第十七話 握っていた手と、離さない右手
私が「奥さんの、凪さんはどんな人でしたか」と尋ねると、霧島司は長い、長い間、口を閉ざした。
地下室に響き渡るキャンセラー装置の重低音だけが、私たちの間を冷たく埋めていた。
私は彼が言葉を探すのを、逃げずにじっと待った。
やがて――。
「……植物が、好きな人でした」
司が口を開いた。その声は、完璧なエリート研究者のものでも、冷酷な秘密組織の幹部のものでもなかった。初めて、完全に血の通った、不器用な一人の男の声になっていた。
「庭に何十種類もの植物を育てていてね。一つ一つに、ペットみたいに名前をつけていた。朝、水をやりながら『おはよう、よく寝た?』なんて本気で話しかけていた。はっきり言って馬鹿みたいだと思ったが――彼女が育てた植物は、私の理屈なんか届かないところで、本当にいきいきと元気になっていく気がしたんだ」
私は、黙って頷いた。
「前兆現象が始まったとき、彼女は真っ先に変わり始めた。私の周りで一番最初に。今の、君の親友と同じようにね。色に音がして、空気に匂いがして――『私の見ていた夢が、現実に滲み出してきたみたいだ』と、笑って言っていた」
色に音がして。空気に匂いがして。
結と、まったく同じだ。地球のOSアップデートを先行受信した個体。
「最初は、彼女も喜んでいたんだ。世界が広く、豊かになったと。でも――移行のスピードが、あまりにも速すぎた。彼女の生身の体は、その速度についていけなかったんだ」
「……速度が、問題だったんですか」
「ああ。今回のクラスチェンジの前兆は、徐々に段階を踏んで上昇しているだろう? だが、あのときは違った。局地的に、突発的に、一夜にして強烈な波が起きたんだ。彼女の体は、変容の暴力的な速度に適応できず、システムエラーを起こした。……朝、起きたら、私は彼女の手を強く握っていたのに、彼女の意識はもう、どこにも戻ってこなかった」
手を、握っていたのに。
その一文に、六年という果てしない歳月の重さと、行き場のない絶望が詰まっていた。
「だから……」
司は、自分に言い聞かせるように、痛切な声で続けた。
「だから――速度を落とせば、人間は生き延びられると思ったんだ。この装置で波を打ち消し、クラスチェンジを十年遅らせれば、人間の肉体を適応させるための研究も進む。そうすれば、誰一人として理不尽に死なせずに済む方法が、必ず見つかると思った」
私は、彼を見た。
この人は、狂ったテロリストなんかじゃない。
ずっと、たった一人で、凪さんを朝まで生かそうとしていた人だった。ずっと、どうにもならなかったあの残酷な一夜を、自分なりの科学の力で「やり直そう」としていた人だったのだ。
「霧島さん」
私は、彼に向けて一歩踏み出した。
「……なんですか」
「凪さんは――今も、ちゃんといると思います」
司の目が、わずかに揺さぶられたように動いた。
「気休めならよせ。根拠はなんだ」
「私が見てきた、夢です」
私は、胸の奥底にある、あの重たくて確かな記憶の塊を言葉にした。
「私は――地球の過去の夢を見てきました。白亜紀の金色の空から、カンブリア紀の浅い海から、氷河期の果てしない静寂まで。そのたびに、ずっと感じていたんです。全部、『続いている』んだって」
司は、眉をひそめて黙って聞いていた。
「形が変わっても、何かが確実に続いているんです。恐竜は隕石で無惨に消去されたわけじゃない。彼らが吸い込んだ空気が、今の私たちの空気になっている。彼らが踏みしめた土が、今のこの足元の土になっている。彼らの巨大な体を作っていた原子が――今も、どこかで別の形になって、この星で生きている」
「それは……」
「私の、ただの希望的観測だと思うかもしれない。でも」
私は、司の目を真っ直ぐに見据えた。
「凪さんが大切に育てた植物は、今、どこにありますか?」
司が、雷に打たれたようにピタリと止まった。
「……今も、庭にあります。私が手入れなんて一切していないのに、勝手に、青々と育っている」
「それは、凪さんです」
司が、目を細めた。怒っているんじゃない。今にも内側から決壊して、崩れ落ちそうになっている目だった。
「形が変わっただけで――凪さんは今も、土の中に、空気の中に、植物の葉脈の中にいる。地球が凪さんを理不尽に連れ去ったんじゃなくて――凪さんは、地球のシステムの一部に、ちゃんと『なった』んです」
「……それは」
司の声が、微かに、しかし確かに震えた。
「それは、宗教的な慰めですか」
「違います」
私は、首を横に振った。神様がどうこうという、そんな安っぽいスピリチュアルの話をしているんじゃない。
