第一話 入寮日
春風に揺れる桜が、女子寮の白い壁に淡い影を落としていた。
大きなキャリーケースを引きながら、花井小春は門の前で立ち止まる。
「……よし。」
胸いっぱいに息を吸う。
今日から高校一年生。
今日から寮生活。
期待と不安が入り混じったその表情は、すぐにいつもの明るい笑顔へ変わった。
門をくぐると、寮母が優しく手を振る。
「いらっしゃい。今日からよろしくね。」
「はい!よろしくお願いします!」
元気いっぱいの返事に、周りにいた保護者たちまで思わず笑顔になる。
初対面でも壁を作らない。
それが花井小春という女の子だった。
白峰学園高等学校
スポーツ専攻科、看護学科、普通科など複数の学科がある私立高校。
スポーツ専攻科と普通科は3年コース
看護学科は5年コース
同じ敷地内に中庭を介して、棟が分かれている。
花井小春は看護師になる夢を叶えるために
白峰学園高校 看護学科に入学した。
同時に学生寮での生活が始まった。
「わからない事があったら、何でも聞いてね。」
優しくニコリと微笑む寮母。
「はい!…あの…早速なんですが、抱き枕って持ち込んでも大丈夫ですか…?」
寮母は軽快に笑いながら
「大丈夫よ。好きな物持ってきなさい。ぬいぐるみ持ってきてる子もいるから。」
「ありがとうございます!!」
「お母さーん!持ってきてもいいってー!」
後ろから追いかけるように
残りの荷物を持ってくる小春の母。
「こんな大きなニンジンのクッションなんて
本当に恥ずかしくないの!?」
「全然!可愛いじゃん!」
2人のやりとりを見て
周りの保護者も寮母もクスクスと笑っていた。
二階
202号室
指定された部屋の前で一度制服を整え、小春はドアをノックした。
「失礼します!」
中では一人の女子学生が机に向かっており、
振り返ったその人は、小春を見ると柔らかく笑う。
「一年生?」
「はい!花井小春です!」
「私は看護学科二年の望月美咲。同室になるからよろしくね。美咲でいいよ。」
小春はぺこりと深く頭を下げた。
「よろしくお願いします、美咲先輩!」
「そんなに緊張しなくていいよ。」
「はい!」
返事だけは驚くほど大きい。
美咲は思わず吹き出した。
(元気な子だな。)
荷ほどきを終えた頃、館内放送が流れた。
『新入寮生はホールへ集合してください。』
「美咲先輩、ちょっと行ってきます!」
「はーい、いってらっしゃい。」
部屋を出ると、ちょうど隣の201号室から
同じく新入寮生が出てきた。
「あ!はじめまして。花井小春です。よろしくお願いします。」
「藤原麻衣です。こちらこそよろしくお願いします。新生活、不安なことばっかりだから…仲良くしてくれる?」
「こちらこそ!これからよろしくね!」
二人は並んで階段を下りる。
廊下には同じように緊張した一年生がたくさんいた。
ホールでは寮母が生活について説明する。
朝の点呼。
掃除当番。
門限。
消灯。
共同浴場の利用時間。
洗濯。
そして最後に、少しだけ表情を引き締めて言った。
「この寮は礼儀を大切にしています。」
「先輩への挨拶、上下関係、仲間への思いやり。それだけは忘れないでください。」
静まり返る会場。
一年生たちは真剣に頷いた。
小春も背筋を伸ばす。
「はい!」
説明会が終わり、小春は部屋へ戻ろうと廊下を歩く。
その時だった。
向こうからジャージ姿の集団が歩いてくる。
スポーツ専攻の学生たち。
鍛えられた身体。
短く切った髪。
肩にかけた大きなバッグ。
「あ、サッカー部。」
ちょうど通りかかった美咲が小さく呟く。
「三年生はすごく厳しいって有名なんだ。」
サッカー部は上下関係も特に厳しく、練習中は張り詰めた空気が漂う。
三年生はみんな体格がよく、無口な人も多いため、一般学生からは「怖い」「近寄りがたい」というイメージを持たれている。
「そうなんですか?」
「うん。特に先頭の黒瀬先輩。」
その名前を聞く前に、小春の視線は先頭の人物へ吸い寄せられていた。
高い身長。
鍛えられた肩幅。
短髪。
無駄のない歩き方。
笑っているわけでもないのに、目が離せない。
すれ違う瞬間、爽やかな柔軟剤の香りがふわりと漂った。
その人は前だけを見て歩いていく。
小春には気づかない。
ほんの数秒。
たったそれだけだった。
なのに胸がぎゅっと締め付けられた。
鼓動が速い。
息が浅い。
(……何、この気持ち。)
立ち止まったまま動けない。「小春?」
美咲が振り返る。
「どうしたの?」
小春は黒瀬の後ろ姿を見つめたまま、小さく呟いた。
「……好きです。」
「え?」
「今の先輩。」
美咲は目を丸くした。
「いやいや、今初めて見たよね?」
「はい。」
「名前も知らないよね?」
「今、美咲先輩が教えてくれました。」
「話したこともないよね?」
「ありません。」
「それなのに?」
小春は真っ赤になりながら、それでも迷わず頷いた。
「一目惚れしました。」
しばらく沈黙が流れる。
やがて美咲は肩を震わせて笑った。
「入寮初日に恋をする後輩、初めて見た。」
夜の食堂。
一年生たちは端の席に固まって座っていた。
二年生。
三年生。
学年ごとに自然と席が分かれている。
奥にはサッカー部のテーブル。
笑い声は聞こえるのに、近づきがたい空気があった。
「あそこ。」
美咲がそっと視線を向ける。
「真ん中にいるのが黒瀬先輩。」
小春は思わず見つめてしまう。
食事をしているだけ。
仲間と短く話しているだけ。
それだけなのに、どうしてこんなにかっこよく見えるんだろう。
「小春、ご飯食べないの?」
「あっ!」
箸が止まっていた。
「本当に好きなんだ。」
「はい。」
即答だった。
その返事に、美咲は少しだけ驚く。
軽い憧れじゃない。
この子は本気だ。
そんな気がした。
夜。
部屋の灯りが落ち着き、窓の外では虫の声が聞こえ始める。
ベッドへ飛び込んだ小春はにんじんの抱き枕を抱きしめた。
「どうしよう……。」
机で教科書を開いていた美咲が振り返る。
「何が?」
「黒瀬先輩がかっこよすぎました……。」
「まだ一言も話してないじゃん。」
「でも、かっこよかったんです。」
「見た目だけじゃ分からないよ。」
「分かります。」
「何が?」
「運命です。」
美咲は天井を見上げて笑った。
「そんなこと言う一年生、初めて見たよ。」
小春は照れながら枕に顔を埋める。
「明日、お話しできたらいいなって思います。」
「応援はするけどさ。」
「はい!」
「いきなり無茶はしないようにね?」
「はい!」
元気よく返事をしたあと、小春は少しだけ考えて言った。
「……でも、もし食堂で隣が空いてたら、座っちゃうかもしれません。」
「えっ。」
「だめですか?」
美咲は思わず吹き出した。
「小春、それ絶対騒ぎになるよ。」
「そうですか?」
「そうだよ。」
小春は首をかしげる。
その無邪気さに、美咲は心の中で苦笑した。
(この子、きっと何かやらかす。)
そしてその予感は、数日後、学校中を巻き込むことになる。
まだ誰も知らない。
寮で一番近寄りがたいと言われる三年生の隣が、この恋に一直線な一年生の特等席になっていくことを。




