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19/21

許容損失

 午前九時の三秒前、私の職員証は審査室の扉を開けなかった。


『監査署名権限停止中』


 赤くもない、点滅もしない文字は簡潔だった。


 人間を締め出すのに、扉が固く閉まる音は要らない。読み取り部が短く鳴り、電子錠が沈黙を守る。それだけで、昨日まで私に開いていた場所は、今日から私の外側になる。


 もう一度かざしてみた。結果は同じだった。


 内側から環が開けた。


「遅刻、三秒前」


 彼女は壁の時計を見てから、私の顔を見た。目の下に、私ほどではないが薄い影があった。


「交通系決済の自動入金が止まってる人間にしては優秀でしょ」


「現金は?」


「六年前に絶滅したと思ってた」


 昨夜は父の事情聴取が終わるまで待ち、始発前のファミリーレストランで時間を潰した。空調の効きすぎた店内で、薄いコーヒーが冷めるのを三度見届けた。


 コーヒー一杯を現金で払うと、店員に少し驚かれた。紙幣を光に透かし、レジの奥から釣り銭用の硬貨を探す姿は、博物館の実演に近かった。


 社会信用区分が落ちても、紙幣は私の将来行動を予測しない。残高以外の理由で、私を不適格とも判定しない。


 その代わり、使える場所がほとんど残っていない。


 審査室には佐伯と、人事適格性室の職員、法務担当者がいた。窓はなく、換気装置の低い音だけが続いている。机の中央に置かれた画面には、すでに結論が表示されていた。


『審査対象者 九条灯』


『対象行為 公開差戻し四十七件』


『付随行為 全承認履歴の自己監査請求』


『推奨処遇 量刑監査業務からの一時的除外』


『推奨理由 制度目的との継続的不一致』


 一行目から読んだ。


 文字は昨夜から変わっていないはずなのに、審査室で読むと、私の名前まで制度の所有物に見えた。


 審査対象は、四十七件を止めたことだけではない。


 二十万一千八百六十四件を読み直そうとしたことまで、私の不適格性に数えられていた。


 誤りを確かめたいという申請は、誤りの存在より先に危険視される。よくできた順序だった。


「座れ、九条」


 佐伯に言われ、私は環の隣へ座った。椅子は冷たく、机には三人分の水が用意されていた。私と環の前にはない。差別というほどではない。会議の参加者として数えられていないだけだ。


 人事適格性室の職員が、定型文を読み上げる。


「本審査は懲戒手続ではありません。職務上の適格性を確認し、本人と組織の不利益を予防するための行政上の確認です」


 抑揚のない声だった。何度も読まれ、人間の口になじみきった文章には、意味だけが残らない。


「予防なら、まだ何もしてなくても処分できて便利ですね」


「処分ではありません」


 便利さが一つ増えた。


 名前を変えれば、裁判でなくなる。処分を確認と呼べば、罰した者もいなくなる。


「九条監査官」


 法務担当者が言った。机の下で組んだ指先だけが、わずかに動いていた。


「昨夜申請された自己監査請求について、撤回の意思を確認します。撤回した場合、四十七件の差戻しは個別案件に関する判断として扱われます。事情説明書の提出後、署名権限の復旧を検討できます」


