第二十一話 気象予報士の傘と、残響者のスケッチブック
放課後、いつものようにガイア知性研究所の鉄扉を開けると、宇津木博士がひどく上機嫌だった。
普段からニヤニヤしている胡散臭いオヤジではあるが、今日の彼は明らかに発光しているというか、機嫌の良さがオーラとなって背後から後光のように射していた。研究者がこういう顔をしているときは、十中八九、常人には理解できない厄介な事象に頭までどっぷり浸かっているときだ。
「おお、来たか! よかった、ふたりとも。これを見てくれ!」
博士は挨拶もそこそこに、部屋の中央のテーブルに広げられた巨大な世界地図をバンバンと叩いた。地図には、まるでハリネズミのように無数の赤いピンが刺さっていた。
「私の知人の世界各地の観測網からの報告だ。クラスチェンジ完了後の、生態系と物理法則の微細な変化の記録だよ。動物の異常な行動変容、特定の植物の急激な成長変化、そして人間の感覚器官の拡張による共感覚などの症例――その数、なんと全部で四千件を超えた。たったの一週間でだぞ!」
「よん、よんせん……」
私は目を丸くした。
「日本だけじゃない。ブラジル、カナダ、ナイジェリア、インド、世界中のあらゆる場所で同じ規模のOSアップデートが起きている。もちろん程度の差や個体差はあるが、傾向は完全に一致しているんだ」
博士は、ズレた丸眼鏡を中指でクイッと押し上げた。
「これは――途方もなく長く、そして美しい研究になるぞ」
博士は言った。そして、今まで私が出会ってから一度も見たことがないくらい、心の底から子供のように満足そうに笑ったのだ。
「一生かかっても終わらないかもしれない。すべてを証明する前に私が寿命で死ぬ可能性すらある。はっはっは、最高じゃないか!」
隣で地図を見下ろしていた蒼が、ボソリと小さく呟いた。
「……根っからの、研究者だな」
「それ、褒めてる?」
私が蒼に小声で聞く。
「褒めてる。ある意味、兄貴よりタチが悪い」
「じゃあ君たちにも」
博士が、満面の笑みでこちらを向いて言った。
「新しい、重要な仕事がある。これだけの膨大な事例を世界中から集め、整理し、規則性を分析するためには――私のようなロートルの脳みそだけでは足りない。君たちのような、実際に地球のシステムと直に接続した若い目と耳が必要だ。もちろん、手伝ってもらえるね?」
私は蒼を見た。
蒼も私を見た。
そして、私は博士に向き直り、極めて冷静に答えた。
「……あの、それ、私たちが大学に行ってからでもいいですか。私たち、来年受験生なんで」
博士の、両手を広げた大仰な動きが、ピタッと止まった。
「……ん?」
「だから、高校二年生の二学期って、そろそろ志望校とか本気で決めなきゃいけない時期なんですよ。放課後ずっと世界のデータの整理とかやってたら、普通に現役で大学落ちます」
「……」
博士は、数秒間、ポカンと口を開けたまま固まり、やがて「あ」と小さく声を出した。
「そうか。そうだな。……すっかり忘れていた。君たちは、現役の高校生だったな」
「忘れてたんですか」
「いや、色々と濃密すぎる、世界を救うレベルの長い付き合いだったもので、つい君たちを同業者の研究員か何かだと錯覚していた……」
蒼が、またボソリと呟いた。
「……本当に、根っからの研究者だな」
今度は私も、深く、深く同意して頷いたのだった。
研究所からの帰り道、私と蒼はふたりでゆっくりと駅へ向かって歩いていた。
特に、何か意味のある会話をしていたわけじゃない。
無理に言葉で空間を埋めなくてもいい、沈黙が全く重くならない距離感に、私たちはいつのまにか落ち着いていた。
九月が近づき、秋の足音がすぐそこまで来ていた。夏の終わりの匂いが、夕暮れの空気の端々に少しずつ混じり始めている。
蒼の右手には、律儀に黒い長傘が握られていた。
空を見上げると、分厚くて重たい曇り空だった。
「……雨、降る?」
私が聞くと、蒼は少しだけ空の匂いを嗅ぐようにして答えた。
「たぶん。夜中になってから、少しだけ」
「当たる確率、今どのくらい?」
「九十八パーセントくらい」と蒼は淡々と言った。
少し間を置いて、「クラスチェンジの後は、地球の出す振動やノイズが前よりもずっとはっきりクリアに聴こえるから、天気の予測精度は上がってる気がする」と続けた。
「それって……天気予報より正確ってこと?」
