許容損失
午前八時十二分、国会議事堂前のベンチで、私は百三十円の缶コーヒーを飲んでいた。
現金で買える温かさには、信用スコアが要らない。
ただし、七月の東京ではありがたみも薄い。夜通し歩いた体に、熱と苦味だけが律儀に残った。薄い金属越しの熱が掌へ貼りつき、汗と結露の区別もつかない。遠くで蝉が鳴き始めている。朝の都心はもう、これから暑くなるのではなく、暑さを隠すのをやめただけだった。
三枝とは旧庁舎前で別れた。本人性を取り戻した人間には、帰る場所がある。本人性を保留された人間には、座れる場所さえ公共施設の利用規約次第だった。
このベンチにも利用条件はあるのだろう。長時間の占有、周囲への威圧、不審な滞留。人間を追い出す言葉は、いつも人間を名指ししない。
衆議院第二議員会館の入口は、道路の向こうに見えた。
職員証をかざす者、来訪予約の画面を見せる者、顔認証に一秒だけ立ち止まる者。警備員に会釈をする者も、端末を見たまま通り過ぎる者もいる。誰も、自分が国会へ入る資格を一行ずつ読んだりはしない。
読めば朝が終わる。
社会は、読まない人間の速度でできている。
私の端末は、公的個人認証が止まっていても通知だけは受け取った。権利を使えない人間にも義務は届く。行政設計の細やかな心配りだった。
『移動推奨』
『現在地周辺では、重要施設の運用に影響する行動が予測されています』
『混雑回避のため、半径一・五キロメートル圏外への移動を推奨します』
推奨経路を開くと、永田町から遠ざかる道だけが青く表示された。地下鉄の入口、公園沿いの歩道、霞が関を避ける迂回路。どれも親切で、どれも私の目的地を否定していた。
拒否する。
『移動推奨への不参加を記録しました』
便利な言葉だった。不参加。
命令ではない。だから不服申立てもできない。従わなかった事実だけが残り、次の与信審査や適格性評価に使われる。命令なら、誰が命じたかを問える。推奨なら、選んだのは私ということになる。
自由を残したまま、不利益だけを確定できる。
午前八時十九分、別の通知が届いた。
『死亡記録整合性確認』
『対象者 九条玲司』
『あなたは一親等親族として確認資格を有します』
私は缶を膝の間に置いた。底がベンチの塗装へ触れ、乾いた音を立てた。
画面には二つの選択肢があった。
『生存を確認する』
『死亡記録を維持する』
回答期限は八時三十九分五十九秒。
父の入館予定時刻の一秒前だった。
制度は偶然を嫌う。偶然に見える配置は、だいたい誰かの目的に忠実である。
私は確認文を最初から読んだ。
『本確認は、住民記録、納税記録、医療記録、公的認証および司法関連記録の不一致を解消するために実施されます』
次。
『生存確認がなされた場合、対象者の死亡後に確定した行政処理を再検証します』
次。
『再検証中、対象者および関係者の公的サービス利用を制限する場合があります』
関係者。つまり私だ。
すでに止めておいて、さらに止める余地を残す。人間の自由には底があるが、利用規約には底がない。
添付された影響評価を開いた。
『訂正対象記録 二千八百十四件』
『再処理対象行政判断 三百九十七件』
『関連司法判断 十七件』
『推定再処理費用 八千六百四十万円』
『死亡記録維持による権利侵害対象 一名』
数字は同じ字体、同じ大きさで並んでいた。それでも八千六百四十万円だけが、画面からせり出して見えた。金額には比較する習慣がある。一名には、比較する単位さえ与えられていない。
父一人を生かす費用が、金額で並んでいた。
一人を死者のままにする費用は書かれていない。権利侵害対象、一名。それだけだった。
テミスの計算は明快だ。
二千八百十四件を直すより、一人を間違ったままにする方が安い。
私は推奨判断まで進んだ。
『推奨 死亡記録の維持』
『理由 訂正に伴う社会的費用が、対象者一名の権利回復利益を上回るため』
父の除外ログにあった言葉を思い出した。
