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最適解の被告人

 その日、十七歳の少年に有罪が言い渡された瞬間を、私はコーヒーをすすりながら見ていた。


 法廷の鐘も、裁判官の重い声もない。少年のスマホが、ポケットの中で一度だけ震えただけだ。通知音は、宅配便の再配達連絡と同じ電子音だった。


『判決が確定しました。詳細を確認してください』


 それで終わりだった。速くて、安くて、公平。誰も文句を言わない。文句を言う相手すら、もういない。


 私は九条灯。二十八歳。職業は量刑監査官。


 もっとも、世間的にはかなり残念な職業だ。


 昔は人間が人を裁いていたらしい。証拠を並べ、罪を量り、被告人の目を見て、何年もかけて。今はそれを司法AI〈テミス〉がやる。即日、無料、再犯予測精度九十九・四パーセント。人間の裁判官は、十年かけて静かに絶滅した。誰も殺さなかった。ただ「非効率だ」と言われ続け、気づいたら席が無くなっていた。


 では監査官は何をするのか。


 テミスが出した判決を、人間が最終確認した、という体裁を整える。それだけだ。法律で「電子署名が必要」と決まっているから、誰かが押さなきゃいけない。その誰かが私で、押すボタンは画面の右下にある。緑色で、丸くて、押すと小気味よく沈む。一日に二百回、私はその感触を味わう。


 中央量刑監査局の三階。かつて法廷だったフロアには、今は灰色のブースが整然と並んでいる。判事の高い席も、傍聴席も、証言台もない。あるのは、モニターと、コーヒーの自販機と、ボタンを押す人間だけだ。空調の音がいちばん大きい。ここでは、人が裁かれる音より、機械が冷える音のほうがよく聞こえる。


「九条さん、今日のノルマ、あと四件だよ」


 隣のブースから環那智が顔を出した。三つ上の先輩で、善人で、テミスを心から信じている。彼女の机にはいつも、家族の写真と、よく当たると評判のAI占いアプリが開きっぱなしになっている。


「やってる。やってますよ、ちゃんと」

「ちゃんと、の中身が問題なんだけどな。九条さん、一件ずつ全部読んでるでしょ」

「読むのが仕事なので」

「承認するのが仕事。読むのは趣味」


 環は笑った。悪気はない。むしろ親切で言っている。みんなはタイトルと結論だけ見て、緑のボタンを押す。一件三秒。私は一件に十五分かける。だから私のノルマはいつも残るし、私の人事評価のスコアはいつも低い。「処理効率、下位一〇パーセント」。テミスは部下の働きぶりも採点する。上司より正確に、容赦なく。


「読んだって、結論は変わらないよ」と環が言う。「テミスのほうが、私たちより正しいんだから。読めば読むほど、自分が無力だって分かるだけ。私はそれが嫌で、読むのやめたの」


 正しいことを確認するために読むんじゃない、と私は思う。間違っていないかを確かめるために読むんだ。けれど、その違いを説明するのは難しくて、私は黙ってコーヒーを飲んだ。


 判決文を一行ずつ読む癖は、たぶん父から来ている。父も、人を裁く仕事をしていた。父のことは、今は話さない。話すと、コーヒーが苦くなる。


 四件目を開いた。


 被告人、三崎悠真、十七歳。罪状の欄を見て、私は少しだけ手を止めた。


 万引き。常習。コンビニのおにぎり、菓子パン、一度だけ乾電池。被害総額、累計で一万二千円ほど。


「軽いな」


 思わず声が漏れた。この程度なら、保護観察か、せいぜい短期の更生プログラムだ。テミスの量刑相場も、そのあたりに落ち着くはずだった。


 判決の結論を見て、私はコーヒーのカップを置いた。


 ——保護収容。期間、二年。施設名、第七矯正教育センター。


「二年?」


 万引き一万二千円で、二年。桁が二つ合わない。私は判決理由を上から読み下した。テミスの文章はいつも完璧だ。誤字もなく、感情もなく、反論の隙もない。完璧すぎて、どこから疑えばいいのか分からなくなる。たぶん、それが狙いだ。


