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異議を配る人

 私は確認ボタンを押した。


 ためらいがなかったわけではない。


 ためらっている時間が、あと九分しかなかっただけだ。


『公開差戻し申立てを送信しました』


『対象件数 四十七件』


『申立人 九条灯』


『付随処理を開始します』


 付随処理。


 人間の人生を壊す処理には、たいてい穏やかな名前がつく。


 画面が更新された。


『司法手続妨害予測対象への登録が完了しました』


『社会信用区分を再審査中です』


『決済事業者および契約事業者へ適格性情報を連携します』


 環の端末が一秒遅れて鳴った。


「灯との共同業務について、注意通知」


「仕事が早い」


「そこ、感心するところ?」


「遅いよりは、仕様に忠実」


 父との通話はまだつながっていた。


『押したのか』


「押した」


『馬鹿だな』


「遺伝なら諦めて」


 軽口を交わせる状況ではなかった。それでも軽口は出た。人間は追い詰められると本音を言うとは限らない。どうでもいいことを言って、本音の居場所を守ることもある。


 四十七件の一覧に、黄色い帯が重なった。


『申立人の権限が停止中のため、差戻し効は認められません』


『公開意見として記録します』


『自動承認処理は継続します』


 予想どおりだった。


 予想どおりという言葉は、失敗した人間がもっとも安く買える慰めだ。


 最初の案件まで、八分二十三秒。


 私は先頭の判決文を開いた。


 権限があったときには読めなかった一件だ。


『対象者 星名文子』


『年齢 六十七歳』


『職業 無職』


『元職 地方裁判所事務官』


『予測行為 司法手続の組織的妨害』


『推定実行時期 七日以内』


『推奨措置 決済上限の引下げ、広域移動予約の制限、出頭要請』


『本人未実行(予測値による)』


 六年前なら、私は最後の一行を脚注として処理した。


 今はそこから読む。


 星名文子は、過去三週間で四十六人に封書を送っていた。中身は、端末不能時の即時確認申立書。生活信用を落とされ、通信契約や決済手段を制限された人間に、紙の異議申立て方法を教えていた。


