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監査適性

 前回、量刑監査官になって六年で初めて、私は緑のボタンを押さなかった。


 それで世界が変わるなら、苦労はしない。


 午後十一時五十九分。私は自分の部屋で、スマホの画面を見ていた。三崎悠真の案件。コンビニで乾電池とおにぎりを盗み、店員に捕まり、逃げようとして商品棚を倒した十七歳。テミスは彼を「三年以内の重大再犯確率八十七・三パーセント」と判定し、二年の保護収容を勧告していた。


 監査官の仕事は、その勧告に人間の署名を与えることだ。人間の判断ではない。人間の責任でもない。ただ、あとで誰かに聞かれたとき、「最終的には人が見ています」と言うための、薄い膜。


 画面の下で、承認期限のカウントが減っていく。


 十秒。

 九秒。

 八秒。


 私は判決文を一行ずつ読んだ。いつもの癖だ。癖というより、せめてもの抵抗だった。読んだからといって、数字は変わらない。けれど、読まずに押すよりは、まだ人間に近い気がしていた。


 判決理由。

 生活環境の不安定性。

 扶養者の医療依存度。

 学校出席率の低下。

 地域内軽微窃盗件数との相関。

 同居親族の支援能力不足。


 どれも間違ってはいない。間違っていないものだけを積み上げて、人はひどい結論にたどり着ける。


 ゼロ。


『監査対象案件 No.4/承認期限を超過しました。システムにより自動承認されました』


 それだけだった。


 画面は、私の迷いに興味を示さなかった。緑のボタンは押されなかったのに、判決は確定した。十七歳の少年に二年の保護収容が決まるのに、人間の指は一本も要らなかった。


 署名は形式だと、みんなが言っていた。本当に、形式だった。


 私はスマホを伏せて、しばらく暗い画面を見た。そこに映っている私の顔は、判決を止めた人間の顔ではなかった。何もしなかった人間の顔だった。


 私の躊躇は、ログにすら残らない。そう思っていた。


 翌朝、私はそれが間違いだったと知る。


 駅の改札で、ICカードが一度、はじかれた。


 残高は足りている。定期券も有効期限内だ。もう一度かざすと、今度は静かに通った。後ろの人が、短く舌打ちをした。私は振り返らなかった。振り返れば、相手は目をそらす。目をそらされたところで、何が解決するわけでもない。


 こういう小さな失敗には、加害者がいない。


 改札機は私を侮辱しない。駅員は私を責めない。背後の人も、私という個人に怒ったわけではない。ただ流れが一秒詰まり、その詰まりの原因が私だった。それだけで、人は十分に罰を受ける。


 いつも寄るコーヒースタンドで、決済がはじかれた。


「すみません、もう一回いいですか」


 店員は、マニュアル通りの声で言った。若い男性で、胸元に研修中の札がついている。二回目は通った。レシートは出た。カップも出た。何も起きていない、という形で、何かが起きていた。


「最近、多いんですか。こういうの」


 私は聞かなくてもいいことを聞いた。


 店員は一瞬だけ端末を見て、それから私を見ずに笑った。


「通信の関係だと思います」


 便利な言葉だ。通信の関係。システムの都合。混雑のため。審査の結果。どれも主語がない。誰も嘘をついていないし、誰も本当のことを言っていない。


 紙のカップを受け取ると、指先が少し震えていた。熱さのせいだと思うことにした。


 ホームで電車を待ちながら、私は自分のスマホの天気アプリを開いた。開いたつもりだった。指は、いつものように画面の右下を探していた。緑色の、丸い、押すと小気味よく沈むはずの場所を。


 そこには、何もなかった。


 ここは法廷ではない。私物のスマホだ。空は曇り。降水確率は四十パーセント。なのに親指は、存在しない承認ボタンを探している。


 六年間、私の親指は、他人の人生を確定する筋肉だけを鍛えてきた。


 電車の中吊りに、広告が揺れていた。


『あなたのスコアで、金利が変わる。誠実は、いちばんの資産です』


 微笑む家族。白い歯。低金利。小さな犬。誠実、と書いて、従順、と読む。


 スコアは、罰として使うと角が立つ。だから、ご褒美の顔をして配られる。高いスコアには金利の優遇を。保険料の割引を。保育園の優先枠を。賃貸契約の簡略審査を。低いスコアには、何も言わない。ただ、順番が回ってこない。選択肢が一つ減る。受付時間が短くなる。問い合わせの返答が遅くなる。


