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九九・四パーセント

 確定した数字は、誤りが確定するまで正しい。


 国会審査会事務局の自動回答を、私は一行ずつ読み直した。


『再検証は未確定情報であり、現時点で立法事実を変更する根拠とは認めません』


『確定済み指標を用い、採決手続きを継続します』


 白い画面に並ぶ黒い文字は、温度を持たない。書いた人間の迷いも、読まされる人間の焦りも、文面からはきれいに取り除かれている。


 理屈は通っている。


 崩れかけた橋も、崩落が確認されるまでは通行実績一〇〇パーセントだ。


「採決は十三時」


 環が壁の時計を見た。


 秒針の音はしない。庁内の時計は静かで、正確で、誰が遅れていても責任を感じない。


 私の適格性審査が終わってから、まだ三十分も経っていない。私は在籍したまま個別裁定へのアクセスを制限され、環は指標利用の一時停止勧告へ署名した。


 公平なテミスを信じていた監査官と、二十万件の署名を疑い始めた監査官。


 庁内の評価基準なら、先に席を外すべきなのは私だった。


 ところが端末の前に残っているのは、二人ともだった。


 空調の風が、机の隅に置かれた紙の端をわずかに震わせていた。昼前の執務室には、キーボードの音と通知音しかない。私たちのところだけが忙しいわけではない。別の席では、別の誰かの未来が、いつもどおり処理されている。


「全件を読み終えるのは無理だよ」


 環が言った。


「十三時までに二十万件なら、一件一秒でも二日以上かかる」


「私たちが六年かけて読まなかったものを、二時間で読めるとは思ってない」


 口にしてから、六年という時間の重さが遅れてきた。


 一件ごとの署名は数秒だった。数秒なら罪悪感を持つ暇もない。けれど数秒を二十万回積み上げれば、それはもう習慣ではなく、人生の一部だ。


「じゃあ、何を出すの」


「九九・四パーセントの中身」


 自己監査の進捗画面を開いた。


『対象件数 二十万一千八百六十四件』


『機械的照合完了 三万八千三百五十四件』


『個別内容監査完了 十二件』


 照合と監査は違う。


 日付、処分、予測値、承認署名、措置後の記録を並べるだけなら、データベースは人間より速い。表記の揺れもない。疲労もない。十二件目で集中を失い、同じ一行を三度読むこともない。


 だが、その並びが正しい意味を持つか判断するには、一行ずつ読むしかない。


 私は判決文を一行ずつ読む。


 それは慎重さというより、長いあいだ自分を納得させるための癖だった。一行目に異常がなく、二行目にも矛盾がなく、最後の行まで文法が崩れなければ、全体も正しいと思える。


 テミスは、その思い込みを二十万件かけて教育してくれた。


 十二件。


 十三件目を開こうとして、画面に拒否された。


『個別裁定アクセスが制限されています』


 指先が止まった。押し直しても表示は変わらない。権限のない人間が正しい場所を触ったとき、システムは怒らない。ただ、同じ文章を返す。


 私に許されているのは、集計結果の閲覧だけだった。


 自分の過去を調べろと言われながら、その過去の顔は見るなということらしい。制度はときどき、皮肉を規則として実装する。


 集計欄を下へ送った。


『旧算定式による指標再現 九九・四パーセント』


 環の指が止まった。


「再現できてる」


「そう。数字そのものは改ざんじゃない」


 そこが厄介だった。


 九九・四パーセントは、嘘ではない。


 嘘なら否定できる。計算ミスなら直せる。担当者の不正なら、担当者を処分して制度を延命できる。


 けれどこれは、決められた算定式にデータを入れ、決められた結果を出しただけだった。


 何を正解と呼ぶかを、先に決めていただけだ。


『予防措置実施後に対象行為なし――予測適中として算入』


『人的介入により措置変更――検証母集団から除外』


『公的支援開始後に危険度低下――措置効果として算入』


『本人未実行――予測値による適中判定を維持』


 一行ずつ読むたび、同じ仕掛けが別の言葉で現れた。


 犯罪が起きると予測する。


 予測したから、口座を止める。移動を狭める。出頭させる。住居や雇用の選択肢を減らす。


 改札で決済が通らない。昼食を買おうとして残高があるのに拒否される。求人へ応募しても、審査中の表示から先へ進まない。管理会社から、契約更新には追加確認が必要だと連絡が来る。


