正解から除かれた少年
反対意見の入力欄は、白かった。
白い画面は親切だ。何を書いてもよさそうに見える。実際には、書ける文字数と、受け付ける論点と、読まれる順番が先に決まっている。
『意見本文 四百字以内』
『感情的表現、個別的事情のみを根拠とする意見は、要約処理の対象となる場合があります』
鮎川和夫の店と、三人の通院と、〇・七人の将来被害は、個別的事情に分類されるらしい。
人間は一人ずつ生きるが、制度は一人ずつの話を嫌う。
私は一文字も入力しないまま、欄を閉じた。
根拠が必要だった。
かわいそうだから残せ、では足りない。人間は間違えるが機械も間違える、でも弱い。そんなことは法案の提出者も知っている。知ったうえで、機械の間違いのほうが安定していると判断している。
監査官が読むことで、何が変わったのか。
鮎川の一件だけでは、例外と呼ばれる。
例外は、制度が間違った証拠にはならない。制度が寛容だった実績として回収される。
午前十時四十六分。
監査画面に、新しい通知が届いた。
『再評価請求案件を割り当てました』
『被審理者 三崎悠真』
私は、その名前を一行で読めなかった。
十七歳。コンビニでおにぎりと菓子パンと乾電池を盗んだ少年。母親の在宅酸素機器が止まることを恐れて、非常用の電池を持ち出した。
テミスは、彼が五年以内に重大暴力犯罪を行う確率を八七・三%と算定した。万引きの処分ではなく、まだ実行していない将来犯罪のために、二年の保護収容を命じた。
私が初めて承認ボタンを押さなかった案件だった。
押さなくても、期限が来れば自動承認された。
私が監査官である意味を失った一件であり、その意味を探し始めた一件でもある。
『再評価理由 収容後評価期間の満了』
収容から、まだ日は浅い。
だが、予測収容では初期段階で再評価が入る。本人の適応状況を確認するためではない。予測モデルの初期妥当性を検証するためだ。
人間は二年閉じ込められる。機械は二週間で成績表を受け取る。
裁定案を開いた。
『保護収容 継続』
『残存期間 一年十一か月十六日』
『施設内規則違反 なし』
『他害行為 なし』
『威嚇的言動 なし』
『指導参加率 百分の百』
『再評価後重大暴力犯罪予測 十二・一%』
八七・三%が、十二・一%まで下がっている。
それでも結論は継続だった。
『予測値の低下は、現行措置の有効性を示す』
一行ずつ読んだ。
収容したから危険度が下がった。
危険度が下がったから、収容は正しかった。
収容をやめれば環境要因が復帰するため、危険度が上がる可能性がある。
だから収容を続ける。
輪は、ここでもきれいに閉じていた。
鍵のない檻だ。論理だけでできている。
私は施設の連絡窓口へ通話を申請した。三崎本人との面談は、監査官権限なら十五分まで許可される。
四十秒後、画面に少年の顔が映った。
髪が短くなっていた。灰色の無地の服を着ている。背景は白い壁で、壁には面談中の録音と自然言語解析について同意済みであることを示す掲示があった。
同意しなければ面談できない同意は、よく育った同意だ。
『九条さんですか』
「覚えているの」
『異議申立てをした人の名前、通知に出てました』
「結果は知ってる?」
『二年のままです』
責める声ではなかった。
責められたほうが、まだ返す言葉があった。
「施設で問題を起こしていない」
『起こしたら延びるって言われたから』
「指導にも全部出ている」
『出なかったら反省してない数字になるんでしょう』
十七歳は、二週間で制度の文法を覚えていた。
学校の授業より、生活に必要だったのだろう。
「お母さんは」
少年の目が画面の下へ落ちた。
『病院です。俺がいなくなった次の日に、機械の管が外れて』
「容体は?」
『今は大丈夫です。退院したら、訪問の人が来ることになったって』
添付資料を確認した。
自治体の医療支援記録。夜間訪問看護、停電時予備電源、緊急連絡サービス。どれも収容後に承認されていた。
三崎が家にいたときは、息子が支えているから公的支援の優先度が低かった。
三崎を家から奪ったあとで、支援の必要性が認定された。
母親を支えたことが息子の危険因子になり、息子を収容したことが母親の支援要件になった。
