殺戮者には真実を、英雄には嘘を2
小屋の中で、俺の頬についた血をユミカが自分の指でぬぐってくれた。
「やめとけ」
俺はその手をどける。
「お前の手まで、汚れちまう」
ユミカはじっと俺を見て、それからもう一度手を伸ばす。
「いいのよ」
ユミカは望むかのように自分の指を赤黒く汚して、それから真っ直ぐに俺を見つめて言った。
「あなたが汚れるなら、私も汚れるわ」
少しの間だけ息が止まった。ユミカの顔をまじまじと見る。その目には、恐れとか、嫌悪とか、そういうものは一切なくて、ただひたすらに願っていた。そう見えた。
俺の苦悩を、汚れを、共に背負うことを。
「ユミカ、あたしも血で汚れてんだけど?」
後ろからシャルロットが冷めた目で俺たちを見て言う。ユミカは慌てて身を引き、取り繕うように笑みを浮かべる。
「あ、ほ、ほんとだね。そうだ、この近くに湖あるから一緒に水浴びしに……」
「いいよ。っんと、ユミカはバルナのことしか興味ねぇよなぁ。ユミカの能力をユミカ自身に使ってやりたいよ」
棘がある声で呟くシャルロット。ユミカは顔を真っ赤にして首を横に振る。
「そ、そんなことないわよ。私はみんなのこと……」
「はいはい、分かった、分かった。それに、あたしは別に水浴びはいいよ。結構、気に入っているし」
頬を血で染めたシャルロットは、犬歯をむき出しにして笑う。
「血の臭いってやつをさ」
俺たちはもう元には戻れない。
剣連洞で思っていたこと。
それでも、このノーブレードチルドレンのための学び舎に戻ってきて、みんなで会話を重ねて、少し元に戻ってきたかのような感触がしていたんだ。
でも、違った。
過去のように会話を重ねて、少しずつ、少しずつ、俺たちは元に戻ろうとしても、それよりも大きく、大きく、俺たちは違い始めてきている。狂った歯車がどんどん予期せぬ方向に加速している気がする。
いや、違うか。
もともとが狂った歯車で、今、ようやく俺たちは本来あるべき姿に戻りつつあるのか。
剣の前でのみ、俺たちは平等で、正当な存在になれるのだから。
だから。
自分の剣を、自分の運命を取り戻し、変わり始めた俺たちというのが、本来の俺たちの姿であり、本性なんだ。
それなのに、俺は、どうしてこんなことを思ってしまうのだろう。
運命を取り戻したかった、本当の自分を知りたかった。
そんな俺が、今、考えていること。
俺はシャルロットのもとへ言って、ユミカがしてくれたように、その顔についた血を指でぬぐってやる。
シャルロットは、まだ怒っているのか、冷たい目で俺を見る。
「いいって言ってんだろ。お前はユミカといちゃいちゃしとけよ」
俺は黙って、ゆっくりと血をふき取り続ける。
シャルロットの表情がだんだんと険しくなってきて、最後は勢いよく俺の手を払いのけた。
「やめろって言ってんだ……」
「もったいないぞ?」
シャルロットの赤い瞳を見据える。
「身綺麗にしてりゃ、かわいいんだから」
「んな!」
顔を真っ赤にして、シャルロットは押し黙る。ようやく、『元のシャルロット』に戻ってくれたような気がした。
安心して、俺は笑って。
そして、それでもやはり、また俺たちが変わっていくことを止められそうにないことは分かっていて。
馬鹿だな、俺は。何を安心しているんだろう。
俺たちはもう元には戻れない。
剣連洞で思ったこと。
それが怖いと思うときがこれから何度も訪れることを俺は予感していた。
その予感は的中したんだ。
俺は、変わっていく俺たちを止められないのに、礼拝堂で革命を宣言したときのようにそれに対して高揚感すら感じたのに、心のどこかでそれを怖いと思っている自分がいるのを感じていた。
実際、俺たちは今、四人しかしない。
「何があっても、俺たち六人は一つだ」
あの夜の俺が言った誓いが、虚しい言葉へと変わっていく。
変わってしまったのだ、俺たちは。
そのことに対してうじうじしたくはない。もう全て始まってしまったのだから。俺は、覚悟しなければいけないのだ。
変わっていくことを怖いと思う気持ちと、決別することを。
「マリア、元気かなぁ」
机の上で寝そべっているレオンがぼやく。
その名に、俺は、胸をつかまれた気分になる。