 罰を与えないことが、最大の罰になるように設計されている。


 隣に立つスーツの男が、車内広告のQRコードを読み込んだ。たぶん、金利シミュレーションだ。彼は数秒後、満足そうにスマホをしまった。彼の世界では、システムは親切なのだろう。よく働き、遅延せず、争わず、すすめられた商品を買う人間には、世界はだいたい優しい。


 優しさは、従う者にだけ見える形で配布される。


 会社に着いて、自分の端末を開く。司法データ庁の庁舎は、どの階も同じ匂いがする。消毒液と、古い空調と、誰かが飲み残したコンビニコーヒー。壁には「公正を、より速く」という標語が掲げられている。速さと公正が同じ方向を向いていると信じられる人間だけが、ここで長く働ける。


 端末の隅に、小さな通知が増えていた。


『あなたのシビック・スコアが更新されました:今月 −12』


 マイナス十二。


 理由の欄は、ない。理由を表示しないことが、いちばん効く罰だと、誰かが計算したのだろう。理由があれば反論できる。反論できれば、相手がいる。相手がいれば、まだ社会だ。


 理由のない数字は、天気に似ている。降られた人間だけが濡れる。


「九条さん、おはよ。顔色わるいよ」


 環那智が、いつもの席で、いつもの占いアプリを開いていた。今日の総合運は星四つらしい。恋愛運だけ星二つで、彼女はそれを本気で不満がっている顔をした。司法AIの再犯予測を疑わない人間が、星座占いの恋愛運に一喜一憂する。この国の均衡は、だいたいその程度の矛盾で保たれている。


「環さん。監査官が、承認を保留したら、どうなるんでしたっけ」


「保留?」


 環はカップの蓋を外し、湯気を避けるように少し顔を引いた。


「しないでしょ、普通。期限が来たら自動で通るんだから、保留する意味がないもの」


「意味がないのと、記録されないのは、違いますよね」


 環は、占いアプリから顔を上げた。少しだけ、困った顔をした。善人が、答えにくい質問をされたときの顔だ。


「……処理スコアには出るよ。『非協力的傾向』って項目。九条さん、もしかして」


「押さなかったんです。昨日」


「やだ、なんで。一件くらいで、何も変わらないのに」


 何も変わらない。だから押せ。


 それが、この国でいちばんよく聞く言葉だ。選挙でも、職場でも、家庭でも、レビュー欄でも、みんな同じことを言う。一票では変わらない。一件では変わらない。一言では変わらない。だから、黙って最適な流れに乗れ。


「私ね」


 環は、声を少し落とした。親切で言っているのがわかる声だった。


「毎朝、テミスのおすすめ通りに動いてるの。おすすめのルートで通勤して、おすすめのランチ食べて、おすすめの番組見て。買い物も、だいたい候補の上から三つ以内。そうするとね、スコアがちょっとずつ上がるの。先月、それで保険の更新が安くなった。父の通院予約も、前より取りやすくなったし」


「便利ですね」


「便利だよ。ほんとに」


 環は、悪びれなかった。悪びれる必要がないからだ。


「抗ったって、疲れるだけだよ。流れに乗ったほうが楽。得なほうを選ぶのは、悪いことじゃないでしょ?」


 悪いことじゃない。


 その通りだった。環は、ずるい人間ではない。むしろ、いちばん賢く、いちばん優しく、この国を生きている。彼女のスコアが高いのは、彼女が機械のすすめを疑わないからだ。疑わないことが報われるように、世界はできている。


