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【地球が進化する日】 〜地球の夢を見る少女と、地球の声を聴く少年。ふたりが出会ったとき、世界は次のページをめくる〜  作者: 真野真名
【地球がクラスチェンジする朝に、君と出会った】

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第十八話 地球の和音と、次のページをめくる朝




 来た、としか言いようがなかった。


 地球の記憶のバックアップデータが――一瞬にして、全部、私の中に怒涛のように流れ込んできた。


 カンブリア紀の、奇妙な命が漂う浅い青い海が。

 白亜紀の、恐竜たちが大地に額を擦り付けた金色の草原が。

 氷河期の、果てしなく続く残酷なまでの白い静寂が。

 凍える人類が夜の闇の中で起こした、最初の小さな火の熱さが。


 何億年分もの莫大なデータが同時に脳内に殺到した。でも、私の頭はショートしなかった。決して溢れることはなかった。


 私の体は――その全部を、ちゃんと一つの器として収めることができたのだ。


 ああ、そうか。


 これが、『レムナント(残響者)』というバグの本当の役割だったのだ。

 ただ地球の過去の映像を一人で受信して、睡眠障害扱いされるための厄介な体質じゃない。

 地球の記憶を一時保存し、必要とする『誰か』に、それを直接手渡すための、USBメモリみたいな器だったんだ。


 私は、目を開けたまま、強く握りしめたあおいの手を通して――それを『渡した』。


 言葉じゃない。映像の羅列でもない。

 体温みたいな、あるいはもっと根源的な電気信号のような何かが、私の手のひらから彼の皮膚を通して、途切れなくドクン、ドクンと流れていくのを感じた。


 その瞬間、蒼の体の震えが――劇的に変わった。


 機械と戦って軋んでいた苦しい震えから、波長を合わせ、深く同調し、共鳴しているような、力強い震えに変わったのだ。




 蒼の目が、カッと開いた。


 いつもは色素の薄い無機質な瞳が、今まで見たこともないほど深く、鮮やかな群青色に染まっていた。


「……聴こえる」


 彼が、呆然と呟いた。


「何が?」


「全部だ。君が今、俺に渡してくれたもの――地球が今まで経験して、生きてきた全部の記憶の音が――俺の骨の中で、いっせいに鳴ってる」


 彼は、地下室の冷たい空気を、腹の底まで大きく吸い込んだ。


「これが――地球のOSを『引き受ける』ってことか」


 それは独り言のようだったが、微塵の迷いもない、揺るぎない確信に満ちていた。


 キャンセラー装置の逆位相音が、地下室のコンクリートを砕きそうなほどの最大出力で鳴り響いている。

 でも蒼は――もう、一歩もよろめいていなかった。


 迫り来る地球の巨大な前兆音と、人間が作った機械の逆位相音の狭間に――蒼が、真っ直ぐに二本足で立った。


 彼は、上着のポケットから、ずっと彼を外界のノイズから守ってきたお守りである、黒いノイズキャンセリング・イヤーマフを取り出した。


 一度だけ、愛着を込めるようにギュッと強く握りしめた。


 そして、未練なく放り捨てた。

 コンクリートの床に落ちた、カランという乾いた音がした。



「全部、聴く」


 彼は、装置を真っ直ぐに見据えて宣言した。


「もう、逃げない」


 次の瞬間――。


 蒼の体から、信じられない『音』が出た。

 人間の喉から出る音声じゃなかった。声帯を震わせたものじゃない。骨格から、皮膚から、彼の存在そのものから――強烈な周波数が、空間に向けて放射されたのだ。


 それは、地球の巨大な前兆音と、まったく同じ波長だった。

 それが、システム防衛で暴走する装置の逆位相音と、真正面から激突した。


 だが、波と波がぶつかり合って生まれるはずのものは、不自然な「沈黙」ではなかった。


和音コード』だった。


 不協和音を包み込むような、不思議で、これまで地球上に一度も存在したことのない――人間のちっぽけな意思と、地球という巨大なシステムが、初めて一緒に奏でる、美しくて途方もなく巨大な和音だった。