マリア=ルイーズ。二日前まで俺たちと共にいたクールな白銀の髪の少女は、今は俺たちのそばにいない。彼女が取り戻した運命の名は『王』だった。『革命』の名を持つ俺たちとは、真逆の立場にいる。そして、俺たちも、彼女も、わずかな躊躇いを踏み潰し、仲間の絆よりも取り戻した剣名を取った。
さらに、レオンは続ける。
「シェスタ先生もどうしてるのかな」
俺たちにチャンスをくれた先生は、鎮圧者というその剣名の通り、王への反逆者を抹殺する精鋭部隊の一員だった。当然、『革命』の剣名を持つ俺たちとは対立関係にある。
あのとき、二人と別れたとき、俺の頭の中には、最後は二人と手を取り合って歩いていける未来のビジョンなど、欠片もありはしなかったんだ。
あのとき、もう元には戻れないという怖さと、運命を、剣を取り戻したという歓喜だけが、頭の中を、俺自身を支配していた。
「剣の改名制度って言ってたよね、先生」
ユミカが顎に手を当てて、言う。
「要は、今いる王様は偽の剣の名を騙って王様になって、本物の王であるマリアの剣を封印したってわけだろ?」
シャルロットが、忌々しげに吐き捨てる。俺も同じような予想をしているが、それにしたって愕然とするくらいの上流階級の腐敗っぷりだ。
ひょっとしたら、ただの農民や商人といった剣名のやつらが、貴族や神官になっている可能性だってある。
俺たちから俺たちの運命そのものである剣を奪い、その剣を剣聖母様に突き刺し、ノーブレードという偽りの奴隷を増やし続けた。
そう考えると、さっき心のどこかで感じた、もう元には戻れない、変わっていくことに対する恐怖なんて吹き飛んで、強烈な熱が体中を駆け巡る。
何もかも、きれいさっぱりぶっ壊して更地にして、もう一度正しい世界を創りたいと願う。
ノーブレードとは、偽者たちに運命を略奪された高貴な存在だ。
今なら、胸を張ってそう言える。
それにしても。
剣連洞の中にあった像が本物の剣聖母様なら、剣聖母様はどうして何も言わないのだろう、怒らないのだろう。自らを石に変えて、あの暗い洞窟の中で一体何を考えているのだろう。
「……誰か、来る」
ユミカが驚いた声で言う。
「また、憲兵団?」
俺が勘弁してくれと頭をかくと、予想に反してユミカは首を横に振った。
「革命の同士よ」
「え?」
俺がそう声を漏らしたのと、扉が開くのは同時だった。
「あ、あの……」
小屋の中に入ってきたのは、それはもうご立派な……。
「乳聖母様だぁああ!」
年は俺たちより少し上くらいかな。長い黒髪、鼻筋の通った整った顔、露出度の高い豪華な服、そして何よりその胸元からこぼれおちんとするマリア以上に大きな柔らかな胸。
入ってきた女性が俺の奇声にドン引きするや否や、シャルロットが剣の柄で俺のどてっぱらに突きをくださった。
「ぐぼ」
あまりの激痛に、俺はそのまましゃがみこむ。息も絶え絶え、冷酷な赤鬼をにらむ。
「お、おい、ちょっとは手加減を……」
「したぞ?」
シャルロットの赤い瞳は、その色とは逆に、毛の先まで凍ってしまいそうな冷気に満ちていた。
「剣、抜かなかったじゃん?」
「ありがとうございました」
素直に土下座した。あれ、俺ってかっこわる。
そんな無様な革命の開幕者の姿に、
「え、えと、あなたですよね……? 礼拝堂で神官をこらしめた王子様」
戸惑いの様子を隠せないその女性は、素敵な単語を放つ。
「そうですが、どういったご用件で?」
人生で初めて言われた素敵な呼び名に胸を躍らせて、人生で一番きりりとした表情を浮かべて立ち上がってその人を見る。
じっと観察して気がついたけど、この人、ノーブレードのわりには豪華すぎる服装だな。それに、いくらなんでもセクシーすぎない? 肩は完全にはだけて、胸元きわきわだし。いや、まあ、個人的には全然ありなんだけど。街中で恥ずかしくないのだろうか。
「……私、娼婦なんです」
俺の考えていることに気がついたのか、女性は、小さな声でそう言った。その言葉に、全部納得がいった。俺は辛そうに俯くその人に、にかっと笑いかける。
「それがどうしたんっすか? 全然かまわないっすよ、俺は。さて、どうして、ここに来たんすか?」
俺の笑顔に何やらぽぉっと呆けた状態になったその人は、それから顔を真っ赤にしながら慌てて首を横に振って、自分を落ちつかせるように大きく息を吸った。準備が整ったのか、ようやく口を開く。