 テミスはそれを、予防措置の実効性を低下させる組織的活動と評価した。


 法律で認められた申立てを教えることが、司法手続の妨害になる。


 制度は異議を用意している。


 ただし、使われることまでは想定していない。


「四十七件って」


 環が一覧を見比べた。


「星名さんと、送付先の四十六人」


 そのとおりだった。


 星名文子が首謀者。


 紙を受け取った四十六人が、協力者。


 テミスは一つの封筒から四十七件の将来犯罪を作っていた。


「山辺に送る」


「公開前に自動承認される」


「じゃあ本人」


 私は星名の連絡先を開こうとした。


『監査権限停止中のため、対象者情報へのアクセスは制限されています』


 画面に灰色の覆いがかかる。


 名前と年齢と予測行為は読める。住所も電話番号も読めない。


 人間を裁くには十分で、助けるには足りない情報だった。


 環が自分の端末を操作した。


「私なら開ける」


「共同関与にされるよ」


「もう注意通知は来てる」


「注意と実行は違う」


「本人未実行なら安全なんでしょう?」


 環の声には、怒りよりも乾いたものが混じっていた。


 かつて彼女は、テミスは公平だと言った。


 今も、その言葉を撤回してはいない。


 信頼は、疑いを持たないことではない。疑ったあともなお、正しさを要求することなのかもしれなかった。


 環が番号を読み上げ、私が庁内電話からかけた。


 三回目の呼出音で、女性が出た。


『はい、星名です』


「司法最適化庁、量刑監査局の九条です」


 一秒、沈黙があった。


『九条玲司さんの?』


 私の指が止まった。


「娘です」


『そうですか。声は似ていませんね』


「よく言われます」


 初めて言われた。


 残り六分四十一秒。


「星名さんに、司法手続妨害の予防裁定が出ています。承認期限まで六分です」


『やはり来ましたか』


「知っていたんですか」


『知っていたというより、数えていました。四十通を越えた頃から、相談先の推薦表示から私の名前が消えましたから』


 検索や相談窓口の推薦順位が下がる。


 電話はつながる。郵便も届く。逮捕もされない。


 ただ、助けを求める人の目に入らなくなる。


 武器を持たない暴力は、悲鳴を上げさせないのが得意だった。


「送ったのは即時確認申立書ですね」


『書き方の見本もです。欄を一つ空けると補正で三日かかる。その三日で携帯を止められた人を見ました』


「受取人同士を組織しましたか」


『いいえ。顔も知りません』


「費用は?」


『切手代は私が出しました』


「誰かから名簿を受け取った?」


『相談センターの掲示板に、紙の手続を希望する人が自分で連絡先を載せていました。私は一人ずつ確認して送りました』


 遠野のいる相談センターだ。


 掲示板への掲載は合法。申立書の郵送も合法。受領も合法。


 合法な行為が一定数集まると、将来の違法行為として評価される。


 雨粒は無罪でも、洪水には責任があるらしい。


「郵送記録はありますか」


『全部、特定記録です。控えもあります』


「最初の発送日は?」


『今月四日』


 私は判決文の根拠データを一行ずつ戻った。


『組織形成推定開始日 七月十一日』


『初回関連行動検知 七月十二日』


『複数対象者による類似申立書取得を確認』


 おかしい。


「環。受取人の案件、予測開始日を見て」


 環が四十六件を絞り込んだ。


「いちばん早い人で十一日。あとは十二日から十九日」


「星名さんが送ったのは四日」


「予測より前」


 星名が申立書を送ったから、四十六人が同じ様式を持っていた。


 テミスは同じ様式を持つ人間を関連集団と判定し、その集団に申立書を配る行為を、組織化の兆候として星名へ戻した。


 原因が結果を作り、結果が原因の危険性を証明している。


 鏡を二枚向かい合わせれば、人数は簡単に増える。


 残り四分五十二秒。


「星名さん。最初の郵便物の控えを、紙の即時確認申立てに添付できますか」


『もう添付しました』


「どこへ?」


『東京地方裁判所の夜間受付です。三十分前に』


 私は思わず時計を見た。


「予防裁定が届く前に?」


『推薦表示から消された時点で、裁定は来ると思いました。あなたのお父さまに教わったんです。通知は判断の始まりではなく、処理の終わりだと』


 父が電話の向こうで息を止めた。


 星名は続けた。


『だから、通知を待たずに出しました』


 裁定前の異議申立て。


 対象となる処分が存在しない段階では、通常なら却下される。


 だが、予防的信用制限は形式上、裁判ではない。行政連携上の適格性再調整として、対象者が不利益発生を合理的に予見できれば、事前の確認申立てが可能だった。


 制度を作った側が、誰も使わないと思って残した細い穴だ。


「受付番号を」


 星名が十二桁の番号を読み上げた。


 環が照会する。


「ある。受付時刻、二十時四十一分。原本確認済み」


 最初の自動承認まで、三分十四秒。


 私は公開差戻し画面へ戻った。


 権限はない。


 差戻し効もない。


 けれど、公開意見には二百字を書ける。


『四十七件は同一証拠を循環参照している。星名による適法な書面送付を根拠に受取人間の組織性を推定し、推定された組織性を星名の妨害意図の根拠としている。裁定前に受理された即時確認申立て、受付番号――』


