第二話 食堂デビュー
翌朝。
女子寮の廊下には、慌ただしい足音が響いていた。
洗面所には長い列。
ドライヤーの音。
「歯ブラシ取ってー!」
「あと五分で点呼だよ!」
そんな賑やかな空気の中、小春は鏡の前で髪を整えていた。
「よし。」
ぴん、と前髪を直す。
その姿を見た美咲は笑う。
「今日は気合い入ってるね。」
「え?」
「黒瀬先輩に会えるかもしれないから?」
小春は一瞬固まり、耳まで赤くなった。
「そ、そんなこと……。」
「図星。」
「……少しだけです。」
「少しじゃないでしょ。」
「……いっぱいです。」
素直すぎる返事に、美咲は吹き出した。
朝食の時間。
一年生たちは緊張しながら食堂へ向かう。
席は決まっていない。
けれど、不思議と学年ごとに固まって座る空気があった。
「小春ちゃん、こっち。」
麻衣が席を取ってくれた。
「麻衣ちゃん、ありがとう。」
「麻衣でいいよ。」
「私も小春でいいよ。」
トレーを持って座ろうとした、その時。
食堂の入口が少しだけ静かになった。
サッカー部三年生が入ってきた。
その中には黒瀬律。
ジャージ姿のまま、仲間と短く言葉を交わしながら歩いている。
その姿を見つけた小春は、ぴたりと止まった。
「あ。」
目が離せない。
黒瀬はいつも通り落ち着いた様子で奥の席へ向かう。
「小春。」
「……はい?」
「ご飯。」
「……はい。」
返事はした。
でも、お箸はまだ袋に入ったままだった。
心配そうに覗き込む麻衣。
「大丈夫?」
その様子を見ていた
美咲は小さくため息をつく。
「重症だ。」
朝食を終え、麻衣と学校へ向かう途中。
中庭を歩いていると、前からサッカー部員たちが歩いてきた。
一年生たちは慌てて道を空ける。
「おはようございます!」
声を揃えて頭を下げる。
黒瀬も軽く頷いて通り過ぎる。
その背中を見送りながら、小春も慌てて頭を下げた。
「お、おはようございます!」
少し遅れてしまった挨拶。
黒瀬は立ち止まり、小春を見る。
「おはよう。」
低く落ち着いた声。
それだけ言って歩き出す。
「……。」
「……。」
小春は固まった。
「小春?」
「……返してくれた。」
「うん。」
「挨拶、返してくれた……。」
その場でしゃがみ込みそうな勢いだった。
麻衣は苦笑する。
「挨拶返しただけだよ?」
「でも返してくれた……。」
「よかったね。」
「はわわわわ……」
その日、小春は一限目の授業中もずっと嬉しそうだった。
昼休み。
学食は混雑していた。
「混んでるね。」
「そうだね。」
麻衣と並んで席を探す。
「小春じゃん。」
美咲と遭遇。
「美咲先輩。こんにちは。」
その時だった。
黒瀬たちサッカー部のテーブルに、一席だけ空きがあるのが見えた。
小春の視線が吸い寄せられる。
美咲はその視線に気づき、嫌な予感がした。
「……小春。」
「はい。」
「まさか。」
「まさかです。」
「本当に?」
「はい。」
「やめよう?」
「でも空いてます。」
「空いてるけど!」
小春はトレーを持ったまま歩き出した。
「ちょ、小春!」
止める間もない。
食堂中の視線が集まる。
一年生。
二年生。
三年生。
みんなが「あの子、どこ行くの?」という顔で見ている。
小春は黒瀬の前まで来ると、ぺこりと頭を下げた。
「黒瀬先輩。」
黒瀬が顔を上げる。
「隣、座ってもよろしいでしょうか。」
一瞬、静寂。
サッカー部員たちも動きを止める。
誰もが黒瀬の返事を待っていた。
黒瀬は空いている椅子を見て、それから小春を見る。
「空いとる。」
短い返事。
それだけだった。
「ありがとうございます!」
ぱあっと花が咲くように笑って、小春は席に座る。
その笑顔につられて、向かいに座っていた二年生部員が思わず笑った。
「黒瀬さん、知り合いですか?」
「昨日見た。」
「昨日!?」
部員たちがざわつく。
小春は慌てて頭を下げた。
「一年の花井小春です!よろしくお願いします!」
元気いっぱいの挨拶に、サッカー部員たちは顔を見合わせる。
「よろしく。」
「元気だね。」
「看護?」
「はい!」
緊張しているはずなのに、人懐っこさは変わらない。
少しずつテーブルの空気が和らいでいく。
その様子を遠くから見ていた美咲は、思わず額に手を当てた。
「……本当に行っちゃった。」
麻衣が驚いた表情でつぶやく
「小春、すごい……」
「ね。」
「怖くないんでしょうか……」
美咲は遠くの小春を見る。
楽しそうに笑う小春。
その隣で静かに食事を続ける黒瀬。
不思議と違和感がない。
「怖くないんじゃなくて。」
美咲は小さく笑った。
「黒瀬先輩しか見えてないんだよ。」
その日の夜。
女子寮。
「あの一年生、サッカー部のテーブル座ったらしいよ。」
「えっ、本当に?」
「しかも黒瀬先輩の隣。」
噂はあっという間に広がった。
部屋へ戻った小春は、ベッドに座って今日の出来事を思い返していた。
「美咲先輩。」
「なに?」
「黒瀬先輩、優しかったです。」
「うん。」
「嬉しかったです。」
「うん。」
「またお話ししたいです。」
美咲は笑いながら教科書を閉じる。
「じゃあ、まずは授業とレポート頑張ろう。」
「はい!」
「恋も大事だけど、勉強も大事。」
「はい!」
「あと。」
「はい?」
「明日はもう少し普通のことしてね。」
小春は首をかしげる。
「今日、普通じゃなかったですか?」
「全然普通じゃない。」
「そうなんですか?」
「うん。」
「でも後悔はしてません!」
満面の笑み。
美咲は肩をすくめて笑った。
(この子の恋、案外うまくいくかもしれない。)
そんな予感が、胸の中に静かに芽生え始めていた。