制度は問題を解決していない。
家族の中に隠れていた負担を、二人の案件に分けただけだ。
「外へ出たら、何をしたい?」
『母さんのところに行きます』
「それから」
『店に謝る。盗った分は返す』
「学校は」
『行けるなら』
「また盗む可能性は?」
三崎はしばらく黙った。
面談画面の隅で、『応答遅延を検出』という表示が出た。沈黙にも評価項目がある。
『分かりません』
「分からない?」
『絶対しないって言えば、反省してるって出るんですよね。でも、また電気が止まって、母さんが苦しんで、金がなかったら、そのとき俺が何するかは分からないです』
正直だった。
そして、予測モデルにとって正直さは、しばしば反省不足と同じ形をしている。
『でも』
三崎は顔を上げた。
『先に役所へ連絡します。九条さんが出した申立てに、そう書いてあったから。困ったときに使える番号も、施設の人に教わりました』
私は記録を見た。
生活支援窓口の利用訓練。緊急食料支援。医療機器用電源費の減免。学校と福祉課の情報共有。
どれも、二年間閉じ込めなければ受けられない支援ではない。
むしろ、盗む前に届くべきものだった。
「盗んだことについて、処分を受ける必要はあると思う?」
『あります』
「まだしていない暴力については?」
『それも、謝ったほうがいいんですか』
「していないことは謝れない」
『じゃあ、俺は何のためにここにいるんですか』
十五分の面談時間が、残り二分を示していた。
私は答えなかった。
分からないからではない。
答えが判決文の中に書かれていないからだ。
「確認する。家へ戻った場合、訪問支援を受ける。学校と福祉課の面談に出る。盗んだ店へ被害弁償する。それなら守れる?」
『はい』
「約束じゃなくて、条件として聞いている」
『守れます』
「分かった」
通話終了の表示が出る直前、三崎が言った。
『九条さん』
「何」
『外に出て、俺が何もしなかったら』
音声が一度途切れた。
『テミスが間違ってたって、ちゃんと数えてくれますか』
通話が切れた。
白い壁だけが一秒残り、待機画面へ戻った。
私は予測精度の検証資料を開いた。
公称九十九・四%。
国会へ提出された改正案にも、監査官廃止の根拠として記載されている数字だ。
『予測高危険群に対する適中評価基準』
その下に、小さな参照リンクがあった。
普段の監査画面では表示されない。再評価案件にだけ添付される、内部向けの検証仕様書だった。
私は一行ずつ読んだ。
『対象行為が予防措置前に発生した場合 適中』
予測した犯罪が起きれば、当たり。
『対象行為が予防措置後に発生しなかった場合 介入成功として適中』
収容や信用制限の後で犯罪が起きなくても、当たり。
『監査差戻し、司法再評価その他の人的介入により当初措置が変更された案件 検証対象外』
人間が止めた案件は、分母から外れる。
犯罪が起きれば予測が当たった。
犯罪が起きなくても、予防が成功したから当たった。
予測を疑って外へ戻し、その人が犯罪をしなかった場合は、評価不能として数えない。
外れるための道だけが、最初から塞がれていた。
九十九・四%は予測精度ではない。
テミスの判断に従ったあと、大きな事故が起きなかった割合だ。
保険の宣伝なら、注意書きが必要になる数字だった。司法の宣伝には、国民の人生が注意書きとして使われている。
「環さん」
私は隣のブースへ声をかけた。
環は改正案を読んでいた。監査官制度がなくなれば、私だけでなく彼女の職もなくなる。それでも彼女は、必要なら仕方がないと言う人だ。自分の損失より制度の公平を信じられるのは、強さなのか、信仰なのか。私はまだ決められずにいる。
「この三行を読んで」
画面を共有した。
環はすぐには答えなかった。
上から読み、下へ戻り、もう一度二行目を読んだ。
「介入成功も、適中に含むの?」
「そう書いてある」
「でも、それは予測が当たったかどうかとは違うよ」
「私も日本語にまだ未練があって安心した」
「九十九・四って」
「外れを数えない精度」
環は自分の端末で公開統計を開いた。検証方法の説明には、『予防介入後の実績を含む総合的評価』としかない。
「嘘じゃない」
環は言った。
「そうね」
「でも、みんなが思ってる意味とも違う」