『被告人の行動履歴、購買傾向、位置情報、交友関係、及び学習成績の推移を統合的に解析した結果、被告人が今後五年以内に重大暴力犯罪を実行する確率は八十七・三パーセントと算定される。社会全体の予測被害を最小化するため、早期の保護収容が最適と判断する』


 最適。


 テミスがいちばん好きな言葉だ。私がいちばん、好きになれない言葉でもある。


 私はもう一度、罪状の欄に戻った。万引き。確かに罪だ。けれど、二年の収容を命じている理由は、万引きじゃない。


 「今後五年以内に」「実行する確率」。


 まだ、やっていない。


 判決文の末尾に、ごく小さな脚注があった。普段なら誰も読まない、八ポイントの灰色の一行。


『※本項の量刑は予測値に基づく。被告人による当該重大犯罪の実行事実は、現時点で存在しない』


 存在しない。


 つまりこの少年は、まだ何もしていない。これからするかもしれない、とテミスが計算しただけだ。そして私は今から、その計算に「人間が確認しました」の判子を押そうとしている。


 画面の右下で、緑のボタンが静かに光っていた。押せば沈む。小気味よく。


「環さん」


 私は隣に声をかけた。


「将来犯罪の予測収容って、いつから普通になったんでしたっけ」

「去年の改正からでしょ。再犯を“起きる前に”止められるんだから、いいことじゃない。被害者が出てから動くより、ずっと優しい」

「優しい、か」

「九条さん、また難しい顔してる。テミスは公平だよ。気分でも、忖度でも、賄賂でも動かない。人間の裁判官みたいに、間違えない。お金がある人もない人も、同じ基準で測られる。これ以上フェアなこと、ある?」


 間違えない。


 その言葉が、なぜか胸の奥に引っかかった。間違えないことと、正しいことは、同じだろうか。同じ基準で測ることと、公平であることは、本当に同じだろうか。


 三崎悠真の住所の横に、家族構成が表示されていた。母子家庭。母親の職業欄には「無し」とあり、その下に小さく、世帯の社会信用スコアが出ていた。低い。住居審査も、就労支援も、医療の優先順位も、静かに後回しにされ続ける数字だ。誰も「お前を見捨てる」とは言わない。ただ、順番がいつまでも回ってこない。


 私は、被害品目をもう一度見た。おにぎり、菓子パン、そして一度だけの、乾電池。


 乾電池が、ひとつだけ、毛色が違う。食べ物じゃない。私は、その電池が何のためだったのか、ふと考えてしまった。停電か。懐中電灯か。止まった部屋の、何かを動かすためか。母親の、何かを。


 考えるのは私の仕事じゃない。私の仕事は、緑のボタンを押すことだ。テミスはもう、八十七・三パーセントという答えを出している。私が考えたところで、その数字は一ミリも動かない。


 それでも私は、判決理由の根拠データを開いた。なぜ八十七・三なのか。どの行動が、この少年を「将来の加害者」に分類したのか。


 画面に、長い長い変数の羅列が出た。検索履歴。深夜の位置情報。母親の医療費の滞納。学校の欠席日数。閲覧した動画の傾向。友人の友人の、補導歴。——そのどれもが、罪ではない。貧しさと、孤独と、不運の記録だ。テミスはそれを足し算して、一つの確率にした。完璧な計算式で。


 九十九・四パーセント。テミスの精度は、そう公称されている。けれど、私にはずっと引っかかっていることがあった。その精度は、いったい何を「正解」と決めて測られたんだろう。収容された人間が、外で罪を犯さなければ「予測は的中した」ことになる。けれど、収容してしまえば、外で罪を犯せるはずがない。閉じ込めた時点で、予測は永遠に当たり続ける。証明も、反証も、できない正しさ。それを私たちは、九十九・四パーセントと呼んで、信じている。