 誰も殴らない。誰も武器を向けない。


 ただ、昨日まで開いていた日常の扉が、今日から順番に開かなくなる。


 その後、犯罪が起きなければ予測は当たったことになる。


 人間が途中で処分を変え、その人が何も起こさなければ、今度は検証から外す。


 起きても当たり。起きなくても、措置の効果として当たり。人間が止めれば数えない。


 この算定式にとって、予測が外れるためには、現実の側がよほど器用に振る舞わなければならなかった。


 テミスの予測を検証するには、本来、措置を受けなかった場合との比較が要る。


 だが、その人生は存在しない。


 口座を止められなかった三崎悠真。学校へ通い続けた三崎悠真。保護収容されず、誰かに事情を聞いてもらえた三崎悠真。


 どれも記録にはない。


 存在しない人生との差を、九九・四パーセントは測ったことにしていた。


 追加の集計結果が表示された。


『措置を伴わない比較対象 なし』


『反実仮想の観測可能性 なし』


『予測精度としての評価 算定不能』


 九九・四パーセントが、画面から消えたわけではない。


 その横に、名前がついた。


『実質的指標分類 措置後結果との整合率』


「予測適中率じゃない」


 環が言った。


 声は小さかった。怒っているというより、長く信じていた単語の意味を、初めて辞書で引いたような声だった。


「処分したあと、想定した結果になった割合」


「それも、想定に合わない案件を外したうえでね」


 環は何も言わず、除外条件を上から読み返した。


 監査官は、文章を読む仕事ではないと教えられてきた。テミスが読んだ結果を承認する仕事だと。


 けれど今、私たちにできる抵抗は、書かれている言葉を言葉どおりに読むことしかなかった。


 除外理由の一覧には、見覚えのある語があった。


『人的介入による評価汚染』


『制度信頼への影響が限定的』


『許容損失』


 父を設計部門から除いた言葉と同じだった。


 画面の向こうで、過去の文書と現在の集計が重なった。


 目的関数に異議を唱えた人間も、人間の介入で結果が変わった案件も、正しさを測る母数から外される。


 間違いを指摘する存在は、間違いの証拠ではない。


 最初から、損失として処理されていた。


「暫定結果を送ろう」


 環が言った。


「さっき送った。未確定だから採用しないって返ってきた」


「確定を待っていたら、監査官が先に廃止される」


 十三時の採決で、監査官制度は不要だと判断される。不要だと判断する根拠は、監査官が承認した九九・四パーセントだ。


 自分で自分の椅子を片づけてから、立つ場所がないと訴える。ずいぶん効率のいい制度だった。


「だから、結果は送らない」


 私は国会提出資料の詳細を開いた。


 資料名。


 作成部局。


 参照指標。


 その下に、小さな表示があった。


『人的監査済みデータであることを保証する』


『保証根拠 量刑監査官による承認署名』


 文字は小さかった。九九・四パーセントの数字よりも、法案名よりも、ずっと小さい。


 重要なことほど注記へ追いやられるのは、契約書も法律も同じだ。


 九九・四パーセントは、テミスだけが作った数字ではない。


 私たちの署名が、正しさを保証していた。


 判決を確定するための形式署名が、統計資料では人間による検証済みという意味へ変換されている。


 私が押してきた承認は、私が読んだという記録だった。私が理解したという記録になり、やがて私が予測精度を保証したという証拠になった。


 一度の署名は、一度では終わらない。


「結果じゃなく、保証を撤回する」


 私は言った。


 環がこちらを見た。


「承認済みの裁定を全部取り消すの?」


「それはできない。個別に再審査が要る。でも、私の署名を予測精度の保証に使うことは認めない」


「法案の資料だけを切り離す?」


「署名した目的に戻す」


 それだけのことだ。


