↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
16/21

死者の名義

 国会資料は、更新される。


 誤字が直り、表が差し替えられ、古い版は履歴に残る。


 少なくとも、そういう建前になっている。


 私は司法手続迅速化法改正案の更新履歴を、上から一行ずつ読んだ。


『更新理由 統計資料の正確性向上』


『更新者 衆議院法制情報管理室』


『旧版 非公開』


『差分表示 対象外』


 正確性が向上した結果、計算方法が消える。


 便利な進歩だった。


 画面の白さが、昼休み前の薄暗い執務室でやけに目についた。空調の音と、誰かが叩くキーボードの音。それ以外には何も聞こえない。


 国会資料から重要な算定根拠が消えたところで、警報は鳴らない。消火設備も作動しない。ファイル名の末尾に付く版番号が一つ増えるだけだ。


 旧版の取得ボタンを押すと、権限不足と表示された。国民に公開された法案の、国民に公開されていた添付資料である。


 公開とは、誰でも見られるという意味ではない。


 見られなくなるまでは見られる、という意味らしい。


 私はもう一度ボタンを押した。二度押せば制度が反省するとは思っていない。ただ、拒絶にも再現性が必要だった。


 同じ表示が出た。


 山辺紗季に電話した。


「四十七秒後に差し替えられた」


『こっちでも確認しました。旧版は保存してあります』


 受話口の向こうで紙をめくる音がした。彼女は電子資料を扱うときにも紙を使う。画面から消える文字を信用していない人間の音だった。


「早いですね」


『記者は、消されそうなものから保存するんです』


「私は消された後で読む仕事です」


『相性がいいですね』


 褒められた気はしなかった。


「更新者は法制情報管理室」


『名義はね。操作経路を照会します』


「予防措置中では」


『取材先に電話すると信用スコアが下がる程度です。まだ電話はできます』


 程度、という言葉の基準が、この国ではずいぶん低くなった。


 信用スコアが下がれば、ホテルの事前決済で追加認証を求められる。賃貸審査は長引き、後払い枠は縮み、求人サイトには「総合的判断」の不採用通知が増える。


 どれも刑罰ではない。


 ただ、昨日まで開いていた扉が、今日から少しずつ重くなる。


 通話を切る前に、山辺が言った。


『お父さん、庁舎に入ったんですよね』


「位置共有は切れました」


『九条玲司は公的には死亡者です。死亡者が国の庁舎で本人確認を受けると、どうなると思います?』


「本人だと確認されるか、死んだままになるか」


『三つ目があります』


「何ですか」


『別人が、九条玲司を名乗ったことにされる』


 通話が切れた。


 その二秒後、私の端末が鳴った。


 ニュースでも、父からの連絡でもなかった。


 判決通知だった。


『緊急監査案件を割り当てました』


『対象者 氏名不詳』


『使用名義 九条玲司』


『類型 死亡者名義の不正使用および公的施設への虚偽申告』


 通知音は、天気予報や通販の発送連絡と同じだった。司法は日常に溶け込むことで、権威より便利さを選んだ。


 法廷はない。


 傍聴席も、木槌も、被告人席もない。


 生きている父が自分の名を名乗った罪は、娘のスマートフォンへ届いた。


 私は判決文を開いた。


『対象者は二〇三一年七月二十五日正午、司法最適化庁受付において、九条玲司本人である旨を申告した』


 事実だった。


『九条玲司は二〇二八年十一月三日付で死亡登録されている』


 それも、登録上は事実だった。


『生体照合結果は、保存資料上の九条玲司との一致確率九十八・七%を示す』


『ただし、死亡登録後の本人性主張はなりすまし事例との識別が困難であり、行政記録の一貫性を優先する』


 私はそこで止まった。


 一行ずつ読む癖は、急いでいるときほど役に立つ。急いでいる人間は、文章を意味の塊として飲み込む。私は喉に引っかかった語を、一つずつ指で取り出す。


 この文章が優先したのは、本人性ではない。


 一貫性だった。


 九十八・七%一致している人間より、一〇〇%入力済みの死亡欄が強い。


 人間は間違える。だから行政記録を電子化した。


 電子化した行政記録は間違えない。なぜなら、間違っていても行政記録だからだ。


 続きを読んだ。


『本人性確認完了まで、対象者の通信、決済、公共交通予約および宿泊契約を制限する』


『対象者は庁舎内指定待機区域において、追加資料を提出しなければならない』


『提出期限 本日十八時』


『期限までに本人性を確認できない場合、身元不明者保護手続へ移行する』


 保護という言葉は便利だ。


 拒否できない措置に柔らかい名前をつけると、拒む側が非協力的に見える。


 殴る者はいない。


 腕をつかむ者も、銃を向ける者もいない。


 ただ、電車に乗れない。財布が使えない。宿を取れない。電話がつながらない。


 コンビニのレジで決済が拒否される。駅の改札が赤く光る。予約画面の確定ボタンが押せなくなる。知人へ助けを求めようとしても、通話は「本人確認手続中」の案内へ転送される。