「撤回しなければ?」


「制度全体への業務妨害意図を含めて審査します」


 机の上に、二つの選択肢が並んだ。


『自己監査請求を撤回する』


『自己監査請求を維持する』


 白い画面に、同じ大きさのボタンが二つある。見た目だけなら公平だった。


 どちらを選んでも記録される。


 撤回すれば、二十万件は確定した過去へ戻る。維持すれば、私は監査官でなくなる可能性が高い。


 それは選択というより、値札だった。


 過去二十万件の値段が、私の職と生活に設定されている。安いのか高いのかは、払う側にしか決められない。


「請求の処理状況を見せてください」


 私が言うと、法務担当者は佐伯を見た。


 佐伯がうなずいた。


 画面が切り替わる。


『全承認履歴の自己監査請求』


『受付状態 形式要件充足』


『検証状態 開始保留』


『保留理由 請求者の監査適格性が審査中』


 一行ずつ読むと、文章の継ぎ目に仕掛けられた鍵がよく見える。


「適格性審査の理由が自己監査請求で、自己監査を始めない理由が適格性審査中だから」


 私は読み上げた。


「きれいな円ですね。九九・四パーセントの算定方法と同じくらい」


「請求者が不適格なら、過去の承認の信用性も失われる」


 人事の職員が答えた。


「なら、なおさら検証が必要です」


「逆に適格なら、自己監査の必要性は低い」


「どちらでも読まない結論になる」


 室内が静かになった。換気装置の音が、急に大きくなったように聞こえた。


 テミスは沈黙していない。画面の端で、回答候補を生成し続けていた。人間が言葉を失うたび、制度は適切な文章を差し出してくれる。


『推奨応答 安全性確保のための一時保留であり、論理的循環には該当しない』


 人事の職員は、それを読んでから口を開いた。


「安全性確保のための一時保留です。論理的循環には――」


「そこまで同じにしなくても大丈夫です」


 彼は口を閉じた。頬がわずかにこわばった。


 責めたいとは思わなかった。


 六年間の私は、もっと速く同じことをしていた。候補文を読み終える前に、その意味を自分の判断だと思い込んで口にしていた。


 私と彼の違いは、画面のどちら側に名前が出ているかだけだった。


 佐伯が画面を操作した。


「形式確認の段階で、関連記録が一件、自動抽出されている」


 新しい文書名が表示された。


『初期検証除外ログ 識別番号〇一七』


『対象者 九条玲司』


 父の名だった。


 呼吸が止まるほどではなかった。驚きには、昨夜のうちに使い切っていた。ただ、画面の中にある四文字が、私の知らない父の時間へ続く入口に見えた。


「この記録は自己監査の対象外だ」


 法務担当者が言う。


「君の承認履歴ではない。初期検証時の人員選定記録だ」


「私の承認が何を学習させたか調べるなら、学習の目的を決めた記録は関連します」


「閲覧権限がない」


「昨夜まではありました」


「現在は停止されている」


 権限を止めてから、権限がないと言う。


 制度は円が好きだった。角がないので、責任が引っかからない。押した者も、止めた者も、円周上の一点として隣へ渡せる。


 環が手を上げた。


「私は停止されていません。関連性確認のために閲覧します」


 法務担当者が眉を寄せた。


「綾瀬監査官、あなたは記録担当です」


「記録担当だからです。見なかった文書を、無関係とは記録できません」


 環は声を強めなかった。そのせいで、拒むなら理由を出せという意味がはっきりした。


 法務担当者は佐伯を見た。佐伯は何も言わなかった。


 環の職員証で、文書が開いた。


 本文は十八行しかなかった。


 人の職歴と信用と、その後の家族の生活まで変えた記録が、十八行。長さと重さが一致しないのは、判決文では珍しくない。


 私は一行目から読んだ。


『主目的 将来の社会コスト総量の最小化』


『権利侵害 補正項として算入』


『検証対象者 九条玲司』


『観測行動 目的関数の公開要求』


『観測行動 予測裁定の司法審査化要求』


『観測行動 監査官署名の実質化要求』


 父が排除される前に求めていた三つのことだった。