「……完了した」


 コンソールに張り付いていた司が、最後のエンターキーを叩き込んだ。

 同時に、システム防衛モードの赤いランプがフッと消え、巨大な銀色の装置が――急速に大人しくなっていった。


 映画のようにド派手に爆発することもなく、崩壊して火花を散らすこともなかった。

 ただ――鼓膜と内臓を不快に圧迫していた低い振動音が、少しずつ、少しずつ、モーターの電源を切ったように小さくなっていった。


 最後に、機械の奥深くで「プシュン」と一度だけ高い排気音がした。

 それから――地下室は、完全な沈黙に包まれた。


 蒼が、ふうっと、体の中の悪い空気を全部外に出すような、長い長い息を吐いた。


 私は、彼の右手をまだ両手でしっかりと握りしめていた。彼の手のひらは、氷のように冷たかった数分前が嘘のように、じんわりと人間らしい温かさを帯びていた。


「……大丈夫?」


 私が恐る恐る顔を覗き込んで聞くと、蒼は少し間を置いてから言った。


「……静かだ」


「それって、大丈夫ってことだよね?」


「ああ。俺が今まで生きてきた十七年間の中で、今が一番、静かだ」


 私は、その言葉を聞いて、へなへなとその場に座り込んで笑いそうになった。同時に、大声で泣きそうにもなった。


 結局、顔をぐしゃぐしゃにして、両方ともした。


 振り返ると、司が、完全に沈黙した巨大な装置の前に立ったまま、動かずにいた。背中だけが見えた。


 あれだけ隙なく張り詰めていた彼の広い肩が、憑き物が落ちたように、少しだけ下へ落ちていた。




 それは、パニック映画のクライマックスのような派手な爆発じゃなかった。

 天変地異の崩壊でも、空を裂く閃光でも、人々の悲鳴でもなかった。

 装置が完全に停止し、地球のクラスチェンジの波が何の妨害もなく世界を覆い尽くした、次の瞬間。


 空気が、変わった。


 変わった、としか言いようがない。温度や湿度の話ではない。


『味』だった。


 私の舌に触れる空気の味が、一瞬だけ――全く別のものに差し替えられたのだ。

 甘くもなく、辛くもなく、酸っぱくもない。化学調味料では絶対に再現できない、今まで地球上に存在しなかった何かの味。


 とてつもなく古くて、でも真新しい。

 最初の生命が海で誕生し、初めて深呼吸をしたときの大気によく似ていて、でも――今まで地球の成分表になかった『何か』が、たった一分子だけ、新しくレシピに加わったような空気。


 その感覚は、一秒も続かなかった。

 でも――確かに、私たちは新しい空気を吸い込んだのだ。


 蒼が、小さく息を飲んだ。


「……聴こえる」と彼は、少しだけ目を見開いて言った。「新しい音が。地球の――次のページが開く音が」


 私は、ゆっくりと目を閉じた。


 何も来なかった。いつもなら私を強引に連れ去っていた、あの白亜紀やカンブリア紀の古い記憶の波は、もう押し寄せては来なかった。


 代わりに――自分の手のひらが、ポカポカと温かくなった。


 じわじわと、全方向から包み込まれるように。

 まるで、巨大な地球そのものが――私のちっぽけな手を、「よくやったね」と優しく握り直してくれたみたいに。


 ゆっくりと目を開けた。

 廃工場の、無骨で埃っぽいコンクリートの天井が見えた。

 横には、蒼が立っていた。彼の手の確かな温もりが、まだ私の手の中にあった。


 少し離れた場所で、宇津木博士が「ふむ」と満足げに鼻を鳴らし、ずり落ちた丸眼鏡を中指で押し上げていた。


 司の少し猫背になった背中が、まだそこにあった。


 世界は――消えずに、ちゃんとここにあった。

 静かに、誰にも気づかれないように次のページをめくって――でも、確かに私たちの足元に、続いていた。



 ***



 重い鉄扉を開けて廃工場の外に出ると、夜明けが近かった。

 東の空の端っこが、ほんのりと白み始めていた。

 それは、ごく普通の朝の白さだった。古代のバグのような薄紫でも、白亜紀の燃えるような金色でもなかった。


 でも――その白さが、今日は昨日までとは少しだけ違って見えた。今までの夜明けよりも、世界を覆っていた薄い膜が一枚ペロリと剥がれ落ちたような、どこまでもクリアで透明な白さだった。