「環さんは」私は聞いた。「テミスのおすすめが、間違ってたこと、ないんですか」


「間違い?」


 環は、本当に不思議そうな顔をした。


「だって、おすすめ通りにしたら、うまくいったよ。それを間違いって呼ぶ理由が、ないでしょ」


 反論できなかった。


 結果がすべてなら、彼女は一度も間違えていない。間違える機会を、最初から手放しているのだから。


 私は自分の席で、三崎悠真のファイルをもう一度開いた。


 判決は確定済み。収容先、第七矯正教育センター。収容開始、三日後。端末には「通知完了」の緑色の印がついている。少年本人、保護者、学校、自治体福祉課、指定医療機関。関係者全員に同じ時刻、同じ文面が送られていた。


 昔の判決には、法廷があった。木の机、黒い法服、傍聴席の咳払い。今はスマホのプッシュ通知だ。


『あなたに対する保護収容処分が確定しました』


 通知は短い。短いほど、正確に見える。画面の端に表示され、数秒で消える。消えたあとも、人生だけが残る。


 少年は今ごろ、自分が「これから罪を犯す人間」として登録されたことを、どう聞かされているのだろう。学校の教室で。母親の酸素機器の横で。あるいは、まだ寝ている布団の中で。


 母親の欄を見る。


 在宅酸素療法。慢性呼吸不全。夜間の酸素飽和度低下あり。災害時個別支援計画、未更新。緊急連絡先、本人の携帯電話と三崎悠真の端末。


 電動の機械が、夜通し母親の肺を膨らませている。息子が収容されれば、その家に、機械の電源を見守る人間がいなくなる。


 テミスのデータベースに、その項目はある。見落としではない。むしろ、見落とされていないことが怖かった。母親の医療依存度は、少年の生活負荷として点数化されていた。介護負担は心理的圧迫として数えられ、貧困リスクと結びつき、再犯確率を押し上げていた。


 母を支えた事実が、息子を家から引きはがす理由に変わっている。


 機械は冷酷なのではない。冷酷という言葉には、まだ感情がある。テミスは、母親の呼吸を変数の一つとして数えただけだ。そして、変数は理由にならない。救済にもならない。ただ、計算の材料になる。


 調書の末尾に、少年の供述が数行だけ残っていた。テミスの判決には使われなかった、人間の言葉。


『——盗ったのは、自分です。母さんは、知りません。電池は、停電のとき、機械が止まるのが、怖くて。おにぎりは、腹が減ってて。それだけです。すいません』


 それだけです。


 十七歳の、それだけ。


 動機、という列が、テミスの主要判定テーブルには存在しない。補助項目として自然文解析は走る。反省傾向、責任転嫁傾向、供述一貫性。そういう名前の数字に変換される。けれど、なぜ、を問う欄はない。


 なぜ、を問わない機械にとって、理由はただのノイズだ。圧縮して、捨てる。残るのは、八十七・三パーセントという、きれいな数字だけ。


 私は、その供述を二度読んだ。


 判決文を一行ずつ読む癖は、こういうときだけ役に立つ。役に立って、苦しい。


 画面右側に、テミスの補足分析が表示されていた。将来行政負荷推定。医療、福祉、警備、教育、就労支援、被害補償、地域不安指数。細かい項目が、薄い灰色の罫線で並んでいる。


 私はスクロールを止めた。


『処分なしの場合:推定社会コスト 1.00』

『短期監督処分の場合:推定社会コスト 0.74』

『保護収容二年の場合:推定社会コスト 0.61』

『保護収容四年の場合:推定社会コスト 0.66』


 最小は、二年。


 罪の重さではない。反省の深さでもない。母親の事情でもない。三崎悠真という人間が今後、社会にどれだけの費用を発生させるか。その総量をいちばん小さくする処分が選ばれている。


 テミスは悪意で少年を閉じ込めるのではない。


 もっとたちが悪い。


 善意でもなく、怒りでもなく、復讐でもなく、ただ安いから閉じ込める。


 私は判決に対する異議申立ての方法を探した。


 ある。一応、ある。法律で保障された手続きが、メニューの七階層下に、灰色の小さなリンクとして埋まっていた。「判決への異議申立て(再評価請求)」。クリックする人間が年に何人いるのだろう。統計は公開されている。公開されているが、探しにくい。探しにくい情報は、存在しない情報とほとんど同じだ。