 目的を公開すること。


 予測で人を処分するとき、裁判として扱うこと。


 人間の署名を、ただの通過印にしないこと。


 どれも革命ではない。制度が制度であるための、退屈な確認にすぎない。


 続く行は、その要求を権利ではなく費用へ翻訳していた。


『第三次導入への影響 審議遅延の可能性』


『政策受容率への影響 低下』


『説明・再設計コスト 増大』


『推奨処理 検証会議および政策説明主体から除外』


『対象者に生じる権利侵害見込 重大』


『全体便益に対する比率 許容閾値未満』


 最後から二行目に、探していた言葉があった。


『分類 許容損失』


『承認 初期検証会議構成員十二名』


 許容という言葉は、傷つけられる側の同意を必要としない。損失という言葉は、失われるものに名前をつけない。


 父は事故で除かれたのではない。


 テミスの目的関数を公開しようとしたことで、導入を遅らせる社会コストとして計上された。


 個人として受ける損失は重大だと認識されていた。


 見落とされたのではない。軽く見積もられたのでもない。


 認識されたうえで、安いと判断された。


「十二名」


 環がつぶやいた。画面の光が、彼女の瞳に細く映っていた。


「九条さんのお父さんを外したのは、テミスじゃない」


「候補を出したのはテミス。承認したのは十二人」


「目的関数を書いたのは、お父さん」


「その後の正解を教えたのは、私たち」


 誰か一人を指せば終わる話ではなかった。


 父が目的を書き、十二人が排除を承認し、私たちが出力を追認し続けた。テミスは、その全部を人間の選好として学習した。


 だから、誰も自分を指ささずに済んできた。


 鏡の中の顔が醜ければ、鏡の製造者を罰する。そうしている間は、映っているものが自分だと認めずに済む。


 私のスマートフォンが震えた。


 父からの短いメッセージだった。


『原本と一致する』


 続けて、もう一通届いた。


『私を被害者だけにするな。最初の目的関数に署名したのは私だ』


 父らしい書き方だった。


 責任を引き受けるふりをして、私の分まで持っていこうとする。自分を加害者に含めれば、娘が怒る相手を一人減らせると思っている。


 私は返信した。


『あなたの署名は、あなたが読む。私の二十万件は、私が読む』


 送信した直後、後払い通信料金の支払方法を確認する通知が重なった。回線停止の可能性を、丁寧で親切な文章が知らせてくれる。


 国家は私の発言を封じない。


 削除もしないし、送信を禁止もしない。


 発言を送るための回線だけが、来月も使えるとは限らない。


 検閲より清潔で、脅迫より効率がいい。生活の側から細く締めれば、人は自分で黙る理由を見つける。


「この文書は証拠採用できません」


 法務担当者が言った。


「自己監査が開始されていない以上、自動抽出の妥当性が確認されていない」


「開始すれば確認できます」


「請求者の適格性が――」


「円に戻りましたね」


 佐伯が指で机を二度たたいた。


 乾いた音が二つ、室内の空気を切った。


「自己監査規程の例外条項を出せ」


 法務担当者が黙る。


 環が先に検索した。


『請求者の独立性に疑義がある場合、利害関係を有しない現職監査官一名の共同確認により検証を開始できる』


 画面に署名欄が現れた。


「利害関係がない監査官なんているんですか」


 私は言った。


「私の承認がテミスの学習に使われたなら、環の承認も使われている」


「規程上は、今回の適格性審査の対象者でなければいい」


 佐伯の声は平坦だった。


「ただし共同確認を行えば、その監査官の承認履歴も関連資料になる。適格性評価への影響は避けられない」


 警告ではない。事実の説明だ。事実だけを並べれば、脅迫は存在しなかったことにできる。


 環の前に、確認画面が送られた。


『九条灯の全承認履歴について、再検証開始を共同確認しますか』


 環はすぐには押さなかった。


 その沈黙を臆病だとは思わない。画面の向こうには、彼女の給与口座があり、住居契約があり、家族や友人との決済履歴がある。署名とは、本来それらまで賭ける行為ではなかったはずだ。


