第十九話 トマトの爆育ちと、コミュ力の成長
世界は、壊れなかった。
それが、私にとって一番驚くべき事実だった。
地球の壮大なクラスチェンジが完了した翌朝――太陽は西から昇ったりせず普通に東から顔を出し、通勤電車は数分の遅延で走り、駅前のコンビニは二十四時間営業を貫いていた。
テレビをつければ、アナウンサーがいつもと一ミリも変わらない作り笑顔で、政治家の失言と、週末の天気と、芸能人の不倫の話題をローテーションで消費している。
「……なんだ。隕石が降るわけでも、空が割れるわけでもないんだ」
朝の五時に目が覚めた私は、自室の窓を開けて小さく呟いた。
夏の終わりの少し涼しい空気が、部屋に流れ込んでくる。
温度や湿度は、昨日と同じだ。でも――昨日と『全く同じ』ではなかった。
言葉で説明するのはひどく難しい。強いて言うなら、空気の「粒」が、昨日より少しだけ大きくなったような気がした。一回の呼吸で、肺の奥にスーッと入ってくる情報の密度が、明らかに上がっているのだ。
気のせいかもしれない。ただの思春期の女子のプラシーボ効果かもしれない。
でも、今回は「ただの気のせいだ、今日も普通の月曜日だ」と、無理やり自分に言い聞かせることはしなかった。
日常にしがみつこうとしていた臆病な私は、もうこの部屋にはいなかったからだ。
ダイニングルームに降りて朝ごはんのトーストをかじっていると、ベランダで洗濯物を干していた母が、首を傾げながらリビングに戻ってきた。
「ねえ陽菜、なんか最近、うちのベランダのミニトマトの育ちが異常にいいのよね」
「異常って?」
「毎年この時期だと、もうそろそろ枯れかけて収穫量も落ちるはずなのに。今年はなんか、鈴なりっていうか、ブドウの房みたいにバカスカ実がなってるのよ。しかも真っ赤でツヤツヤ。なんでだろ」
「……地球の土の成分が、こっそりアップデートされたんじゃない?」
私が適当に相槌を打つと、母は「またそんなSFみたいなこと言って」と笑いながら、採れたてのトマトを包丁で半分に切って小皿に出してくれた。
「でもこれ、本当に美味しいのよ。なんかスーパーのやつより全然味が濃くて、土の力強さがあるっていうか」
私は、甘くて濃いトマトの果汁を口いっぱいに広げながら、霧島司の言葉を思い出していた。
『凪が育てた植物は、今も庭にあります。誰も手入れをしていないのに、勝手に育っています』
世界中の、誰かの庭やベランダで、植物たちがほんの少しだけ元気になっている。
ニュースのテロップには絶対に乗らない、でも確かに温度のある「世界の変化」が――私たちの日常の食卓に、静かに、そしてヌルッと浸透し始めていた。
クラスチェンジから一週間が経った。
世界は、私やアルゴスの面々が予想していたよりも、ずっと静かに、そして確実にその姿を変えていた。
日常の中で、いくつか明確に気づいたことがある。
まず、街の犬たちが急に落ち着いた。
以前、磁北(というか街の中心部)を向いてピタリと動かなくなる謎の異常行動を見せていた犬たちが、憑き物が落ちたように穏やかになったのだ。
それどころか、最近の彼らは――散歩中に、飼い主がリードを引っ張ってもいないのに突然立ち止まり、道端の草むらにズボッと深く頭を突っ込んで、そのまま銅像のようにじっとしていることが増えた。
「うちのポチ、最近ずっと草の匂い嗅いでて全然前に進まないんですよ〜」と、近所の奥様方が困惑していたが、草むらに頭を突っ込んでいる犬たちの表情は、どれもこれも悟りを開いた老僧のようにひどく穏やかだった。
彼らはただ匂いを嗅いでいるんじゃない。新しい地球が発する周波数を『聴いて』いるのだと思う。
次に、植物の成長速度がバグり始めた。
