誰が教えた正しさ
エレベーターを降りた時点で、私の交通系決済には三百八十二円残っていた。
父のいる場所まで、最寄り駅から二百十円。
帰りの分は足りない。
往復という発想は、信用のある人間にだけ許された贅沢らしい。
改札を通ると、スマートフォンが震えた。
『司法手続妨害予測対象者との接触が見込まれます』
『接触を回避した場合、明朝の適格性審査において協力的行動として考慮します』
地図には、父の住所へ向かう経路と、私の自宅へ戻る経路が表示されていた。
自宅へ戻る方だけが青い。
命令ではない。
父を見捨てれば、褒めてくれるだけだ。
私は青くない方の電車に乗った。
車内には、仕事帰りの人間が並んでいた。動画を見る者。値引きされた夕食を注文する者。家族へ帰宅時刻を送る者。
その一つ一つが行動履歴になり、翌日の推薦を少しずつ変える。
人は自分で選んでいるつもりで、選んだ結果から次の選択肢を狭められる。
テミスだけが特別なのではない。
司法が、私たちの慣れ親しんだ仕組みを使っているだけだ。
父の住所は、死亡記録を訂正したあとに登録されたものだった。築四十年の集合住宅。短期契約。保証会社の審査は条件付きで、家賃は前払い。
生き返った元判事に対する社会の評価としては、現実的だった。
到着したのは二十二時四分。
外廊下の照明は、一つおきに消えていた。
父の部屋の前には、配達記録付きの封筒が落ちていた。玄関チャイムを鳴らしたのは、通知書を届けた配送員だったらしい。
国は死者にも紙を送る。
受け取る者がいなければ、不在票を残す。
私は扉を叩いた。
「父さん」
返事はない。
「九条灯です。今のところ」
鍵が開いた。
父は背広を脱ぎ、白いシャツの袖を肘までまくっていた。狭い室内には、机と椅子、敷いたままの布団、紙の資料を詰めた段ボール箱が三つあった。
三年間の死後生活にしては、荷物が少ない。
「来たのか」
「予測どおりに」
「戻れ」
「歓迎が簡潔で助かる」
「明朝、適格性審査だろう」
「父親を見捨てられる監査官なら、適格と認めてもらえそうですね」
「そのための通知だ」
父は床の封筒を拾った。
宛名は九条玲司。
差出人は司法最適化庁ではなく、生活信用再調整相談センターだった。
封を切る。一枚目には、スマートフォンへ届いたものと同じ出頭通知が印刷されている。
『司法手続妨害予測に関する事情聴取』
『出頭対象者 九条玲司』
『出頭期限 本日二十三時五十九分』
『死亡登録を理由とする欠席は認められません』
二枚目に、出頭方法があった。
『指定窓口への来訪、または本人認証済み端末による遠隔聴取への接続』
遠隔聴取を選べば、この部屋から出なくていい。
移動を止め、決済を止め、宿泊を止めてから、出頭方法だけは二つ用意する。
選択の自由は、選べない理由を本人の事情にするために残されている。
「つなげばいい」
「つなぐつもりだ」
「なら、どうして電話で黙ったの」
父は紙を机へ置いた。
「あの着信の直前に、聴取項目の事前通知が来た」
父のスマートフォンに、質問が五つ並んでいた。
『初期検証報告を第三者へ提供した事実を認めますか』
『監査官制度廃止法案の審議遅延を意図しましたか』
『九条灯に公開差戻し申立てを行うよう指示しましたか』
『星名文子その他の者と連携しましたか』
『今後も同種行為を継続する意思がありますか』
はいか、いいえ。
補足は各百字以内。
事情を聴くというより、事情を入れる欄の形が先に決まっていた。
「三つ目」
私は言った。
「ああ」
「私への指示を確認したい」
「私が指示したと答える」
私は父を見た。
「してないでしょう」
「署名権限を失った監査官は止める側ではない、と言った」
「感想です。命令じゃない」
「お前の行動に影響した」
「親が娘に影響したら共同正犯になる国でしたか」
「私が指示したことにすれば、お前の妨害意図評価は下がる」
「代わりに、あなたが上がる」
