〇・七人
父を生きていることにする手続は、午前九時二分に完了した。
人が生きていると認めるのに三年かかり、訂正するのに二分。行政の時間感覚は、死者にだけ寛大だ。
画面には、処理完了を示す青い輪が浮かんでいた。祝福には見えない。役所の画面は、人の生死に色をつけても、そこへ感情までは添えない。
端末に通知が三件並んだ。
『九条玲司氏の死亡記録を訂正しました』
『九条灯氏の本人性確認を完了しました』
『量刑監査権限を復旧しました』
一行ずつ読んだ。
父の生存と私の職権は、同じデータの表裏だった。父が死者として登録されていたため、その娘である私の本人性も疑われた。本人性を疑われた人間に、他人の人生を承認する権限は与えられない。
理屈は通っている。
理屈が通っていることと、人間が納得できることは、同じではない。
四件目は父宛ての処理通知だった。本人性が回復したため、過去三年間保留されていた予防的信用制限が再開されたという。
公的決済の停止。長距離移動券の購入制限。指定窓口への出頭義務。宿泊時の本人確認強化。
死亡中は停止され、生存が確認された瞬間に執行される。
生き返った祝いとしては、ずいぶん実用的だった。
「訂正した」
私は通話中の父に告げた。
『ああ。こちらにも来た』
父の声は平坦だった。端末の向こうには議員会館のざわめきがある。靴音、短い呼びかけ、扉の開閉。国家を動かす建物も、音だけ聞けば少し忙しい役所にすぎない。
「出頭期限は今日の正午」
『知っている』
「国会へ資料を出した直後に、司法最適化庁へ出頭。効率のいい見学コースね」
『私は効率を理由にした制度を作った。相応しい』
「反省は減刑理由になる。でも、自分で言うと評価が下がる」
父は短く息を吐いた。笑ったのか、疲れただけなのかは分からない。
『灯。私を裁くのは後にしろ』
「順番待ちをする被告人は珍しい」
『お前の端末に、もう次が来ている』
言われるまでもなかった。
復旧した監査画面の中央で、赤い数字が点滅していた。
『未処理裁定 一件』
停止前と同じ字体だった。椅子も机も同じで、窓の外では配送車が交差点を曲がっている。三年分の異常を挟んでも、仕事の画面だけは何事もなかったように私を待っていた。
六年間で約二十万件を読んだ。権限停止から戻って最初の一件が、偶然選ばれたとは思わない。
誰かが私に読ませたいのか。テミスが私の判断傾向を試しているのか。それとも、疑い深くなった私が、無作為に意味を見つけているだけか。
それでも私は開いた。
疑うべきなのは配られ方であって、書かれた人間ではない。
『被審理者 鮎川和夫 六十一歳』
『認定行為 無許可有償旅客運送 六件』
『受領総額 三千六百円』
『推奨処分 罰金十五万円』
『付随措置 商用決済受領資格停止二年、運転関連信用区分E、月次出頭確認』
三千六百円を受け取り、十五万円を払い、二年間は仕事の決済ができない。
算数としては赤字だった。刑罰はたいていそういうものだが、テミスの算数には別の答えがある。
『同種行為再発確率 九六・八%』
『将来重大事故関与予測 七年以内、一二・四%』
『予測危害人数 〇・七人』
〇・七人。
私はそこで指を止めた。
まだ傷ついていない人間は、小数で書ける。一人なら顔を想像してしまうが、〇・七人なら計算欄に収まる。助かる可能性が三割残った一人なのか、十人に分配された七割の傷なのか。数字は説明しない。
私は一行ずつ読んだ。
鮎川は多摩西部で食料品店を営んでいた。店は住宅地と古い団地の境にある。昨年まで地域の路線バスを運転していたが、利用者減少による減便の後、会社を退職した。
問題の六件は、自家用車で近隣住民を病院へ送った行為だった。
乗客は三人。いずれも七十代以上。
受領額は一回六百円。送金メモには、毎回同じ文言が残っていた。
『ガソリン・駐車場代』