 けれど制度にとって、目的を限定する行為は、ときどき反抗より扱いづらい。


 庁内手続を検索した。


 監査結果訂正。


 統計利用停止。


 外部提供先への訂正通知。


 どれも管理職の承認が必要だった。佐伯に出せば、十三時までに決裁経路を一周して戻ってくる可能性は低い。


 急ぐ申請ほど、慎重な審査が必要と表示される。慎重な審査ほど時間がかかる。時間がかかった結果、申請の意味がなくなっても、手続きに瑕疵は残らない。


 検索語を変えた。


『保証』


『撤回』


 一件だけ該当した。


『監査署名の目的外利用に関する保証撤回届』


 制度開始時に作られ、利用件数はゼロだった。


 使われたことのない手続きは、存在しないのとよく似ている。誰も探さず、誰も説明せず、廃止する必要さえ認識されない。


 提出者は、署名した本人。


 管理職の承認は不要。


 署名は形式だと言いながら、形式であるからこそ、他人が代わって撤回できない。


 私は届出画面を開いた。


『撤回対象となる利用目的を選択してください』


「司法手続迅速化法案の立法事実資料」


 環が読み上げた。


「撤回理由」


「承認署名は個別裁定の手続確認であり、予測精度の実証ではない」


「裏づけ資料」


「自己監査の暫定集計。それと、算定式」


 環が入力内容を一行ずつ確認した。私より速く、それでも飛ばさずに。


 入力欄の最後に、警告が出た。


『保証撤回は、提出者の監査適格性評価に利用されます』


 赤い枠も、警告音もなかった。


 脅しは穏やかな文章で書いたほうが効く。読む側が、自分で最悪の続きを補ってくれるからだ。


「便利だね」


 私は言った。


「何をしても、最後は私の評価になる」


「九条」


 環は、警告ではなく提出者欄を指した。


『単独署名による撤回の場合、当該監査官が承認した案件に限り適用』


 私の二十万件だけでは、立法資料全体の保証は消えない。


 ほかの監査官が承認した裁定が残る。制度は、一人の異議で全体が止まらないようにできている。


 それ自体は正しい。


 たぶん、正しすぎた。


 正しい仕組みは、正しい目的に使われるかぎり頑丈だ。目的がすり替わったあとも、同じ頑丈さで異議をはね返す。


 環が自分の職員証を端末へ読み取らせた。


 短い確認音がした。


『共同提出者 綾瀬環』


「何件?」


「私の承認履歴?」


「うん」


「十九万八千件くらい。数えたくなかったから、正確には知らない」


「私も昨日までは知らなかった」


 共同提出の適用範囲が表示された。


 約四十万件。


 数字が増えても、実感は増えなかった。二十万を超えたあたりから、人間の頭は件数を風景としてしか扱えない。


 けれどその一件ごとに、口座があり、住居があり、出頭通知を受け取った朝がある。


 立法資料が参照した監査済み裁定の過半数を超えた。


「まだ、テミスは公平だと思う?」


 私は聞いた。


 環は、すぐには答えなかった。


 適格性審査で言葉を選ぶときとは違う沈黙だった。誰かに採点されるためではなく、自分の答えが自分を裏切らないか確かめる沈黙だった。


「公平にできると思ってる」


 やがて彼女は言った。


「人間の顔も、肩書も、声の大きさも見ない。それで救われる人はいる。でも、間違った答えを正解として教えたら、公平に間違えるだけ」


「公平な間違いなら許せる?」


「許せない。公平であってほしいから、読んだ人間が止める」


 環は共同署名を確定した。


 テミスへの信頼を捨てたのではない。


 信頼しているから従う、という場所から、信頼できるか確かめる場所へ移った。


 その距離は、画面上では職員証を一度読み取らせるだけだった。


 私は撤回届の送信ボタンを押した。


 十時五十八分。


 国会の採決まで、二時間二分。


 受領通知はすぐに届いた。


『監査保証撤回届を受領しました』