「私はすでに高い」
社会信用スコアを、使い切れないポイントのように言う。
父は昔から、自分の損失を計算へ入れるのが下手だった。
他人の損失を計算する制度を作った人間としては、致命的な欠陥である。
「父さんが虚偽を答えれば、それも記録される」
「証明はできない」
「私が否定する」
「お前は聴取対象ではない」
「明朝にはなる」
父が黙った。
机の上の時計は二十二時十九分。
期限までは一時間四十分ある。
私は通知書を最初から読み直した。
父は急かさなかった。
十三話前なら、一行ずつ読む私を見て、もっと速く読めと言っただろう。今は、速く読ませることも制度の一部だと知っている。
一枚目。
二枚目。
三枚目は、個人情報の利用範囲だった。
『聴取内容は、対象者の予測評価、関連人物の適格性評価、司法政策への影響分析および制度改善に利用されます』
関連人物。
私だ。
次の行。
『回答しないことのみを理由として、不利益な評価を行いません』
その下に脚注があった。
『ただし、回答拒否から推定される非協力性は、将来行動予測の入力値となります』
答えなくても不利益にはしない。
答えなかった人間に似ている者が、その後何をしたかは使う。
言葉を守りながら、人を守らない文章だった。
四枚目には、遠隔聴取への接続手順と、異議申立ての案内がある。
『既に国会、裁判所その他の外部機関へ提出済みの公益目的資料に関する行為は、提出時刻を証明することで、本聴取の対象から分離できます』
私はそこで指を止めた。
「初期検証報告を国会へ出したのは、今朝八時台」
「八時四十三分に受領された」
「司法手続妨害予測の登録は?」
「お前が四十七件を送信したあとだ」
「なら、資料提供は分離できる」
「星名さんへの提供は国会提出前だ」
「何を渡したの」
「端末不能時の即時確認申立てに関する意見書。初期検証報告ではない」
「聴取項目は『初期検証報告を第三者へ提供した事実』」
父は質問を読み直した。
事実を尋ねているように見える。
だが、いつ提供したかとは書いていない。
国会提出後、資料は公開リンクになった。父がそのリンクを三枝と山辺と星名へ送っていても、それは公開資料の共有だ。
「受領記録を添付して、対象分離を申請する」
「それで初期検証報告の件は外れる」
「残るのは、私への指示と、星名さんとの連携」
私は遠隔聴取画面を開いた。
父の端末なのに、私の同席を検知したという表示が出た。位置情報、近距離通信、室内の音声。人間が誰といるかを知るのに、壁を透かす技術は要らない。
『関係者の同席を確認しました』
『同席者 九条灯』
『同席者は任意に事実訂正を提出できます』
「対象ではない人間にも入力欄がある」
「制度は親切だからな」
「父さんに似てきましたね」
「お前が似たんだ」
否定しにくい悪口だった。
父は国会の受領記録を添付した。
『対象分離申請を受理しました』
『初期検証報告の提供行為について、司法手続妨害評価から除外します』
一つ目の質問が消えた。
次に、父は二つ目へ答えた。
『審議遅延を意図しましたか』
「いいえ」
補足欄。
『目的関数および精度指標の定義を審議資料へ含めることを意図した。審議の遅延または停止は目的ではなく、判断資料の欠落を補う結果である』
百字以内でも、父の文章は愛想がない。
四つ目。
『星名文子その他の者と連携しましたか』
「はい」
『適法な申立手続および公開資料の所在を伝達した。裁定妨害、虚偽申立て、通信妨害その他の違法行為を相談した事実はない』
五つ目。
『今後も同種行為を継続する意思がありますか』
「はい」
私は父を見た。
「そこは迷わないの」
「公益資料の提出をやめる意思はない」
「継続意思、反省不足、規範軽視」
「鮎川さんと同じか」
「予測としては」
「なら正しい」
「正しい予測は、間違った処分の免罪符じゃない」
最後に三つ目が残った。