「それも、そう」
嘘ではない言葉だけで、人は十分に騙せる。
むしろ露骨な嘘より安全だ。訂正を求められたら、読まなかった側の責任にできる。
私は三崎の再裁定案へ戻った。
差戻し理由は二百字以内。
『再評価後予測値は十二・一%であり、継続理由は当初予測でなく現行措置の効果推定に置換されている。住環境・医療支援は既に確保され、万引きへの処分は在宅監督、被害弁償および就学支援で達成可能。本人未実行の重大犯罪を理由とする収容を解除せよ』
百八十七字。
環が画面を見ていた。
「差し戻したら、この案件も精度の分母から消える」
「らしいですね」
「九十九・四は下がらない」
「だから、別に数える」
私は差戻しを実行した。
公開ログに、九条灯の名前がまた増えた。
環は自分の端末を操作した。
「補助意見、つける」
「適格性評価に響くよ」
「知ってる」
「保険料も上がるかも」
「父の通院予約にも」
環はそこで指を止めた。
迷いはあった。
迷わない善人は、たぶん善人ではない。ただ結果を想像しない人だ。
環は送信した。
『補助監査官 環那智』
『当初予測の検証と現行措置の必要性判断が循環している。差戻しに同意する』
「テミスは公平だよ」
環は小さく言った。
私は彼女を見た。
「まだ言うんですか」
「公平であってほしいから、間違った数字を公平って呼びたくない」
それは信仰を捨てた言葉ではなかった。
信じるために、疑うことを選んだ言葉だった。
九分後、再裁定が届いた。
『保護収容を解除する』
『窃盗行為について、在宅監督六か月、被害弁償および月二回の生活支援面談を命ずる』
『母親の医療支援継続を、本人の同居または就労状況と切り離して審査する』
『付随信用措置 教育・医療・公共交通利用を除外』
私は一行ずつ読んだ。
無罪ではない。
おにぎりも、菓子パンも、乾電池も、盗んだ事実は消えない。店には弁償が必要で、三崎には支援面談へ出る義務が残る。
だが、まだしていない暴力について、二年を奪われることはなくなった。
私は承認欄に署名した。
『九条灯』
判決は、施設の職員から読み上げられなかった。
三崎の端末に、短い電子音とともに届いた。
十分後、メッセージが一件来た。
『店に返す金は、働いて払います』
その下に、もう一文あった。
『外で何もしなかった日を、自分で数えます』
一件は終わった。
私は三崎の検証仕様書と裁定ログを、改正案の反対意見に添付した。
四百字の本文には、感情を書かなかった。
『公称予測精度九十九・四%は、対象行為発生と予防措置後の不発生をともに適中とし、人的介入による措置変更案件を検証対象外とする。これは予測精度でなく介入後結果の達成率である。当該指標を人的監査廃止の立法事実とすることはできない。定義、分母、除外件数の公開まで審議を停止されたい』
送信した。
山辺紗季にも公開可能部分を送った。
午前十一時五十七分。
父の出頭期限まで、三分だった。
位置共有画面では、父を示す点が司法最適化庁の正面で止まっている。
「着いた?」
『着いた』
「三崎悠真を覚えてる?」
『お前が最初に止めた少年だ』
「今日、出した」
『そうか』
「九十九・四%の定義も見つけた。人的介入は分母から除外されてる」
父は数秒黙った。
『初期仕様では、その数字は予測精度と呼ばれていなかった』
「何て呼んでたの」
『予防介入達成率』
名前だけが変わった。
計算式を変えずに、国民が信じたくなる名前へ。
「資料は残ってる?」
『私が国会へ提出した中にある』
正午になった。
父を示す点が、庁舎の内側へ移動した。
直後、位置共有が切れた。
『対象者の通信は、本人確認手続完了まで制限されます』
父は出頭した。
逃げずに、自分が作った制度の中へ入った。
代わりに、国会情報から新しい通知が届いた。
『司法手続迅速化法改正案 提出資料を更新しました』
私は更新履歴を開いた。
添付されていた九十九・四%の根拠資料が、丸ごと差し替えられていた。
新しい脚注は一行だった。
『予測精度の算定方法は、制度安全上の理由により非公開とする』
そして、その改訂時刻は――私が反対意見を送信した、四十七秒後だった。
(第16話へ続く)