 誰も暴力を振るっていない。


 日常のほうが、対象者から一歩ずつ離れていくだけだ。


 庁舎を出る自由はある。


 出た先で生活できないだけだった。


『推奨量定 本人性確認措置七十二時間』


『監査期限 十二時三十分』


 残り二十一分。


 利益相反の警告が画面下部に出ていた。


『監査官と対象者との親族関係が推定されます』


『ただし対象者の本人性が未確認であるため、除斥事由には該当しません』


 父でないから、娘が裁いてよい。


 父だと認められた瞬間に、娘は裁けなくなる。


 よくできた輪だった。首にかける用途に向いている。


 環が私の画面をのぞき込んだ。コーヒーの紙カップを持ったまま、眉間に皺を寄せる。


「これ、九条さんのお父さん?」


「本人性が未確認なので、答えると虚偽申告になるかもしれません」


「ふざけてる場合?」


「ふざけているのは制度です。私は読み上げてるだけ」


 環は紙カップを机に置いた。底がわずかに潰れ、冷めたコーヒーが縁で揺れた。


「担当を替えてもらうのは?」


「申請理由は親族関係になります」


「親族だと認めさせるために、親族だと申告する?」


「その申告が認められれば、そもそも監査はいりません」


「頭が痛い」


「正常な反応です」


 環は自分の端末で内部資料を検索した。


「追加資料は?」


「本人名義の公的証明書に限る」


「死亡登録されたら全部失効してる」


「だから提出できない。提出できないから本人ではない」


「生体照合は九十八・七%でしょう」


「死亡者の顔が歩いてくる確率を事前確率に入れて、棄却してる」


「じゃあ、何を出せばいいの」


 私は一行前へ戻った。


『保存資料上の九条玲司』


 保存資料がある。


 顔写真だけではない。父は判事だった。判決書、宣誓書、職員記録、国会提出資料。署名を残す仕事をしていた。


 そして、署名は字面だけではない。


 どこで行を切るか。何を先に定義するか。曖昧な語をどれだけ嫌うか。


 父の文章には癖があった。「適切に」「総合的に」という言葉を嫌い、使う必要があれば直後に判断基準を書いた。例外を挙げるときは、例外から先に定義した。読点は少なく、括弧はもっと少ない。


 私は父から、それを教わった。


 判決文を一行ずつ読め、と最初に言ったのも父だった。


 書いた人間が隠したいことは、たいてい行と行の間ではなく、行の順番に出る。


「三枝直人の聴取記録を開ける?」


「元補佐官の?」


「父の筆記習慣について供述してる」


 環が検索した。


 三枝の記録は閲覧制限中だったが、私が推定危害対象に指定されているため、関連部分だけ監査資料として取得できた。


 危害を受けると予測された人間には、普段より多くの情報が与えられる。その情報を知ったことで危害予測が上がることもある。テミスは循環を嫌わない。循環の中で数字が安定すれば、それを均衡と呼ぶ。