『関係機関への反映には時間を要する場合があります』


 時間を要する。


 行政が何もしないときに使う、もっとも丁寧な現在形だ。


 送信済みの表示を見ても、何かが動いた実感はなかった。端末は静かなままで、壁の時計も静かなままだった。


 佐伯が私たちの後ろに立っていた。


「提出したのか」


「もう適格性を再審査しますか」


「順番待ちだ。君の過去が多すぎる」


 佐伯は私の画面を確認し、庁内の受付番号を控えた。


 咎める声ではなかった。賛成する声でもない。管理官という役職は、ときどき感情を表に出さない技術の名称に思える。


「管理官として内容には関与できない。ただし、外部提供資料の保証状態が変更された事実は、情報管理規程に従って通知する」


「それ、手伝ってますよ」


「規程に従っている」


 佐伯は表情を変えなかった。


 規程は、人を締めつけるためだけにあるわけではない。読む人間がいれば、ときどき逃げ道にもなる。


 十一時十二分。


 立法資料の表示が変わった。


『人的監査済み』


 その文字に、灰色の線が引かれた。


『保証状態 撤回手続中』


 ただ一本の細い線だった。


 私たちが六年かけて積み上げた約四十万件の署名は、その線一本で「保証済み」ではなくなった。


 国会審査会事務局から二通目の回答が届いた。


『保証撤回は指標値そのものの誤りを確定するものではありません』


 やはり、止めないつもりだった。


 環が唇を結んだ。私は文面を上から読み直した。誤りを確定しない。だから指標値は残る。最初の回答と同じ理屈だ。


 続けて、三通目が届いた。


『ただし、本資料は監査官制度の有効性を評価する立法事実として提出されており、人的監査保証を欠く状態では証拠能力を確認できません』


 環が息を止めた。


 私は次の一行を読んだ。


『本日予定されていた採決手続きを停止します』


 その次。


『司法手続迅速化法案は、立法事実資料の再提出を求め、提案者へ差し戻します』


 最後。


『第三次導入に関する審査は、再提出まで保留します』


 読み終えても、誰も声を上げなかった。


 勝利を知らせる音は鳴らない。法案が止まっても、執務室の照明は明るくならないし、停止された後払い利用枠で私の昼食が用意されるわけでもない。


 法案が廃案になったわけではない。


 数字を作り直し、説明を言い換え、別の名前で戻ってくることはできる。


 テミスも止まらない。すでに出た裁定も、自動では消えない。私のアクセス制限も、後払い利用枠と交通系決済への自動入金の停止も、そのままだった。


 それでも、今日の採決はなくなった。


 人間の署名を消すために使われた九九・四パーセントは、人間の署名によって立法事実から外された。


 一件は終わった。


 監査官制度廃止法案は、差し戻された。


 その直後、自己監査画面の表示が更新された。


『暫定結果に基づく優先再検証対象を抽出しました』


『優先順位 第一位』


『対象者 三崎悠真』


『現行処分 保護収容』


『暫定分類 本人未実行』


『必要手続 人的監査による再審査』


 さっきまで数字だった二十万件の先頭に、名前が戻ってきた。


 三崎悠真。


 本人未実行。


 その二つの文字列のあいだに、彼が失った日数は表示されない。


 私は詳細を開こうとした。


『再監査担当 自己監査請求人・九条灯』


『個別裁定アクセス 制限中』


『現行処分は、人的署名が完了するまで継続します』


 読むべき人間に、読む権限がない。


 署名すべき人間に、署名するための記録が開かれない。


 それでも処分だけは、手続きどおり継続する。


 法案を止めて残した署名欄は、最初に読み直すべき少年の前で、まだ空白だった。


 私は彼の判決を、今度こそ一行ずつ読めるのだろうか。


(第21話へ続く)

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