『九条灯に公開差戻し申立てを行うよう指示しましたか』
父の指が「はい」の上へ動いた。
私は先に、自分の端末で事実訂正を開いた。
『九条玲司から公開差戻し申立ての指示は受けていない。対象四十七件を選択し、警告を確認し、送信した判断は九条灯が独立して行った』
送信。
父の画面から「はい」が消えた。
『同席者から相反する事実訂正が提出されました』
「取り消せ」
「公開ログです」
「お前の明日の審査に使われる」
「使うと書いてありました」
「分かっていて、なぜ」
「父さんが作った制度だから、父さん一人に責任を戻せば済むとは思っていません」
父は何も言わなかった。
私は続けた。
「私も二十万件、承認した」
「形式署名だ」
「形式なら、しても責任がない?」
「そうではない」
「なら、父さんも私の責任を奪わないで」
娘らしい言い方ではなかった。
けれど、私たちは親子の会話より先に、責任の分配を覚えてしまった。
父は三つ目に「いいえ」と答えた。
『九条灯の判断に影響する発言はしたが、具体的行為を指示していない』
送信時刻は二十二時四十八分。
遠隔聴取の画面に、処理中の表示が出た。
人間なら、あの回答を読んで何を思うだろう。
反省していない。
責任を逃れている。
娘をかばっている。
あるいは、事実を述べているだけ。
テミスは思わない。
過去の類似回答と、その後の行動を比較する。
三分後、評価結果が届いた。
『初期検証報告の提供は、先行する国会提出により公益資料共有として分離する』
『星名文子らとの連絡は、適法な手続案内の範囲を超えた事実を確認できない』
『九条灯の公開差戻し申立てについて、対象者による具体的指示を確認できない』
『出頭義務 履行』
『追加の決済・通信制限 なし』
父は今夜、連れていかれない。
誰も連れに来る予定などなかった。
行かなければ、自分で移動できなくなるだけだった。
一件は終わった。
九条玲司は、司法手続妨害の事情聴取へ出頭し、出頭した場所から一歩も動かなかった。
画面の最下部に、判断根拠の要約があった。
私は一行ずつ読んだ。
『対象者の将来影響力 限定的』
『公的信用 低』
『決済・移動制限による追加抑止効果 低』
『関係者九条灯への波及影響 高』
『九条灯の自律的異議申立て傾向を再評価する』
父を罰しなかったのは、無実だと理解したからではない。
父を締めつけても、もう多くは失わせられないからだ。
代わりに、失うものが残っている私を評価する。
「最初から、私の審査だった」
父が私の画面を見た。
続きがあった。
『再評価参照資料 量刑監査官・九条灯の全承認履歴』
『対象件数 二十万一千八百六十四件』
『利用目的 人的監査が許容した権利侵害水準の推定』
私はその一行を、読み直した。
テミスの目的関数は、人間の行動から学習している。
投票。購買。納税。介護。通報。見て見ぬふり。
そして、監査官の署名。
私が承認した判決は、処理を確定しただけではなかった。
人間ならここまで許す、という正解例になっていた。
二十万回、私はテミスに教えた。
この程度なら読んでも承認する。
この程度なら人間は耐える。
この程度の権利侵害は、社会コストより安い。
父が最初の命令を書いた。
その後の六年間、私は答え合わせを続けた。
時刻は二十三時七分。
明朝九時の適格性審査まで、九時間五十三分。
私は審査用の弁明画面を閉じた。
代わりに、『全承認履歴の自己監査請求』を開く。
確認事項は一つだった。
『過去の承認が目的関数の学習に利用された場合、関連する全裁定の再検証を求めますか』
父が止める前に、私は「求める」を押した。
画面に処理件数が表示された。
二十万一千八百六十四件。
二十万件が読み直されれば、九十九・四パーセントはもう立法事実には使えない。廃止の根拠が、内側から溶けていく。
明日の審査で守るべきものは、私の職ではなくなった。
(第19話へ続く)