六件とも、送迎を受けた側の端末から鮎川の個人口座へ送金されている。金額も時刻も、病院の予約記録と一致していた。現金なら親切で済んだかもしれない。だが、記録された親切は取引になる。
テミスはそれを対価と認定した。利益が出たかどうかではなく、運送と金銭の間に対応関係がある。法の読み方としては間違っていない。
法律は、善意でハンドルを握れば事故が避けてくれるとは書いていない。元バス運転手であっても、自家用車で客を運ぶための許可を持っていない事実は変わらない。
問題は次の行だった。
『被審理者は警告後も運送継続の意思を表明している』
添付された聴取記録を開く。
『代わりの足が来るまでは送ります』
鮎川が言ったのは、それだけだった。
継続意思。反省不足。規範軽視。
人間の言葉は、項目名をつけた瞬間に別の生き物になる。
私は本人確認済みの連絡先へ発信した。呼出音が二度途切れ、三度目で男が出た。背後で冷蔵庫の低い駆動音と、商品を読み取る電子音がした。
「量刑監査局の九条です」
『もう決まったんでしょう』
「まだです」
『朝、通知が来ました。店の受取決済は仮停止です。仕入れの支払いはできるのに、客から金を受け取れない。よくできてますね』
乾いた声だった。
処分はまだ確定していない。
けれど予測された再発を防ぐため、仮措置だけは先に始まっていた。客は商品を買えても、店は代金を受け取れない。仕入先には払えるから在庫不足は起きず、表面上の混乱も小さい。店主だけが静かに損失を引き受ける。
有罪になるまで罰しないという原則は、決済会社のリスク管理規約には適用されない。
「六回、病院へ送ったのは事実ですか」
『はい』
「六百円を受け取った」
『駐車場が四百円の日もあります。残りはガソリン代です』
「利益ではないと?」
『私がそう言っても、そちらの計算は変わらないでしょう』
「事実を確認しています」
『なら、利益は出ていません』
「警告後も送ると言った」
『明後日までは』
私は画面を止めた。
「明後日?」
『市の乗合タクシーが始まる予定でした。だから、それまでです』
裁定文には予定など書かれていなかった。継続意思だけを抜き出せば、鮎川は期限なく違反を繰り返す人間に見える。
「資料は提出しましたか」
『申立ての欄に添付しました。でも、代替交通の利用可能性は処分判断と関係がないと』
「誰から、その回答が?」
『自動応答です。異議があれば追加資料を出せと出たので、同じ資料をもう一度出しました。二度目は重複資料として閉じられました』
関係がない。
再発確率九六・八%を出すとき、再発できる環境が二日後に消える事実は関係がないらしい。
「予定でした、というのは?」
『昨日、中止の通知が来たんです。予約見込みが基準に届かなかったそうです』
私は市の公開資料を検索した。
実証運行の中止。想定予約数、一日十八件。事前予約数、一日平均七件。費用対効果が基準未満であり、限られた予算を有効に配分するため事業を見送る。
どこにでもある文章だった。誰も悪くないように見える文章は、たいていよく整っている。
申込み画面の利用条件も読んだ。
『既存の家族送迎、近隣共助その他の移動手段を利用できない者』
鮎川に送ってもらえる住民は、予約対象から除かれていた。
鮎川が運んだから予約が減った。
予約が減ったから乗合タクシーは中止された。
代わりが来ないから、鮎川は運ぶと言った。
運ぶと言ったから、再発確率は九六・八%になった。
輪はきれいに閉じていた。
行政は近隣共助があるから需要はないと判断し、司法はその近隣共助を違法行為として止めようとしている。互いの判断は、それぞれの規則の中では正しい。
閉じた輪の中にいる人間だけが、どこにも数えられていない。
「通院する三人は、今後どうしますか」
『一人は娘さんが月に二度、仕事を休むそうです。一人は通院日を減らすと。もう一人は分かりません』
「あなたは?」