「気象庁のスパコンには申し訳ないが、たぶん」
私は、思わずクスッと笑ってしまった。
「ねえ、就職先、気象関係の仕事とかどう?」
「……考えたこともなかったな」
「だって、地球の音がダイレクトに聴こえる人が気象予報士になったら、百発百中じゃん。めちゃくちゃかっこいいよ」
蒼は、少し黙って真剣に考え込んだ。こういう冗談を大真面目に受け取るところが、彼のちょっと面倒くさくて、面白いところだ。
「気象予報士の国家試験って、合格率五パーセントくらいで結構難しいらしいぞ」
「蒼くんなら、数学も物理も得意だし余裕でしょ」
「そんなことない。覚えることが多すぎる」
並んで歩きながら、私はチラリと彼の横顔を盗み見た。
この人とこうして並んで歩くようになって、いったい何ヶ月が経ったんだろう。
ある日、抜けるような青空の下、校門の桜の木の下でポツンと傘を持って立っていた、表情のない愛想ゼロの転校生。
それが――今、私のすぐ隣にいる。
はたから見れば何も変わっていないみたいに、淡々と、静かに歩いている。
でも、私の中の全部が、確実に、劇的に変わっていた。
「……ねえ」
私は前を向いたまま言った。
「なに」
「一個、変なこと聞いていい?」
「どうぞ」
「蒼くんはさ――今、幸せ?」
蒼の足が、ピタリと止まった。
彼は前を向いたまま、数秒間、スーパーコンピューター並みの速度で脳内をフル回転させ、真剣に考え込んだ。
「……『幸せ』という抽象的な言葉の定義と、自分の現状の数値を照らし合わせていた」
「ちゃんと考えてくれてありがとう。で、結果は?」
「……地球の音が、以前の不快なノイズじゃなく、きれいな和音として聴こえていて」
蒼は、ぽつり、ぽつりと、確認するように言葉を紡いだ。
「隣に、君がいて。明日も行く場所がある」
一拍の、とても優しい間があった。
「たぶん、世間一般では、そういう状態のことを『幸せ』というんだと思う」
私は正面を向いたまま、彼のその不器用で、論理的すぎて、でもとびきり甘い解答に、少しだけ笑った。
「……そうだね」
私は短く同意した。
そしてまた、歩き始めた。
並んで、同じ方向を向いて。同じ世界の音を聴きながら。
その日の夜、自室の机の上で、私はスケッチブックを開いた。
押し入れの段ボール箱に詰め込んであった、この三年間で描き溜めた無数のスケッチブックを、全部床に広げてみた。
一冊目を開く。私が初めて描いた、一番古い地球の夢――カンブリア紀の青い浅い海を描いたものだ。
そして、手元にある一番新しいスケッチブックを開く。数日前に見たばかりの夢――未来の地球と、感覚器官が一つ多い人類の影を描いたもの。
並べてみた。
私、こんなに遠くまで来たんだ。
白亜紀から、氷河期を経て、ずっと先の未来まで。
一枚一枚の荒削りな絵が――地球が私にひっそりと語りかけてきた、膨大な言葉だった。誰にも話せず、でも絶対に消してしまいたくなくて、必死にキャンバスに定着させ続けてきた、私だけの真実だった。
『レムナント』。残響者。
宇津木博士に初めてそう名付けられたとき、意味がよくわからなかった。自分の脳のどこかが欠損している、病気みたいなものだと思っていた。
でも、今は――わかる気がする。
残響とは、大元の音が鳴り終わった後も、空間に残り、反響し続ける波のことだ。
地球が何十億年もかけて生きてきた莫大な記憶が――私という小さな空間に残って、響き続けていたのだ。そして私はそれを――あの地下室で、蒼という『次の人』に手渡した。
渡すことで――記憶は私の中から消えたんじゃなくて、彼の中でさらに大きく広がったのだ。
じゃあ、役割を終えた私は――これからこの真っ白な紙に、何を残していくんだろう。
新しい問いが、ふいに頭の中に生まれた。
でも、ちっとも怖くなかった。喪失感もなかった。
むしろ――楽しみだった。
私は棚から、まだ何も描いていない、真新しい真っ白なスケッチブックを一冊取り出した。
最初のページに何を描こうか、少しだけ考えた。
そして――鉛筆を取り、迷うことなく、今夜の帰り道の光景を描いた。
重たい夕暮れの曇り空。並んで歩くふたりのスニーカーの足元。蒼の左手に握られた黒い長傘。その先にまっすぐに伸びる、まだどこまでも続いていくアスファルトの道。
これこそが――私が生きている「今の地球」の、確かな景色だ。




