第十六話 弟と、兄
「――来ると思っていましたよ」
ふいに、背後から声が降ってきた。
振り返ると、私たちが降りてきたコンクリートの階段の上段に、彼が立っていた。
霧島司だった。
部下の黒服を連れているわけでも、物騒な武器を構えているわけでもなく、完全に一人だった。
いつも隙のなかったスーツの上着を脱ぎ捨て、白いシャツ一枚になっている。ネクタイも少し緩められており、あの「完璧な大人の男」の装いが、ひどく人間臭く崩れていた。
「部下はどうした」
博士が警戒するように前に出た。
「上で待機させています。ここには、私一人で来た」
「なぜだ」
司は階段を一段降り、少しだけ間を置いた。
「……弟と、邪魔を入れずに話したかったのでね」
蒼は、動かなかった。袖を掴んでいる私の手に、彼から伝わる微かな緊張の震えが伝わってきた。
司がゆっくりと、しかし迷いのない足取りで階段を降りてくる。低く鳴り続ける巨大な装置の横を通り過ぎ、蒼の正面、わずか三メートルの位置でピタリと立ち止まった。
血を分けた兄弟が、薄暗い地下室で向き合った。
似ている、と私は直感的に思った。
立ち方の重心、相手を見据える目の色、感情を安易に表に出さない不器用な加減。顔の造作はそこまで似ていないのに――なぜか「ああ、この二人は間違いなく同じルーツから来ているんだ」と、理屈抜きにわかってしまう残酷な似方だった。
「……久しぶりだな、蒼」
司が、絞り出すような低い声で言った。
「五年ぶりですね……兄さん」
蒼は、氷のように冷たい声で応じた。
地下室の空調が急に効き始めたわけでもないのに、部屋の温度が、さらに五度ほど下がったような気がした。
司は、巨大なキャンセラー装置を振り返りもしなかった。私や博士の存在も、彼の視界からは完全に除外されているようだった。ただ、目の前に立つ弟だけを見つめていた。
「お前がここに来ることは、わかっていた。だが――そっち側に立つとは思っていなかった」
「そっち側、って?」
「地球の気まぐれなクラスチェンジを、黙って受け入れる側だ。俺はてっきり、お前は俺と共に、理不尽な世界を『止める側』に来てくれると信じていた」
「なぜそう思ったんですか」
「俺は、お前を守るために、このキャンセラーを作ったからだ」
司の言葉に、蒼の能面のような表情がわずかにピクリと動いた。
「……知ってますよ」
「知っていて――なぜだ。お前は子供の頃から、異常なノイズに苦しめられてきただろう。俺は、お前をその苦痛から解放してやりたかった」
「兄さんの守り方は、間違ってる」
蒼が、冷たく言い放った。
「間違っているだと?」
「俺が『聴器』という特異体質を持って生まれたのは、クラスチェンジの音を否定するためじゃない。引き受けるためだ。だから、兄さんが作ったこの巨大な装置は――俺を守っているんじゃなくて、俺を使い方の違う『ただの道具』に縛り付けているだけだ」
司が、反論しようと小さく口を開きかけた。
だが、蒼の方が一瞬早かった。
「……兄さん」
蒼の声が、わずかに変わった。
いつも淡々としていて、どこか機械的だった彼の声が。たった一言だけ、年齢相応の弟らしい、少しだけ震えているような声になったのだ。
「俺が本当にほしかったのは――無菌室みたいな安全な場所で『守られる』ことじゃなかった」
「……では、なんだと言うんだ」
蒼と司の間に、重たい、長い間が横たわった。
装置の重低音だけが、空気の読めないBGMのように響き続けている。
「俺はただ……一緒に『地球が怖いね』って、言いたかっただけだ」
地下室が、完全に静まり返った。
司が、ハッと息を呑み、スッと目を逸らした。
私が彼に出会ってから、初めて見る「隙」のある仕草だった。あの、すべてを論理でねじ伏せてきた完璧な横顔の仮面が、ほんの少しだけ――致命的な亀裂を入れて揺らいだのだ。
「……俺は」
司が、足元のコンクリートを見つめたまま、ぽつりと言った。
「怖かったんだ。凪を失ってから、ずっと。世界が、地球が、ただひたすらに怖かった。怖かったから――」
「わかってます」
「お前に、何がわかる」
「わかる」
蒼は、逸らされた兄の視線を真っ直ぐに追いかけて言った。
「同じ血が流れてるんだから」
司は、それ以上何も答えられなかった。
弟を不器用に守ろうとした兄と、兄とただ痛みを共有したかった弟。その決定的なすれ違いの間に、装置の不気味な低い振動音だけが、無慈悲に鳴り続けていた。
私は、たまらず一歩前に出た。
蒼と司の、膠着した視線の間に、無理やり割り込むようにして。
「陽菜!」
蒼が制止しようと私の名前を呼んだが、私の足は止まらなかった。
司が、ゆっくりと顔を上げ、私を見た。
「以前、私に言いましたよね」
私は、アルゴスの実行部隊長を真っ直ぐに睨み据えて言った。
「『確信になったとき、また話しましょう』って」
司の目の奥の光が、わずかに動いた。
「……ええ、覚えています」
「今なら――私の中に、はっきりとした答えがあります」
司は私を見続けた。その視線の質が、明らかに変わった。
生意気な子供をあしらう目でも、敵対する勢力を分析する目でもなくなった。何かを、藁にもすがる思いで本気で「聴こう」としている、迷える大人の目になっていた。
「……聞かせてください」
彼が静かにそう促した。
私は大きく深呼吸をした。頭の中で綺麗な言葉を選ぶ作業を放棄して、ただ、私の体が夢で知覚した真実を、そのまま言葉にして外に出すことにした。
「私が答えを話す前に、一つだけ、聞いていいですか」
私は、彼の胸の奥の、一番痛いところに触れる覚悟を決めた。
「奥さんの、凪さんは――どんな人でしたか」
司の呼吸が、ピタリと止まった。