『罰金だけなら払います。でも、店の受取を止められたら、来月まで持ちません』
「現金での営業は」
『仕入れの契約がキャッシュレス前提です。売上記録が取れなければ、次の納品量も減らされる。それに、この辺の人はほとんど現金を持ってません』
声は静かだった。
怒鳴る人間より、諦めた人間のほうが制度には扱いやすい。通話時間も短く、窓口の負担も少ない。脅威判定も上がらず、応対者の心理的負荷も軽い。
たぶん、それもどこかで良い数字になる。
「最後に確認します。代替交通があれば、送迎をやめますか」
『やめます』
「なければ?」
冷蔵庫の音だけが聞こえた。その向こうで誰かが店へ入ったらしく、扉のベルが鳴る。鮎川は客に短く断りを入れた。決済が使えないことを説明しているらしい。客は何も買わずに出ていった。
少し間があった。
『次の診察に行かなければ薬が切れる人を、知っていて置いていくのが法律なら』
鮎川はそこで言葉を切った。
息を整えてから、感情を削るように続けた。
『私は、もう一度違反します』
再発予測は正しかった。
正しいからこそ、判決は間違っていた。
私は通話を終え、算定根拠を開いた。
『処分による将来社会コスト削減見込み 百八十六万四千円』
事故リスク。無許可運送の模倣。保険対象外事故の公的負担。行政監督費用。
鮎川個人を罰することで、似た送迎を考える住民が思いとどまる効果まで算入されていた。三千六百円の事件は、将来起きるかもしれない無数の模倣を背負わされている。
一方、送迎停止による不利益は二十四万一千円だった。
通院回数の減少。家族の休業。交通費増加。
金額が低すぎる。
一人の店が廃業し、三人の通院手段が消え、家族が仕事を休む。それが中古車一台の修理費にも届かない。
内訳を追うと、理由は脚注にあった。
『私的扶助により吸収される負担は、社会的追加費用に算入しない』
私はその一行を二度読んだ。
娘が仕事を休むのは家庭の負担。
患者が診察を減らすのは本人の選択。
店が潰れるのは市場の調整。
社会が支払わなければ、社会コストではない。
負担が消えたのではない。請求書の宛先が社会でなくなっただけだ。
私は父へ資料の該当箇所を送った。
「この計算を知っていた?」
『初期仕様にはなかった』
「便利な言葉ね。作った人が責任から逃げるとき、初期仕様はよく働く」
『逃げるつもりはない。だが、その補正は運用後に追加されたものだ』
「誰が追加したの」
『誰か一人ではない』
父の声の向こうで、館内放送が流れていた。請願受付の終了と、退館を促す案内だった。丁寧な女声が、用の済んだ人間を建物の外へ追い出していく。
『自治体の予算査定、保険会社の支払実績、家族介護による離職率、医療機関の予約取消し、住民アンケート。人間が実際にどこまで負担を引き受けたかを、テミスは価格として学習した』
「耐えた人ほど、安く見積もられる」
『そうだ』
「助けを求めなかった人は?」
『需要がないと判断される』
「家族が無理をして支えたら?」
『公的支援の必要性が下がる』
「倒れるまで耐えたら?」
父は答えなかった。
答えがないのではない。数字にすれば、答えが醜くなるだけだ。
私は二十四万一千円という数字を見た。
人の本音は、口で言ったことではない。
税金を上げる候補に投票しなかった。送料の高い店を選ばなかった。介護休暇を取らずに退職した。病院へ行かず、市役所へ抗議せず、予約画面を閉じた。
誰かが困っている記事を読み、同情を示す印を押して、次の動画へ指を滑らせた。
その一つ一つを、テミスは投票として数えていた。
誰かを見捨てると宣言した人はいない。
ただ、見捨てても生活を続けた。
テミスが冷酷なのではない。私たちが支払わずに済ませてきたものを、忠実に安いと評価している。
鏡に映った本音とは、たぶんそういうものだ。
監査画面に戻る。
承認期限は午前十一時。
残り十二分。
差戻し理由は二百字以内。