 百六十八字。


 残りの字数で、私は父の初期検証報告の頁を記した。


『人的監査による介入変更例は別群として保存される。自動承認は本件を成功例に算入し、誤りを不可視化する』


 二百字。


 送信した。


『公開意見を受理しました』


『自動承認処理は継続します』


 残り二分二十七秒。


 佐伯管理官が執務室へ入ってきた。


 走ってはいなかった。管理職は、部下の人生が二分で決まるときも歩くよう訓練されている。


「九条。端末から離れろ」


「権限はありません」


「なら、なおさらだ。対象者への連絡も確認した。以後は司法手続への直接介入と評価される」


「合法な申立ての案内です」


「評価を決めるのは君じゃない」


「前からそうでしたね」


 佐伯の端末に、私の公開意見が表示されていた。


「四十七件を一括で扱えば、個別事情を無視したと批判される。個別に扱えば、最初の案件はあと一分で承認される。よくできた時間の使い方だ」


「褒めても何も出ません」


「皮肉だ」


「知っています」


 佐伯は私の画面を見た。


 星名文子。


 残り五十八秒。


「停止命令は出せない」


「管理官でも?」


「テミスの裁定処理に、管理職の裁量停止権はない。政治介入を防ぐためだ」


「人間の介入を全部、政治と呼べば便利ですね」


 四十秒。


 環が小さく言った。


「受付番号の照合、終わった」


 画面が切り替わる。


『外部司法手続との競合を検知しました』


『先行申立ての受理時刻を確認しています』


 十五秒。


 数字は止まらない。


 十。


 九。


 八。


 私は一行ずつ読んだ。


『先行申立て 有効』


『争点 予測根拠の循環性』


『自動承認による取消可能性 高』


『想定追加行政コスト 四十七件分』


 そこで数字が消えた。


『裁定処理を保留しました』


『関連四十六件について共通原因審査を開始します』


 星名文子の決済上限は下がらなかった。


 広域移動予約も制限されない。


 四十六人の通信も口座も、今夜は凍結されない。


 正しさが勝ったわけではない。


 四十七件を承認して、あとで四十七件を取り消す費用が高いと判断されただけだ。


 テミスは人権に納得しなかった。


 計算をやり直した。


 それでも、人間の明日が残るなら、動機にまで潔白を求めるのは贅沢なのかもしれない。


『助かりましたか』


 電話の向こうで星名が訊いた。


「保留です」


『それは、助かったとは言わない?』


「この国では、かなり近い言葉です」


 星名は短く息を吐いた。


『では、次の人に申立書を送ります』


「やめろとは言いません。でも、また予測対象になります」


『なら、次は五十通送る前に出します』


 通話が切れた。


 一件は終わった。


 星名文子は、異議を配ることをやめなかった。


 私も、異議を出した結果を受け取る番だった。


 スマートフォンの決済アプリが順に通知を出した。


『後払い利用枠を一時停止しました』


『賃貸保証契約の適格性を再確認します』


『交通系決済への自動入金を停止しました』


 庁舎から追い出されはしない。


 帰るための支払いだけが、少しずつ難しくなる。


 佐伯が言った。


「九条。明朝九時、適格性審査だ。出頭通知は後で届く」


「欠席したら?」


「君が読んできた判決文に書いてある」


 よく知っていた。


 出頭しなければ、非協力性が加点される。協力すれば、妨害意図について自分で説明し、その説明が新しい予測材料になる。


 黙っても話しても、入力値にはなる。


 父との通話を確認すると、まだつながっていた。


「父さん」


『四十七件は止まったか』


「保留。あなたの古い知り合いのおかげで」


『星名さんは、書面の日付を信じる人だ』


「私より?」


『お前は一行を信じる。あの人は、受領印を信じる』


 そのとき、父の向こうで玄関チャイムが鳴った。


 一度。


 間を置いて、もう一度。


 父は何も言わなかった。


 代わりに、私の画面へ出頭通知が届いた。


『司法手続妨害予測に関する事情聴取』


『出頭対象者 九条玲司』


『出頭期限 本日二十三時五十九分』


『死亡登録を理由とする欠席は認められません』


 時計は、二十一時十七分だった。


 死者として隠れてきた父に、あと二時間四十二分で出頭しろという。


 私は鞄をつかみ、佐伯の制止より先に執務室を出た。


 明朝の自分の審査へ行けば、監査官に戻れる可能性がある。


 今夜、父のもとへ行けば、私自身が妨害予測の正解になる。


 エレベーターの閉ボタンを押しながら、私は初めて、判決文ではなく行き先を選んだ。


 司法AIが私の次の行動をもう知っているのなら――その予測を外すために、私は父を見捨てられるのか。


(第18話へ続く)

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