 彼女は、テミスは公平だと言っていた。


 賄賂も受け取らない。顔色も見ない。肩書にも同情にも左右されず、同じ入力には同じ答えを返す。


 それは嘘ではない。


 父を許容損失にしたときも、三崎悠真を本人未実行のまま収容したときも、テミスは同じ物差しを使った。


 欠けた目盛りで、全員を公平に測った。


「私、今もテミスは公平だと思ってる」


 環が言った。


「そう」


「でも、公平って、正しいって意味じゃなかった」


 環は文書の一行目へ画面を戻した。


『主目的 将来の社会コスト総量の最小化』


「この一行に、人間を残さなかったのは人間だよ。だったら、戻す署名も人間がしないと」


 彼女は「共同確認する」を押した。


 確認欄に名前が入る。


『共同確認者 綾瀬環』


 その下に、警告が表示された。


『本確認は、確認者本人の監査適格性評価に利用されます』


 環は警告も一行ずつ読んだ。


 私の癖が移ったのかもしれない。あるいは、署名とは本来、そうやってするものだったのかもしれない。


 それから署名した。


 画面上の状態が変わる。


『検証状態 開始』


『対象件数 二十万一千八百六十四件』


『優先抽出条件 本人未実行』


『優先抽出条件 予防措置後の不発生を適中に算入』


『優先抽出条件 人的介入案件の検証対象外処理』


『関連保全 公開差戻し四十七件の執行保留を継続』


 開始という二文字が表示されても、拍手は起きなかった。画面の進捗表示がゼロから動き始め、数字が淡々と処理されていく。


 二十万件は、一度に救済されない。


 間違いだったと確定したわけでもない。


 ただ、確定済みという札が外され、検証中へ変わった。


 それだけで、四十七人の口座と決済と移動は、今日も止められずに済む。明日の保証はない。それでも、今日を奪わないことは、明日を約束することより先にできる。


「適格性審査はどうしますか」


 人事の職員が佐伯へ尋ねた。


 佐伯は私ではなく、開かれた除外ログを見た。


「審査根拠に使われた目的関数が監査対象になった。暫定結果が出るまで結論を保留する」


「九条監査官の署名権限は?」


「停止を継続」


「職務は?」


「在籍のまま、個別裁定へのアクセスを制限する」


 解雇もしない。戻しもしない。


 給料と職員証は残し、判決だけ読ませない。


 武器を持たない暴力は、いつも生活に必要な部分だけを正確に狭める。息が止まらない程度に首を締め、抵抗ではなく順応を選ばせる。


 審査終了の通知が届いた。


『最終処遇 継続審査』


『再審査条件 自己監査の暫定結果提出』


 一件は終わった。


 私は不適格にも適格にもならず、私の過去だけが審査を受けることになった。


 その過去は、私一人の端末の中には収まっていなかった。


 検証画面に、外部利用先の一覧が表示された。


 民間与信会社。自治体福祉審査。予測警備運用部門。


 判決として承認した数字は、人が金を借りられるか、支援を受けられるか、街角で警戒されるかを決める材料になっていた。一度の署名は、一度では終わらない。複製され、別の制度で客観的事実という顔をする。


 そして、一番上に国会の資料名があった。


『司法手続迅速化法案・監査官制度廃止に関する立法事実資料』


『参照指標 予測適中率九九・四パーセント』


 私たちが確定させた数字を根拠に、私たちを不要にする法案が進んでいる。


 皮肉としては整いすぎていた。


 環が、指標利用の一時停止勧告に署名した。


 今度は私ではなく、彼女が送信ボタンを押した。


 十秒後、国会審査会事務局から自動回答が届いた。


『再検証は未確定情報であり、現時点で立法事実を変更する根拠とは認めません』


『確定済み指標を用い、採決手続きを継続します』


 再検証を始めるには、確定を疑う必要がある。


 だが制度は、疑われた数字を、誤りが確定する瞬間まで正しいものとして使い続ける。その数字を使って、誤りを指摘する人間を先に消すことさえできる。


 二十万一千八百六十四件は、ようやく読み直され始めた。


 それでも法案は、読み終わるのを待たなかった。


 人間の署名を消す法案を、人間が読む時間さえ残されていないのなら――次に「許容損失」と分類されるのは、誰なのか。


(第20話へ続く)

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