「私、もう嫌だったんです。何もかも。自分の仕事も、自分の生活も。毎日毎日、無理やり笑って、無理やり受け入れて。このままじゃあ、おかしくなるって、そう思ってました。鏡を見ても、こんな歪んだ笑みを浮かべているのは、誰なんだろうって。自分自身のことが分からなくなってたんです。それに、街で私と同じような娼婦がこの三ヶ月で十人も殺される連続猟奇殺人事件が発生しているのに、憲兵団はまともに捜査もせず、同胞の命がこれほど軽んじられても、娼婦のみんなはそれでも貴族を相手に商売を続けてる。こんな街で、世界で、私は一体、何を信じて生きていったらいいのだろうってずっと思ってました。でも、今日の朝、あなたの姿を見て、あなたの言葉を聞いて、心に灯りがともったように感じたのです。私にも、剣聖母様から与えられた運命があるんだって。今の私ではない、本当の私がどこかにいるんだって」
女性の目から、さっきのような暗い色はなく、朝日のように爛々と輝く灯火が見えたような気がした。
きっと、俺もあのとき、剣連洞で自分の剣を取り戻そうとしたとき、そんな顔をしていたのだろうな。
「私、見ました。小屋の前にある、憲兵団の死体。あれもあなたたちがやったんでしょ?」
その目は、さらに爛々と輝く。
「私にも、あなたたちのような力が手に入るかもしれないのですね」
いささか、凶暴な光だった。その光を見て思い出すのは、自分が剣を振るった瞬間の、駆け巡る高揚感。脳みそが沸騰しそうな興奮。俺も、人を切ったとき、こんな目を、していたのだろうか。
もう元には戻れない。
その言葉が一番当てはまるのは、きっと俺自身なんだろうな。
「あの……、みなさんに差し入れがあるんです」
彼女はそう言ってその手に持っていたかごを見せる。
「パンとか、干し肉とか、水とか、お客さんがくれるものをためていたんですけど、これ全部みなさんで……」
彼女がそう言い終わらないうちに、白い風が舞って、その手にあったものをかっさらっていった。
「お前……」
俺はため息をついて、再び机の上に着地したレオンを見やる。
「こういうときだけ、良い動きするなぁ……」
今の速度、正直言って捉えきれなかった。
「いやぁ、それほどでも」
てれてれしてみせる、レオン。全然、かわいくねぇぞ。
「レオン、肉は食うなよ。食ったら殺すぞ」
どすのきいた声で肉の確保を要求する赤髪の少女シャルロット。うわぁ、こっちも全然かわいくねぇ。
「私、とりあえず、水飲みたい……」
おずおずと申し出るユミカ。ぐっと癒された。
「あの、これからも、また、ここに来てもいいですか?」
女性は、懇願するように俺たちを見る。
「私も、あなたたちのお手伝いがしたいんです」
その言葉を聞いて、胸の奥にじんわりと熱が広がっていた。
俺はゆっくりと女性に手を伸ばして、笑った。
「もちろん。ここは、運命を取り戻す場所。ノーブレードチルドレンのための学び舎だ」
いつか先生が俺たちにしたように。俺は彼女に、運命を取り戻すチャンスをあげようと思う。
彼女は、今夜はもう帰らなくてはいけないらしかった。また仕事をさせられるのではと俺は危惧してここにずっといてもいいと彼女に言ったが、私が逃げると他の娼婦たちが責任を取らされてひどい目にあうのだと彼女は言った。
ひどい話だ。
心配する俺を見て、大丈夫、今日は客がめったに来ない日だから、と彼女は言った。
また、娼婦街でジェーンを見なかったかと俺は彼女に聞いたが、彼女は見ていないと言っていた。生きている姿も、死んでいる姿も。昨日は娼婦街でザ・サイレンスによる猟奇殺人事件は起きていないので、たまたま見かけなかっただけでジェーンは生きているのではと言ってくれた。
「明日は、他の女の子たちにも声をかけてみんなで来ますね」
彼女が手を振って、小屋から出て行こうとするとき、俺はその背に声をかけた。
「まだ、あんたの名前を聞いていなかった。俺はバルナ=ロスピエール。あんたは?」
彼女は顔だけ振り返って、照れたように頬を赤くしながら、優雅に笑った。
「私はメアリー。メアリー=ニコルズです」
俺は頷いてから、彼女に手を振る。
「さよなら、メアリー。またな」
「うん、また」