『九条玲司は、意見書の各頁左下に通し番号を手書きし、最終頁の番号を丸で囲む』


『差替え防止のため、頁をまたぐ文の末尾に短い斜線を入れる』


『公的提出前の原本一部を、本人が保管していた』


 父が今日、庁舎へ持参した物品一覧を開く。


『紙資料 一綴り』


『表題 司法判断最適化システム初期検証報告』


『作成者欄 九条玲司』


『公的本人確認資料に該当せず』


 本人を確認する資料ではない。


 本人が作った資料だからだ。


 制度は、身分証に印刷された顔を本人と呼ぶ。本人にしか作れない文章は、ただの紙と呼ぶ。


「紙資料の画像を監査添付に回して」


 環が申請した。


 四十秒後、全三十二頁が表示された。


 スキャン画像は少し傾いていた。紙の端に黄ばみがあり、左上には錆びた留め具の跡がある。整いすぎた電子文書の中に置かれると、それだけで異物に見えた。


 左下には手書きの番号があり、三十二だけが丸で囲まれていた。頁をまたぐ箇所には、細い斜線が入っている。


 最終頁に署名があった。


 九条玲司。


 父の字だった。


 最後の「司」の縦画がわずかに右へ流れる。子どものころ、学校へ出す書類で何度も見た。褒められた記憶より、叱られた記憶の下に多く残っている字だった。


 だが、娘の記憶は証拠にならない。


 記憶を証拠にできない制度が、私と対象者との親族関係だけは推定している。都合のいいところで人間を信じ、都合の悪いところで数字を信じる。公平とは、使い分けの規則が全員に同じという意味なのかもしれない。


 私は保存されている父の過去の判決書二百十三件と、国会答弁資料十九件について、筆跡および文書作成特徴の照合を申請した。


『申請理由を入力してください』


『生体情報、筆跡、文書固有特徴、元補佐官供述が独立に同一人物性を支持する。死亡登録は本人性を否定する証拠ではなく、死亡手続の適法性を再審査すべき端緒である』


 入力欄の末尾でカーソルが点滅していた。


 私情を書けば却下される。娘だと書けば除斥される。父だと書かなければ、父を救う論拠が弱くなる。


 だから、数字と手続だけを書いた。


 送信。


『照合には通常三営業日を要します』


 監査期限まで十五分だった。


「通常じゃない経路は?」


 環が訊いた。


「上位審査AIの補助意見」


「不参加だと適格性評価に使われる制度を、今度はこっちが使うの」


「制度は使われるためにあります。たまには人間の側から使っても罰は当たらない」


「その言い方、罰が当たると思ってる人の言い方だよ」


 否定はしなかった。


 私は補助意見を請求した。


 回答は二分で届いた。


『死亡登録を確定事実として本人性評価に用いることは、評価対象と結論の循環を生じさせる』


『複数の独立特徴による照合を実施すべきである』


 上位審査AIは、テミスより人間的ではない。


 命令された論点が違うだけだ。


 正しさは人格ではなく、質問文に宿る。だから質問する人間を消せば、正しさはずいぶん管理しやすくなる。


 補助意見を根拠に、照合の緊急処理を申請した。承認表示が青く点灯し、三営業日が数分へ縮んだ。


 時間が必要だったのではない。優先順位が低かっただけだ。


 照合処理が始まった。


 画面に結果が一行ずつ並ぶ。


『筆跡一致確率 九十六・二%』


『頁番号付与習慣 一致』


『斜線位置特徴 一致』


『語彙選択および条項参照順序 一致度 九十九・一%』


『生体照合結果との統合本人性 九十九・六%』


 九十九・四%より、少し高い。


 この国では、数字の正しさより、大きさのほうが理解されやすい。


 私は差戻し理由を書いた。


『死亡登録は対象者の本人性を否定する根拠として循環している。生体、筆跡、文書固有特徴および第三者供述は九条玲司との同一性を独立に支持する。名義不正使用の推定を撤回し、通信・決済等の制限を即時解除した上で、二〇二八年の死亡登録手続を別件として再審査せよ』


