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【地球が進化する日】 〜地球の夢を見る少女と、地球の声を聴く少年。ふたりが出会ったとき、世界は次のページをめくる〜  作者: 真野真名
【地球がクラスチェンジする朝に、君と出会った】

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第二十二話 晴れの日の傘と、これからの空




 九月。二学期の始業式の日がやってきた。


 夏休みの宿題は、前日の夜に半泣きになりながら、あおいにメッセージで答えを教えてもらいつつ強引に終わらせた。

 自由研究のテーマは、もちろん「植物の成長速度の季節変動について(七月前後の急激な比較)」にした。提出したとき、万年睡眠不足の森口先生に「ほう、ユニークでタイムリーな着眼点ですね」と少しだけ褒められた。


 朝、指定の制服を着た。リボンを締めた。

 洗面台の鏡を見た。

 そこに映っているのは、昨日と変わらない私自身の顔だった。同じ制服、相変わらず少しだけ緩く曲がっているリボン、いつも右側だけ耳にかける栗色の髪。

 外見は、何も変わっていなかった。

 でも――一つだけ、決定的に違うことがあった。


 今朝は、夢を見なかったのだ。

 白亜紀の金色の空も、カンブリア紀の海も、氷河期の静寂も――そして、未来の新しい人類の景色も、何も来なかった。


 代わりに――ただ、ひどく深く、泥のように気持ちよく眠れた。


 たったそれだけのことなのに、細胞の隅々まで酸素が行き渡ったように、体が羽根のように軽かった。

 私はもう、過去の記憶に間借りしている「仮住まい」の住人じゃない。

 ここが――今、私が立っているこの時間こそが、私の本当の場所なのだ。


 鞄を持って、元気よく玄関を出た。

 空は、これ以上ないほど完璧に晴れ渡っていた。


 私は今日、カバンに折り畳み傘を入れなかった。




 学校に続く通学路を歩き、校門に近づいて――私はピタリと立ち止まった。


 蒼がいた。

 右手に傘を、持っていた。


 今日は雲ひとつない、降水確率ゼロパーセントの快晴だというのに。


 何ヶ月ぶりだろう。私が彼に出会ったあの七月の朝に見た、最初の光景が――またそこにあった。


 校門の桜の木の前に、抜けるような青空の下で、黒い長傘を持った男子が一人で立っている。


 ただ――今回は、決定的に違うことが一つあった。

 最初のとき、彼はどこか遠くを見ていた。この世界じゃない、遥か遠い地球のノイズにだけ耳を傾けていた。


 でも今は――真っ直ぐに、こちらを見ていた。


 私を、待っていたのだ。


「……遅い」


 私が近づくと、蒼が不満げに言った。


「ごめん、洗面所でちょっと鏡見てたから」


「何分見てたんだ」


「三分くらい」


「長い」


「うるさいなー。女子の朝は忙しいの」


 私たちは、ごく自然に並んで、校舎へと続く道を歩き始めた。

 少し歩いてから――私は、どうしても気になっていたことを口にした。


「ねえ」


「なに」


「今日、雲ひとつない快晴だよ。なんで傘持ってるの? 地球の音、狂っちゃった?」


 蒼が、ほんの少しだけ間を置いた。


「……持ってきたかったからだ」


「雨、絶対に降らないのに?」


「降らなくていい」


 私は少し首を傾げ、彼の横顔を覗き込んだ。


「もしかして――今日、傘を持ってきたのって、そういう意味?」


「どういう意味?」


 蒼が聞き返した。


 出会った頃の「俺の意図を察しろ」というはぐらかしではなく――少しだけ照れを隠すように、素直に「どういう意味か言ってみろ」と聞いている声だった。


「……校門で待ってるとき、私が、蒼くんを見つけやすくするための目印、とか」


「正解に、きわめて近い」


「……待っててくれたの?」


 蒼が、少しだけ前を向いた。耳の裏が、ほんのりと赤くなっているのがわかった。


「……ずっと前からな」


「今日だけじゃなくて?」


「今日だけじゃない」


 私は、前を向いた。


 空が、どこまでも高く澄み切っていた。完璧な秋の空が来ていた。


 自分の心臓が、少しだけ速く、トクトクと動いているのがわかった。


「……私もだ」


 私は小さく言った。


「何が」


「ずっと前から――待ってた気がする。君の名前もまだ知らなかった頃から。こういう人と、こういう朝に、他愛もないことを言いながら一緒に歩けること」


 蒼は少し黙った。


 それから――右手に持っていた傘をひょいと肩に担ぎ直し、少しだけ私の方へ体を向けた。


「……俺も」


 彼が、短く言った。


「私と、同じ夢を見てたみたいに?」


「そう」


 私たちは、並んで歩き続けた。

 傘は一本。雨は降らない。空は底抜けに晴れている。

 それで――十分だった。




 その日の放課後。


 部員が誰もいない美術室で、私はひとり、キャンバスの前に座っていた。


 足元の段ボール箱の中から、一番古いスケッチブックを取り出す。


 カンブリア紀の青い海を描いた一枚目を開く。十四歳のときに描いた絵だ。遠近法も色使いも下手くそだった。でも――必死だった。誰にも話せない重たい秘密を、どうにかして形にしようと、必死にキャンバスに叩きつけた絵だった。


 ゆっくりと、ページをめくっていく。


 白亜紀の金色の草原。氷河期の厳しい空。人類の最初の、小さくて温かい火。


 全部めくって、一番最後のページに来た。

 空白だった。まだ何も描かれていない、まっさらな最後のページ。


 私は、デッサン用の鉛筆を持った。

 頭で構図を考えるより先に、手が勝手に動き、さらさらと紙を滑った。

 桜の木のある校門。明るい朝の光。不自然に持ち込まれた一本の黒い傘。並んで歩く、ふたりの足。そして、その先に続く道。

 描き終えて、私はふうっと息を吐き、スケッチブックをパタンと閉じた。


 窓から、外を見た。

 空が、青かった。


 今日の空は、昨日の空と、少しだけ成分が違う気がした。でも、それが正確にどう違うのかは、化学式や言葉ではうまく説明できなかった。


 でも、それでよかった。


 世界の全部が、完璧な言葉になる必要はないのだ。世界の全部が、論理的に説明できる必要はない。


 ただ――私は、今、ここにいる。

 もう、過去の記憶に怯える仮住まいじゃない。

 何億年分もの途方もない夢の記憶を運んできたこの私の体で、今、この新しい朝の空気を吸い込んで、生きている。


 それが――私の見つけた、たったひとつの確かな居場所だった。


 鞄を持って、美術室を出る。

 誰もいない、夕陽が差し込むオレンジ色の廊下を歩く。


 下駄箱を抜け、校舎の外に出ると、桜の木の下で、傘を持った蒼が待っていた。


「……また待ってたの?」


 私が笑いながら駆け寄ると、彼は少しだけ肩をすくめた。


「今日は、三分だけだ」


「ふーん。ずいぶん成長したね」


「そうか?」


 帰ろう、と私が言うと、蒼は静かに頷いた。


 私たちは並んで、歩き始めた。


 ある日、地球が、密かに進化した。


 その日のことを、私はきっと、おばあちゃんになってもずっと覚えているだろう。


 あの不器用な夏――世界が、誰にも気づかれないように、静かに次のページをめくった日のことを。


 そして私が――生まれて初めて、この世界に『自分の住む場所』を見つけた日のことを。





最後まで読んで頂きありがとうございました。

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