以前なら、法的評価の誤りを探した。今回はなかった。無許可で人を運び、金銭を受け取り、もう一度行うと本人が認めている。
無実ではない。
だから私は、正面から書いた。
『再発予測は代替交通中止を前提とし、その中止は被審理者の送迎実績による需要過少評価に起因する。私的扶助へ転嫁された通院・休業・廃業損失の除外は、社会コストの所在を消すだけで総量を減らさない。付随措置を除外し再算定せよ』
百九十六字。
一文字ずつ読み返した。誤字がないかではない。逃げ道がないかを確かめた。
差戻しを実行した。
確認画面に、判断の公開性と個人信用への影響について同意を求める文言が出た。私は同意した。
私の名前と理由が公開ログへ載った。与信会社も雇用審査も、数秒後には読むだろう。制度的判断への異議申立て傾向。組織適応性への懸念。監査権限の積極行使。
違法ではない。
違法でない行動にも、値段はつく。
七分後、再裁定が届いた。
『罰金一万円、執行猶予相当』
『付随信用措置 なし』
『代替交通確保までの送迎について、市福祉輸送制度による臨時登録を勧告』
罰金は残った。
善意は免許証の代わりにならない。それでいい、と私は思った。違反を美談にすれば、次は本当に危険な運転まで善意を名乗る。
ただし、店を潰し、通院を止める必要はない。
違反を違反として扱うことと、違反者の生活を壊すことは同義ではない。その二つを同じにしたがるのは、計算が簡単になるからだ。
私は承認欄に署名した。
『九条灯』
判決は法廷で読み上げられなかった。
木槌も、傍聴人も、黒い法服もない。鮎川と私の端末へ、同時にプッシュ通知が届いた。店の冷蔵庫の前と、私の机の上で、同じ短い電子音が鳴ったはずだった。
数分後、彼から一文だけ返信が来た。
『明後日からは、登録して送ります』
一件は終わった。
世界は救われない。三人の通院と一軒の店が、来月も続くだけだ。
司法ができることなど、その程度である。
その程度を削って効率と呼ぶ国では、その程度が最後の防波堤になる。
午前十時四十一分、父が議員会館を出た。
位置確認の共有画面で、父を示す点が建物の輪郭を越えた。公的決済を止められた父は、正午までに徒歩と制限対象外の近距離交通で出頭することになる。
同時に、国会情報の更新通知が鳴った。
父が提出した資料への反応かと思った。
違った。
『司法手続迅速化法改正案 緊急提出』
審議中の監査官制度廃止法案とは別建てで、施行だけを前倒しするための改正案だった。本体の採決を待たず、廃止と同じ結果を先に作る。
提出理由は、予測裁定の遅延解消と全国的な処分格差の是正。
監査官による判断の揺れが、法の公平を損なっている。人手による確認が、被審理者への通知を遅らせている。自動裁定の精度は運用基準を十分に満たしている。
鮎川のような一件を拾う行為は、文書の中では処分格差と呼ばれていた。
条文を一行ずつ読む。
『量刑監査官による個別承認手続を廃止する』
『裁定生成時をもって確定とみなす』
『施行期日 公布の日から三日を経過した日』
三日。
審議を急ぐための三日ではない。反対する人間が事情を説明し、鮎川のような裁定を一件ずつ示し、世論が次の話題へ移る前に声を届かせるための時間が、三日しかないという意味だった。
人間が最後に読む三日間を、人間の多数決で終わらせる法案だった。
私は鮎川の裁定ログを公開保存し、父へ送った。
「正午の出頭までに、これを読んで」
『読んでどうする』
「あなたには、作った責任がある」
返事の前に、父の呼吸音が聞こえた。歩きながら画面を見ているのだろう。
私は改正案の反対意見提出欄を開いた。白い入力欄の上で、提出期限までの残り時間が秒単位で減っていた。
「私には、三日で止める責任ができた」
けれど、人間が読まなくても正しいという法案を、人間は何を根拠に拒めばいいのだろう。
(第15話へ続く)