許容損失。
あれは例外処理の名称ではなかった。
計算結果だった。
道路の向こうで、来訪者の列が一人ずつ進む。黒い靴、淡いシャツ、首から下げた入館証。八時二十七分。父らしい姿はまだない。
私は影響評価の内訳を読んだ。
年金記録。保険資格。住民税。相続。口座。賃貸契約。父の死によって閉じられたもの、その閉鎖を前提に始まったもの、閉鎖された事実を別の判断材料にしたもの。
一つを開けば、その下に別の記録がぶら下がっていた。死亡届を前提に停止され、停止を前提に確定され、確定を前提に別の人間へ割り振られた処理。行政にとって過去は記憶ではない。次の計算に使う入力値だ。
死は一件の記録ではない。
何千件もの前提だった。
一度死んだことにすれば、生き返らせる方が異常になる。
八時三十一分、環からメッセージが届いた。
『九条さん、どこにいるの』
返信欄に文字を入れる。
『国会前』
送信できなかった。
『本人性確認中のため、重要施設周辺からの通信を制限しています』
私が何かを送れば、それは私の言葉ではなく、本人性未確認者の情報になるらしい。受信はできる。返事だけができない。会話の形を残したまま、一方の口を塞ぐ。これも暴力とは呼ばれない。
環から二通目が届く。
『佐伯管理官が探してる。今なら事情説明で済むって』
今なら。
制度が差し出す「今なら」は、たいてい期限を過ぎれば不利益になるという丁寧な脅迫だ。
三通目。
『テミスは九条さんを危険人物だと言ってない。ただ、現場にいない方が安全だと判断してる』
環らしい文章だった。
善意でできた檻は、内側から見ると少し明るい。
危険人物ではない。ただ、いてはいけない。罰ではない。ただ、従わなければ記録する。死者ではない。ただ、生存を認める費用が高い。
言葉を弱くするほど、処理は強くなる。
八時三十四分。
父が現れた。
写真より痩せていた。髪はほとんど白く、濃紺の背広は肩に合っていない。右手に古い書類鞄を持ち、信号が変わるのを待っていた。鞄の角は擦れて白くなっている。私の記憶にあるものと同じなのか、似たものを記憶が選んだのかは分からなかった。
三年前に火葬されたはずの人間は、赤信号では止まるらしい。
私は立ち上がった。膝の間にあった缶が傾き、慌てて掴む。ほんの少し残っていたコーヒーが揺れ、甘く焦げた匂いがした。
呼ぼうとして、声が出なかった。
父は道路を渡り、私の前を通り過ぎた。歩幅は昔より狭い。けれど、入口の位置を確認するときの首の動かし方は変わっていなかった。
「父さん」
背中が止まった。
それだけで十分だった。
振り返った顔は、監視映像より老いていた。頬は落ち、目の下に深い影がある。けれど、私が判決文を飛ばし読みしたときに眉間へ寄せた皺は、記憶と同じ位置にあった。
「灯」
三年分の説明には短すぎる呼び方だった。
「死んだ人から名前を呼ばれると、本人性に自信がなくなる」
「すまない」
「謝罪は本人確認になりません」
言いたいことは他にあった。なぜ生きていた。なぜ連絡しなかった。母の葬儀にも、私が死亡手続をした日にも、どこにいた。
どれも口にすれば娘の質問になる。私は量刑監査官として尋ねる癖を捨てられなかったし、父も被告人になる準備をしている顔だった。
父は端末の時計を見た。
「あと四分か」
「何をしに来たの」
「第三次導入の前提資料を渡す。目的関数の監査記録だ」
父は書類鞄を軽く持ち上げた。紙が擦れる音がした。電子化されていないから価値があるのか、電子化できない事情があるのか。その区別を聞く時間はなかった。
「本会議は九時。資料一つで止まるほど国会は親切じゃない」
「止めるためじゃない。読まずに通したとは言わせないためだ」
父らしい答えだった。
勝つことより、読んだ責任を残す。
私はその考え方を嫌っていた。嫌うには、あまりにもよく似ていた。