学校の中庭にあるケヤキの木が、たった一週間で十センチも伸びたのだ。
もちろん、例のオカルト気味な科学部が大騒ぎした。顧問の理科教師は「この夏の異常気象で、植物ホルモンのバランスが崩れたんだろう」と必死に科学的根拠を捏造して片付けようとしたが、声のデカい科学部長は「いや、これは地球の磁場シフトによる生態系の再構築の兆しです!」と息巻き、毎日マイメジャーを持ってケヤキの木の測定記録をつけ始めた。
そして――「夢」を見る人が、爆発的に増えた。
SNSのタイムラインを眺めていると、「なんか変な夢を見た」という投稿が目に見えて増えていた。
『海の中で変なエビみたいなやつと一緒に泳ぐ夢見た。リアルすぎて草』
『恐竜が出てきたけど、全然怖くなくて、みんなで土下座してた。俺の脳みそ疲れてる?』
『何十万年も前の氷河期みたいなところで、焚き火にあたってる夢。めっちゃ寒かった』
ほとんどの人は、「最近疲れてるのかな」「なんか変な夢だったわー」で終わらせて、次の日には綺麗さっぱり忘れてしまう。
でも、私にはわかる。
地球が、新しいOSにアップデートしたお祝いとして、全人類にこっそりと「自分の古い記憶のアーカイブ映像」を無料配信し始めたのだ。
「――で、蒼くんの『音』はどうなったの?」
私が彼にそう尋ねたのは、クラスチェンジから三日後のことだった。
放課後のガイア知性研究所(相変わらず埃っぽい)で、私たちはいつものようにパイプ椅子を並べて座っていた。
「変わったよ」
彼は手元の地質学の資料から目を上げずに言った。
「どう変わったの? やっぱり、新しい世界のノイズが増えちゃった?」
蒼は、少しだけ考えるようにペン回しをしてから言った。
「前は――地球の音だけが、独立して聴こえてたんだ。人間の出す生活音や、車のエンジン音みたいな街のノイズとは完全に分離して、分厚い壁の向こう側で鳴ってるみたいに。でも今は」
「今は?」
「混ざってる。地球の低い音と、人間が世界で出している音が、まったく同じ層でシームレスに聴こえる」
「……それって、頭の中がごちゃごちゃして、うるさくないの?」
「うるさくない」
蒼は、自分でも少し不思議そうに、でもとても穏やかな顔をして言った。
「むしろ――前よりずっと静かになった気がする。地球の音が大きすぎて、他の音が全部かき消されていた頃より、今の方が、すべての音がちゃんと調和して聴こえるんだ」
「調和」
「そう、地下でやった『和音』だ。地球の波と人間の波が、打ち消し合うんじゃなくて、一緒に鳴ってる。今の地球の音は――人間の存在をちゃんと『含んで』鳴ってる感じがする。人間も、地球のシステムの一部に、やっとなれたんだと思う」
私は少しの間、その美しい言葉の響きを頭の中で反芻した。
「それって……クラスチェンジの後の世界では、私たち人間が、少しだけ地球と仲良くなれたってこと?」
「そういうことかもしれないな」と蒼は小さく笑った。「まだ証明はできないけど――一つだけ、確かなことがある」
「何?」
「君の声が、今までで一番、はっきりよく聴こえる」
――ピシッ。
私の思考回路が、三秒間、完全にフリーズした。
「……えっと、それは、どういう物理的な意味で?」
「どういう意味だと思う?」
珍しく、蒼が余裕たっぷりに聞き返してきた。
いつもは感情の読めない群青色の目が、少しだけ悪戯っぽく、楽しげに笑っていた。
(……この人、たった数日で劇的にコミュ力成長してない?)
私は、自分の顔が耳の裏までカッと熱くなるのを感じながら、慌てて手元の資料に目を落とし、文字を読んでいるフリをした。
「……ひどい。からかってる」
「そうか?」
蒼はもう元の涼しい顔に戻って、手元の分厚いページをパラリとめくった。
なんだこいつ。新人類か。