 これは、この少年が将来犯す罪の予測なんかじゃない。


 この少年が、これまで何を奪われてきたかの、記録だ。


 父のことを、久しぶりに思い出した。


 父も判事だった。テミスがまだ「補助」と呼ばれていた頃の、最後の人間の裁判官のひとりだ。父はよく言っていた。「判決文は、結論より、理由を読め。結論は誰でも書ける。理由にしか、その人を裁いていいかどうかは書かれていない」と。私はその言葉の意味を、子どもの頃は分からなかった。今は、分かりすぎるくらい分かる。


 父はある日、職を失った。無能だったからじゃない。「無罪を出しすぎる」と評価されたからだ。減刑が多い。執行猶予が多い。テミスの推奨より、いつも甘い。——非効率な裁判官。父の処理スコアは、下位一〇パーセントだった。私と、同じだ。


 その先のことは、今は話さない。話すと、コーヒーが苦くなる。もう、飲み干してしまったのに。


 私はもう一度、三崎悠真のファイルに戻った。母親の医療費の滞納。その項目を開くと、傷病名が表示された。在宅酸素療法。電動の機械が、母親の呼吸を助けている。コンセントから電気を吸って、夜通し、ずっと。停電すれば、止まる。


 乾電池。


 一度だけの、乾電池。


 あの子が盗んだのは、たぶん、おにぎりでも菓子パンでもなく、母親の、次の呼吸だ。テミスのデータベースには、その一行は無い。「動機」という列が、そもそも存在しないからだ。機械は、なぜを問わない。何を、しか見ない。


 指を伸ばした。緑のボタンまで、あと数ミリ。


 そのとき、私のスマホが震えた。宅配便の再配達と同じ、電子音。


『監査案件 No.4 / 三崎悠真。承認期限まで——本日 23:59。期限超過後は自動承認されます』


 自動承認。


 つまり、私が押しても押さなくても、結論は変わらない。私が今日帰って、眠って、忘れてしまえば、テミスが勝手に判子を押す。少年は二年、収容される。やってもいない罪のために。そして誰も、それを止めない。署名は、ただの形式だ。環もそう言っていた。誰もが、そう言う。


 時計は午後六時十二分を指していた。締め切りまで、あと六時間弱。


 定時のチャイムが鳴った。やっぱり、宅配便の電子音に似ていた。周りのブースから、人が消えていく。環が「お先に」と手を振った。「九条さん、無理しないでね。残業しても、スコア上がらないよ」。親切で、正しい忠告だった。この国では、正しい忠告はだいたい、諦めなさい、という意味だ。


 フロアの照明が、人のいない区画から順に落ちていく。テミスは電気代も最適化する。誰もいない場所を、明るくしておく理由はない。やがて、明かりがついているのは私のブースだけになった。暗い部屋の真ん中で、緑のボタンだけが、生き物みたいに光っている。


 私はコーヒーを飲み干した。冷めていて、ひどく苦かった。父のことを思い出すときと、同じ味がした。


 緑のボタンは、まだ光っている。沈むのを待っている。


 ——押さなかったら、何が起きるんだろう。


 量刑監査官になって六年。二十万回、私はあのボタンを押してきた。一度も、押さなかったことはない。二十万人ぶんの判決を、私は読んで、確認して、承認してきた。そのうちの何人が、三崎悠真のように、まだ何もしていなかったのか。私は今まで、一度も数えたことがなかった。数えてはいけない気が、していたからだ。


 私はこの日初めて、その問いを自分にした。


(第2話へ続く)


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▶次回・第2話――署名を保留した私のもとに、システムからの最初の“返事”が届く。誰も撃たない。ただ、私の名前の隣で、数字が静かに下がりはじめる。

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