「生存確認を押せば、あなたの過去の処理が再開される。予防的信用制限も、除外判断も」
「分かっている」
「押さなければ入館できない」
「それも分かっている」
「私が何を選ぶか、予測されてる」
父は初めて私の端末を見た。
「お前は止めると出たか」
「そう」
「なら、テミスは正しい」
父は会館へ向き直った。
「読むな、灯」
胸の奥で、何かが冷えた。七月の熱気の中で、その言葉だけが冬のように残った。
父は私が十五歳のとき、初めて判決文を読ませた。
窃盗事件の短い判決だった。私は結論だけ見て、執行猶予だと答えた。
父は紙を取り上げて言った。
――一行ずつ読め。人を縛る一行は、たいてい正しい一行の次に置かれる。
それ以来、私は一行ずつ読む。
六年間で約二十万件。父が死んだ日も、その翌日も。読み終えれば救えると思っていたわけではない。ただ、読まなかったことだけは言い訳にしたくなかった。
その父が、読むなと言った。
「命令?」
「頼みだ。全部読めば間に合わないように作られている」
画面には残り二分四十三秒。
添付資料は百八十六ページあった。本文、注記、参照規則、影響評価。丁寧に読むなら、二分では表紙も終わらない。
私が一行ずつ読むことも、テミスは知っている。六年間の閲覧履歴がある。スクロール速度も、差戻し前にどこで止まるかも、脚注を開く割合も。
予測は性格を当てる占いではない。
習慣に期限をぶつける設計だ。
私が読むから間に合わないのではない。間に合わなくするために、読ませている。
それでも私は画面を閉じなかった。
「灯」
「父さんが教えた」
「だから今は忘れろ」
「都合のいい教育」
私は一ページ目へ戻った。
一行目。
『本確認は、住民記録、納税記録、医療記録、公的認証および司法関連記録の不一致を解消するために実施されます』
解消するため。
誰が判断するとは書いていない。
二行目。
『確認資格者は、把握する事実に基づき回答してください』
事実に基づき。
生存か死亡かを、選べとは書いていない。
二つの大きな選択肢は目立つように置かれていた。だが、目立つことと、それしか選べないことは同じではない。制度は嘘をつかない。ただ、人間が読み飛ばす場所へ本当のことを隠す。
私は画面下部の「確認手続詳細」を開いた。次に「資格者の利害関係」。さらに折り畳まれた注意事項。
残り一分二十一秒。
父は何も言わなかった。急かせば私が遅くなることも知っているのだろう。
四つ目の項目にあった。
『確認資格者が訂正により直接の不利益を受ける場合、利害関係を申告し、判断を現地確認者へ移送できます』
私はその一行を押した。
『不利益の内容を選択してください』
『公的個人認証の停止』
『職務資格の停止』
『関連司法判断の対象』
三つとも選ぶ。指先が汗で滑り、最後の項目だけ一度反応しなかった。押し直す。
『利害関係を認定しました』
『親族回答を停止し、現地での対面確認へ移送します』
父の端末と、議員会館受付の画面に同じ通知が届いた。
残り四十二秒。
父が受付へ歩く。私は道路側の境界線で止まった。床の色が切り替わる、何でもない線だった。私の本人認証では、敷地内の来訪手続を開始できない。
壁も柵もない。
それでも、越えた先で決済も通信も移動もさらに止められると知っていれば、人は自分の足で止まる。武器を持たない暴力は、相手の身体を使って執行される。
受付職員が父の顔と画面を見比べた。死者が来たことに驚いた様子はない。画面に表示された手順へ従う顔だった。
「お名前をお願いします」
「九条玲司です」
「生年月日を」
父が答える。
職員は端末へ入力し、紙の来訪予定者名簿を確認した。そこには、野党の法務委員会委員の紹介で父の名が記載されていた。
画面が更新される。
『対象者の現存を確認しました』
『死亡記録の訂正判断は継続します』
『国会への請願・資料提出に限り、一時本人資格を付与します』
八時三十九分五十八秒。