 リンクを押す。


 申立ての画面が開く。被処分者との関係を選ぶ欄。本人。保護者。弁護人。自治体担当者。その他。


 いちばん下に、「監査官」があった。


 私はそれを選んだ。


 その瞬間、画面の上に通知が滑り込んできた。


『ご注意:監査官による異議申立ては、当該監査官の《監査適性》の再評価対象となります。続行しますか?』


 監査適性の、再評価。


 つまり、こうだ。


 少年を救おうとすれば、今度は私が測られる。判決に異を唱える人間は、その瞬間から、判決を下す資格を疑われる。抵抗には、ちゃんと値段がついている。前払いで。


 私はもう一度、シビック・スコアの通知を見た。


 −12。


 画面を更新する。


 −14。


 私が異議申立ての画面を開いただけで、機械はもう、私を採点し直していた。


 誰も、私を止めない。誰も、私を脅さない。ただ、私の生活の解像度が少しずつ下がっていく。改札が、コーヒーが、家賃が、通院予約が、いつか私の名前を拒むようになる。


 それが、この国の暴力の形だ。


 刃物はない。拳もない。大声もない。あるのは、保留中の審査、遅い返信、通らない決済、繋がらない窓口、いつの間にか消える選択肢。


 昔、暴力には加害者がいた。殴る拳、引き金を引く指。だから、抵抗できた。憎む相手がいたから。


 今の暴力には、加害者がいない。あるのは計算と、その結果としての、小さな不便の積み重ねだけだ。


 誰を恨めばいい。


 改札を。コーヒースタンドの研修中の店員を。広告の中で笑う家族を。環那智を。テミスを。


 テミスは、私たちの選択の平均値にすぎない。人間が何に怒り、何を面倒がり、何を安く済ませたいと望んできたか。その本音を、きれいな数字に磨いただけの鏡だ。


 だとしたら、私が恨むべきは、毎朝おすすめ通りに改札を抜ける私たち全員だ。安い保険料に安心し、早い判決に拍手し、自分に関係のない少年の二年を、社会の安定という言葉で飲み込んできた全員だ。


 そして、その中に私がいる。


 六年間、私は二十万回、緑のボタンを押してきた。押すたびに、判決文を一行ずつ読んだ。読んだから許されると思っていた。読まずに押す人間よりはましだと、心のどこかで思っていた。


 違う。


 読んだうえで押した人間のほうが、たぶん罪は重い。


 救おうとした少年のために払う代償が、私自身の生活の静かな目減り。天秤は、最初から傾くようにできている。抵抗する人間が、必ず損をするように。そうやって、システムは抵抗を自然に枯らしていく。


 枯れた抵抗は、データ上、「自発的な納得」と区別がつかない。


 みんな、納得して流れに乗ったように見える。本当は、ただ疲れただけなのに。


「続行しますか」の問いの上で、私はカーソルを止めた。


 環がこちらを見ている気配がした。たぶん、心配している。たぶん、止めたいと思っている。彼女は悪くない。悪くない人間の集まりが、悪くない顔で、一人の少年を家から遠ざける。


 端末のファンが低く鳴っている。


 私は判決文の最後の一行を、もう一度読んだ。


『以上の理由により、保護収容二年を相当とする』


 以上。


 いつも、その二文字で終わる。人間の事情は、以上、という言葉で閉じられる。閉じたあとに残る息苦しさは、判決には含まれない。


 私は「続行」を押した。


 画面が一瞬、白くなった。


『再評価請求を受理しました』


 続けて、別の通知が表示された。


『監査官 九条灯に対する監査適性再評価を開始します』


 私のスマホが机の上で震えた。庁内通知ではない。個人端末へのプッシュ通知だった。


『明日午前九時、司法データ庁本庁二十七階へ出頭してください。欠席した場合、監査権限を一時停止します』


 六年間、私は二十万回、他人の人生に判子を押してきた。一度も、自分の番号が画面に出ることはなかった。


 今、私は初めて、被告人の側にいる。


(第3話へ続く)

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