第二十話 草の気持ちがわかる親友と、少しだけ高い空
結が「今日から学校行けるよー!」とスタンプ付きでメッセージを送ってきたのは、クラスチェンジから五日後のことだった。
感覚器官の『変容』の期間中、結は数日間、学校を休んで自宅で過ごしていた。
高熱が出たわけでも、全身が痛くて動けなくなったわけでもなかった。ただ、「外の音がカラフルすぎてちょっと眩しいから、少し静かな部屋にいたい」という、普通のお医者さんが聞いたら絶対に首を捻るような理由で休んでいたのだ。
数日ぶりに登校してきた結は、拍子抜けするほど、見た目は何も変わっていなかった。
いつも通りの少し着崩した制服、相変わらずちょっと緩いリボンの締め方、軽やかな歩き方。
廊下で私を見つけて、「おーい陽菜!」とぶんぶん手を振る声の明るい張りも、私が知っている『天羽結』と一ミリも違わなかった。
「ゆい……! 大丈夫だった?」
「うん、全然平気! なんかちょっと、感覚が変になったけどね」
「変って、どう変なの?」
「うーん」
結は腕を組んで、斜め上を見上げた。
「なんかね――草の気持ちが、少しわかるようになった、かな」
廊下の真ん中で、私はピタリと足をとめた。
「……草の、気持ち」
「うん。昨日さ、お母さんに言われて庭の草取りしたんだけど。雑草の根っこを引っこ抜くとき、なんか『あ、イテッ。ごめんね』ってなったの。草が喋るわけじゃないんだけど、言葉を感じるっていうか、痛みがわかるっていうか。……怖いとかじゃなくて、なんか、植物との『共感』? みたいな」
結は首を傾げながら、ケラケラと笑って言った。
自分の感覚が人間離れしていくことに、微塵も困惑していなかった。むしろ、新しいゲームの隠しスキルを見つけて面白がっているような、無邪気な顔だった。
「ゆいは――怖くないの? 自分が、今までの自分じゃなくなっていくのが」
「全然怖くないよ」と、結は即答した。そして、私の顔をじっと覗き込んだ。
「陽菜こそ、すっごい怖い顔してるじゃん」
「してないよ」
「してるしてる。今にも泣きそうな顔」
そう指摘されて、初めて気づいた。
私の目の奥が、ひどく熱く、じんわりと潤んでいたことに。
「……だって、ゆいのこと、ずっと心配してたから」
「知ってる。ずっとメッセージくれてたもんね」
結が、柔らかく笑った。
私がずっと大好きだった、あの何の裏表もない、ひだまりみたいな結の笑い方だった。
「でも大丈夫だよ。感覚がちょっとアップデートされただけで、私はちゃんと、陽菜の親友としてここにいるからさ」
その言葉が――今まで私が結に求めていた、全てだった。
地球のオカルトな事情なんて聞かなくていい。ただ、そこであの笑顔のままいてくれる人。
新しい世界に変容した結は、変容する前の結と――まったく同じ、私が一番ほしかった言葉をくれたのだ。
泣いた。
生徒が行き交う騒がしい廊下の真ん中で、私は顔を両手で覆い、盛大に、子供のように声を上げて泣き出してしまった。
「ちょ、ちょっと陽菜!? 廊下だよ、みんな見てるってば!」
結が慌てて私の周りをオロオロと飛び跳ねた。
でも――「もう、しょうがないなぁ」と笑いながら、私の背中を何度も、何度も、優しくポンポンと叩いてくれた。
クラスチェンジから一週間後の夜。
私は、新しい夢を見た。
***
白亜紀の金色の空でも、カンブリア紀の青い海でも、氷河期の白い静寂でもなかった。
私の知らない、全く見たことのない時代だった。
空が、今私たちが知っている空よりも、少しだけ「高かった」。
大気が今とは違う成分の層で積み重なっていて、光の屈折が違うのか、空全体がうっすらと真珠のような輝きを帯びている。
生えている植物の形が、今とは少し違った。遠くの草原を走っている生き物も、今の地球の動物に似ているが――関節の付き方や筋肉の動きが、確実に今とは違う、なめらかで強靭な「しなやかさ」を持っていた。
これは、過去じゃない。
夢の中で、私は直感的にそれをはっきりと理解した。
未来だ。
何千年後か、あるいは何十万年後か。地球がまた次の「クラスチェンジ」を終えたあとの、ずっとずっと先の、新しい世界の景色だった。
ちっとも怖くなかった。
遠くの丘の上に、人の影があった。
人間のシルエットに似ていた。でも――今の私たち人間よりも少しだけ、何かが『多かった』。視覚や聴覚といった既存の感覚器官が、今の人類よりも一つか二つ、多く備わっているような気がした。結が草の気持ちを理解したように、彼らには彼らの、新しい知覚の世界があるのだろう。
その未来の影は、高い真珠色の空を見上げていた。
見上げながら――何かを、全身で静かに『聴いて』いた。
ああ。
私は夢の中で、深く息を飲んだ。
これが――人類の『続き』なんだ。
地球のシステムにバグとして消去されるのではなく、次の形に引き継がれた、私たちの遠い子孫の姿。
恐竜たちが大地に額をつけて次の時代の扉を開けたように――今の私たちが、今回のクラスチェンジを受け入れて引き受けたことで――あの未来の彼らに、命のバトンが確かに繋がったのだ。
司さんに、教えてあげればよかった、と思った。
あなたの妻が愛した人類は、ちゃんとあそこにいるよ、と。
でも彼は今、彼なりの方法で、自分で答えを探す旅に出ている。だから、今はこれでいいのだと思った。
***
目が覚めた。
枕元の時計は、六時三十分を指していた。
いつも私を過去の底から強制的に引き戻す、あの無機質なアラームが鳴るより、ほんの少しだけ早かった。
ベッドから起き上がり、窓を開けると、夏の終わりの爽やかな朝の空気が頬を撫でた。私は胸いっぱいに大きく深呼吸をした。少しだけ高い空が頭上に広がっていた。
今日も、地球の夢から帰ってきた。
でも今朝は――過去の残響から帰ってきたんじゃなかった。
私は、私たちの確かな未来から、帰ってきたのだ。