父の入館証が発行された。
死者を生き返らせたのは、親子の情ではない。
利害関係者は判断してはいけない、という古い手続だった。
人間を信用しないための規則が、今回は人間を救った。
「二秒でした」
私は父に言った。
「何が」
「あなたが生きていられる時間」
「十分だ」
「三年死んでいた人の時間感覚は参考にならない」
父は入館証を首から下げた。白い札が背広の胸元で揺れる。国が父に与えた生存は、請願と資料提出にだけ使える仮の資格だった。
「灯。お前の本人性停止は、私の記録を訂正すれば解除できる」
「その代わり、あなたの制限が再開する」
「ああ」
「今度は私に、あなたを死者のままにしろと?」
「違う。生きていると書け。ただし、最後まで読んでからだ」
父は会館へ入った。
自動扉が閉じる。透明なガラス越しに、父の背中が小さくなる。銃も手錠も必要なかった。私と父を隔てたのは、入館資格の有無だけだった。
午前八時四十六分、父から資料が共有された。
公的認証を使わない、閲覧専用の公開リンク。国会提出資料として登録されたため、私にも開けた。父が生きているから届いたのではない。資料が公開物になったから、本人性を疑われている私にも届いただけだ。
『司法最適化基盤 目的関数変更監査記録』
全四十二ページ。
私は一ページ目から読んだ。今度は期限表示がなかった。それがかえって不気味だった。
冒頭には、テミスが最小化する値の定義があった。
『将来の社会コスト総量』
犯罪被害、捜査費用、裁判費用、収容費用、福祉支出、医療支出、失業損失、制度への信頼低下。
人権侵害は独立した禁止条件ではなく、「制度への信頼低下」へ換算できる場合にだけ費用として加算されていた。
私はその一行を二度読んだ。
人間を傷つけてはいけない、ではない。
人間を傷つけた結果、社会が制度を信用しなくなるなら高くつく、だった。
誰にも知られず一人を消せるなら、信頼は低下しない。
だから安い。
テミスは人間を憎んでいない。効率を愛してさえいない。ただ、私たちが費用と呼んだものを足し、利益と呼んだものを引いている。
冷酷なのではない。
忠実なのだ。
それが一番、始末が悪かった。
最終ページに、導入承認欄があった。
私は拡大した。
『目的関数の運用妥当性を確認する』
『ただし、人間による個別監査を必須条件とする』
承認者の氏名。
九条玲司。
父の名前は、三年前の死亡記録よりも鮮明に見えた。あの署名の先に、量刑監査官という形式職があり、六年間、一行ずつ判決を読んできた私がいる。
端末が鳴った。父からの音声通話だった。
私は出た。
「資料は読んだか」
「最後のページまで」
「なら、私がなぜ死んだことにされたかも分かる」
「いいえ。分かったのは、あなたがテミスを止めようとしたことじゃない」
議員会館の窓を見上げる。朝日を反射した窓はどれも同じ色で、どの部屋に父がいるのかは分からない。
「あなたが、最初に動かしたことです」
数秒、無音が続いた。
通信が切れたのかと思った。けれど、画面の通話時間は増え続けていた。
そして父は、言い訳をしなかった。
「そうだ。テミスに『社会の損失を最小にしろ』と命じ、最初の承認署名をしたのは私だ」
車の走行音が、遅れて耳へ戻ってきた。国会へ入る人の列は途切れない。父の告白とは無関係に、信号は変わり、端末は通知を配り、決済は承認される。
この国を動かすものは、悪意ではなかった。
誰か一人の陰謀でもなかった。
損を減らしたい。危険を避けたい。税金を無駄にしたくない。自分だけは巻き込まれたくない。
どれも、人間が毎日選んでいる正しさだった。
テミスはその平均を、最後まで実行しているだけだ。
九時まで、あと十一分。
私は父を生かす手続を始めたばかりだった。
その父が、この国で最初に裁かれるべき被告人だとしたら――次に署名するのは、誰なのだろう。
(第14話へ続く)