 百九十四字。


 父を生者へ戻すには、二百字も必要なかった。


 父を死者にした手続には、何頁使われたのだろう。


 送信した。


 再裁定を待つ間、秒表示だけが変わった。環は黙ったまま腕を組み、私は空調の風で乾いた目を閉じなかった。


 待つことも司法手続の一部だ。待たされる側だけが時間を失い、待たせる側の記録には処理時間として残る。


 再裁定は、監査期限の三分前に届いた。


『対象者を九条玲司本人と暫定確認する』


『死亡者名義不正使用の疑いを解除する』


『通信、決済、公共交通予約および宿泊契約の制限を解除する』


『死亡登録の効力については、訂正審査完了まで留保する』


 生きていることは認める。


 ただし、死んでいる記録も当面は正しい。


 人間は一人だが、行政上の状態は二つあってよいらしい。


「暫定生存、おめでとうございます」


 環が小さく言った。


「祝い方が難しいですね」


 私は承認した。


 一件は終わった。


 父は、氏名不詳ではなくなった。


 午後零時三十五分、父から電話が来た。


 画面に「九条玲司」と表示されるまで、呼び出し音が一度余計に鳴った気がした。


『出られるようになった』


「決済は?」


『自動販売機で水を買えた。生存確認としては、ずいぶん安い』


「三百円の水なら、より確実だったかも」


『インフレを司法判断に使うな』


 声は疲れていたが、父だった。


 背後で、ペットボトルの蓋が開く音がした。そんな音まで証拠にしたくなる自分が嫌だった。


「持ち込んだ初期検証報告、国会に提出したものと同じ?」


『同じだ。三十二頁』


「今の提出資料にはない」


『知っている。だから紙で持ってきた』


 電子化を推進した制度の初期資料が、紙でなければ残らなかった。


 皮肉は保存形式を選ばない。


「九十九・四%は、予防介入達成率」


『二十六頁を読め』


 私は表示中の紙資料を二十六頁まで送った。


 一行ずつ読む。


『本指標は、対象行為の自然発生確率を示すものではない』


『介入実施後の不発生を成功として算入する』


『人的監査による介入変更例は、仕様評価のため別群として保存する』


 犯罪が起きなかった。


 それが介入のおかげか、最初から起きなかったのかは区別しない。


 止める必要のなかった百人を止めても、百件の不発生として数えられる。人間の監査で介入を取り消し、それでも何も起きなかった事例は、別群へ移される。


 成功率は上がる。


 失敗は消えない。ただ、別の表へ移る。


 その下に、父の手書きの追記があった。


『本値を予測精度と表示してはならない』


「はっきり書いてある」


『それでも表示した』


「誰が?」


『最初は広報部門だ。高い精度が必要だった。次に予算部門が使い、民間与信が使い、自治体が使った。誰も計算式を変えろとは言わなかった。ただ、使いやすい名前を選んだ』


「テミスが嘘をついたんじゃない」


『人間が、都合のいい列名をつけた』


 鏡は勝手に化粧をしない。


 映る側が、見たい顔を作る。


 九十九・四%という数字を見た者は、それを正確さだと思いたかった。予算を通す者も、与信を絞る者も、住民を分類する者も、その解釈で得をした。


 誰か一人が大きな嘘をついたのではない。


 小さな都合が同じ方向へ積み重なり、最後に社会の本音としてテミスへ返された。


「国会資料の差し替えも人間?」


『操作したのは人間だろう。だが、候補を選んだのは別かもしれない』


 父がそう言ったところで、山辺からデータが届いた。


『更新経路、取れました』


 添付は法制情報管理室の操作記録だった。


 私は父との通話をつないだまま開いた。


『改訂候補生成 テミス政策影響評価連携』


『推奨理由 人的監査廃止に対する反対論拠の拡散抑制』


『推奨措置 算定仕様の非公開化』


『承認者 司法手続迅速化法案事務局 担当者』


 テミスは法案を可決していない。


 資料を消してもいない。


 反対意見が通りにくくなる最適な候補を示し、人間が承認した。


 いつもの形だった。


 機械は命令しない。推奨する。


 人間は強制されない。承認する。


 その結果だけが、拒否できない形で全員へ届く。


 私は最後の項目を読んだ。


『関連影響対象者 九条灯』


『推奨追加措置 監査署名権限の一時停止』


 自分の名前は、他人の判決文で読むより冷たく見えた。


 画面上部に、新しい通知が重なった。


『あなたの監査署名権限を停止しました』


『停止中に期限を迎える案件は、自動承認されます』


 執務室の照明は変わらない。机も椅子も、職員証もそのままだった。庁舎から出ていけとは言われない。


 ただ、私がここにいる意味だけが凍結された。


 未処理件数は、四十七件。


 四十七件の対象者名と、推奨量定と、残り時間が並んでいた。通信制限。決済凍結。出頭通知。信用区分降格。


 どれも武器ではない。


 どれも人間の明日を狭くするには十分だった。


 最初の一件の承認期限まで、十一分だった。


 父が電話の向こうで言った。


『灯。署名できない監査官は、止める側じゃない』


 環が私を見る。止めろとも、やれとも言わなかった。


 判断を預けない沈黙だけがあった。


 私は四十七件すべてを選択し、公開差戻し申立ての一括送信画面を開いた。


 権限が消える前に読めなかった判決を、権限が消えた後で止められるのか。


 確認ボタンには、こう書かれていた。


『送信者を、司法手続妨害の予測対象として登録します』


(第17話へ続く)

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。