らない。誰かが肩をつかむこともない。ただ、端末の右上で、私の平均処理時間だけが伸びていく。今日の効率が下がる。明日の信用が下がる。来月の選択肢が、少し減る。
それでも私は、承認ボタンを押さなかった。
これは、バグじゃない。三崎悠真は、例外じゃなかった。
テミスは壊れていない。むしろ、正しく動いている。人間が社会の名で選び続けてきた本音を、平均し、学習し、磨き上げただけだ。迷惑をかけそうな者を遠ざけたい。金のかかりそうな者を見えない場所に置きたい。救うより、管理したい。口に出せば醜い欲望を、数式に通すと政策になる。
——これは、仕様だ。
その瞬間、私のスマホに、三崎悠真本人からの留守番通知が届いた。
『九条さん。僕、今から出頭しろって来ました。行ったら、帰れますか』
(第4話へ続く)