 博士が、片手でタブレット端末の画面をスクロールさせながら、興奮気味に歩いていた。


「すごいぞ。世界各地の知人の観測網から続々とデータが上がってきている。異常に乱れていた地磁気が、信じられないスピードで完全に安定した。大気の成分比が、ほんのわずかだが書き換わっている。それから……植物の成長速度が、一部の地域で異常な上昇を見せているらしい」


「一部の地域、って?」


「今のところ――天羽あまは ゆいさんのように、感覚の『移行』が先行して起きている個体の近辺から、局地的に始まっているようだ。彼女たちが、新しい世界を牽引する先行指標マイルストーンになっているのかもしれないな」


 結のことを思った。


 今頃、彼女はどうしているだろう。苦しんでいないだろうか。


 慌てて自分の制服のポケットからスマホを取り出すと、メッセージの通知が一件入っていた。タイムスタンプは深夜三時。


『なんかね、今夜、ものすごーく綺麗な夢を見たよ! 懐かしい草の匂いがする夢。陽菜が前に美術室で描いてたやつに、ちょっと似てるかも。明日学校で、また話聞いてね!』


 私は、スマホの画面を見たまま、その場に立ち止まった。


 蒼が、私の隣にピタリと並んで歩みを止めた。


「……ゆいから?」


「うん」


 私は、彼に画面を見せた。

 蒼は、結のメッセージの文面を一度目で追い――小さく、安堵したように頷いた。


「よかった」


 彼が言ったのは、それだけだった。

 よかった。その、たった四文字のシンプルな言葉が、今夜私たちが命がけでやったことの全部の答えを、ちゃんと受け取ってくれていた。




 司は、工場の錆びた正門を出たところで、ふと立ち止まった。

 ゆっくりと振り返り、弟である蒼を見た。


「行くよ」と、司は短く言った。


「しばらく――一人で考えることがある」


「どこへ行くつもりですか」


「わからない」

 司は、少しだけ自嘲するように目を細めた。


「アルゴスは解体されるだろう。お前たちの言っていた、地球が人類を連れて行くというオカルトが本当に正しいのかどうか、科学者である俺にはまだわからない。でも――お前たちの信じた世界を、これ以上止める真似は、もうしない」


 蒼は、何も言わなかった。


 司が踵を返し、朝靄の向こうへ歩き始めようとした、その背中へ向けて。


「……兄さん」


 蒼が、少しだけ大きな声で言った。

 司の足が、ピタリと止まった。彼は振り返らなかった。


「今度は――一人で全部、抱えないでくださいよ」


 長い、沈黙があった。


 司は、振り返らないまま――ゆっくりと、しかし力強く、一度だけ頷いた。

 言葉はなかった。それだけで十分だった。

 やがて、透明な新しい夜明けの光の中に、司の背中がゆっくりと溶けて消えていった。



 ***



 それから三日後のことだ。

 我が家の郵便ポストに、切手の貼られていない白い封筒がコトリと入っていた。


 差出人の名前はどこにも書かれていなかった。でも――中に入っていた便箋の、神経質なくらいに整った万年筆の文字を見て、私はすぐに誰からのものかわかった。


 そこには、たった一行だけ、こう書かれていた。


『君たちの言った通りかもしれない。次の時代で、また考えることにする』


 私は、その不器用な手紙を、あの白亜紀の夢を描いたスケッチブックの、一番最初のページにそっと挟み込んだ。


 それが、その手紙にとって、世界で一番正しい居場所に思えたからだ。


 空を見上げると、昨日と変わらない青い空が広がっていた。


 でも、私にはわかる。


 世界は確かに分厚くなって、私たちは今、新しくめくられた白紙のページの上を歩き始めているのだ。




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