「私はそれを、この体で知っているんです。六千六百万年前の大陸の土の感触が、今も私の手のひらにこびりついて残っている。恐竜がいた場所の空気の重さを、私は今でも夢の中で呼吸できる。彼らは――ちゃんと、この星のデータとして残っているんです」
「仮に……いや……」
深い沈黙が落ちた。
「だが……それはデータであって……凪の意識は……」
司は呟くように言葉を漏らしたが、最後まで続かなかった。
キャンセラー装置の重低音すら、遠のいた気がした。
「……地球は、私たち人類をスクラップにして捨てようとしているんじゃない」
私は言った。ゆっくりと、でも、絶対に揺るがない確信を込めて。
「次のステージへ、連れて行こうとしているんです。白亜紀の彼らがそうだったように――今の形を終わらせて、次の形で、続かせようとしている」
司は――何も答えなかった。
反論の言葉を見つけられなかったのではない。ただ、蒼を制圧してキャンセラーを死守しようとしていたはずの彼の両足が――まるでコンクリートの床に縫い付けられたように、ピタリと止まっていた。
司は、しばらく振り返り、自分が作り上げた巨大な銀色の装置を見上げていた。
私を見なかった。蒼も見なかった。ただ、愛する人をこの世界に繋ぎ止めるためだけに、彼が人生を賭けて組み上げた鉄の塊を、静かに見つめていた。
「……凪は」
やがて、彼がポツリと言った。
「最後の夜、笑っていました」
誰も何も言わなかった。
「『怖くない』と、彼女は言っていた。『色んなものが見えて、世界がとっても綺麗だ』と。そして私の手を強く握って――『大丈夫だよ』と、笑って言ったんです」
私は息を呑んだ。
大丈夫だよ、と言った側は――消えゆく凪さんの方だったのだ。
手を握られて、失う恐怖にガタガタと震えていた側が――エリート研究者の、司だったのだ。
「私は……」
司は、自嘲するように短く息を吐いた。
「彼女を守ろうとして、アルゴスを利用し、ここまで来た。でも――彼女は最初から、私に守られようとなんてしていなかったのかもしれないな」
そのとき、ずっと沈黙していた蒼が、口を開いた。
「……兄さん」
「なんだ」
「俺がずっと聴いてきた地球の前兆音の中に――凪さんの声に、すごくよく似た音の波長があったんだ。ずっと前から」
司の背中が、ビクンと大きく跳ねた。
「地球が発する、一番柔らかくて優しい周波数だ。何億年も前の、生命が初めて海で生まれたときの波長によく似ている。俺は、その波長のことを、心の中で勝手に『凪』って呼んでた」
司は、目を閉じた。
そして、顔を覆うようにして、長く、長く、肩を震わせた。
地下室に、すすり泣く声は響かなかった。ただ、六年分の張り詰めた糸が、音を立ててプツリと切れる気配だけがした。
やがて。
「……装置を止める方法は、ひとつじゃない」
司が、顔を上げて静かに言った。
「中枢制御ユニットの手動停止コードは、この私しか知らない。コンソールにそれを打ち込めば――メインシステムも予備電源も、三十秒で完全停止する」
蒼が、ハッと息を飲んだ。
「兄さん……」
「うるさい」
その司の声に怒りは微塵もなかった。
「お前たちの青臭いオカルトが正しいかどうか、科学者である俺にはまだ証明できない。わからないまま、世界を委ねて信じることができるかどうかも、わからない」
彼はスーツのズボンのポケットから手を出し、装置のコンソールパネルに向かって歩き始めた。
「ただ――あいつが、凪が笑っていたのなら。それで十分だという気が、少しだけしたんだ」
司がコンソールに触れ、複雑な文字列のコードを打ち込み始めた、その瞬間だった。
『――警告。不正なシャットダウン手順を検知。システム防衛モードに移行します』
無機質な電子音声と共に、巨大な装置がけたたましく反応した。
アルゴスの設計した自律防衛機能だった。停止コマンドを外部からの攻撃とみなし、内部のシステムが抵抗するように、装置から放たれる「逆位相音」の出力が、一気に最大値へと跳ね上がったのだ。
「ぐっ……!」
蒼が、ハンマーで殴られたように大きくよろめいた。
「蒼くん!」
私が慌てて駆け寄り、彼の体を支えようと肩に触れた瞬間――ビリッと、強烈な静電気が走ったようにわかった。
彼の体が、内側から激しく振動していたのだ。
迫り来る地球の前兆音を体全体で受け止めながら、同時に装置から暴力的に放たれる最大出力の逆位相音と、細胞レベルで削り合うように戦っていた。
「離れてくれ……!」
蒼が、歯を食いしばり、苦しそうに絞り出した。
「俺が、今からこいつを強引に相殺する……巻き込まれるぞ」
「離れない!」
私を突き放そうとするその右手を、両手で思い切り強く握りしめた。そして、目を閉じた。
――来た。




