第十八話 会いたかった先輩
文化祭が終わってからというもの。
小春は看護科の実習とレポートに追われる毎日だった。
朝早く病院へ向かい、夕方戻ってきても記録用紙と向き合う。
自由時間はほとんどない。
そのせいで、黒瀬と顔を合わせる機会も減っていた。
「疲れたぁ……。」
実習を終えた小春は、重たいリュックを背負って女子寮へ向かう。
白衣の入ったバッグはいつもより重く感じる。
玄関をくぐった、その時だった。
廊下の向こう。
スポーツバッグを肩にかけた黒瀬が歩いていた。
「あ……。」
一瞬、目が合う。
次の瞬間。
「黒瀬先輩ーっ!!」
小春は考えるより先に走り出していた。
「小春?」
ぱたぱたと駆け寄り、そのまま勢いよく飛びつく。
黒瀬は驚くことなく腕を広げた。
「おっと。」
ぽすん。
自然に抱き止める。
小春はそのまま黒瀬にしがみついた。
まるでコアラが木につかまるみたいだった。
「……。」
「……。」
廊下が静まり返る。
洗濯かごを持って歩いていた一年生。
掃除当番の二年生。
自販機へ向かう三年生。
全員が足を止めた。
「……見た?」
「見た。」
「飛んだ。」
「飛んだね。」
「受け止めた。」
「普通に受け止めた。」
呼吸が許す限り
黒瀬を香りを吸った小春は
ようやく我に返る。
「……あ。」
ゆっくり顔を上げる。
目の前には黒瀬。
近い。
近すぎる。
「す、すみません!!」
慌てて降りようとする。
「待って。」
黒瀬が静かに言う。
「暴れたら危ない。」
「は、はい……。」
結局そのまま数秒。
黒瀬は落ちないようにしっかり支えながら、小春が落ち着くのを待っていた。
やがてそっと床へ降ろす。
「実習お疲れ。」
その一言だけ。
小春は嬉しそうに笑った。
「会いたかったです。」
「うん。」
「すごく。」
黒瀬は少し照れたように視線を逸らす。
「同じ。」
その小さな返事に、小春の頬が真っ赤になった。
少し離れた場所。
奈央はスポーツドリンクを飲みながら、その様子を眺めていた。
「黒瀬先輩。」
「ん?」
「今、自然に抱っこしましたよね。」
「転んだら危ないけん。」
「飛びついてきたんですよ?」
「うん。」
「普通はびっくりします。」
黒瀬は少し考える。
「小春やけん。」
「またそれ!」
奈央は頭を抱えた。
「その『小春やけん』が特別なんですよ!」
周りの部員たちも苦笑する。
「もう本人だけ気づいてない。」
「完全にそう。」
その日の夜。
小春の部屋。
「美咲先輩!」
扉を開けるなり、小春が駆け込んでくる。
「どうしたの。」
「今日、黒瀬先輩に飛びついちゃいました!」
「……。」
「抱き止めてもらいました!」
「……。」
「しかも『同じ。(イケボで黒瀬の真似をしながら)』って!」
美咲は静かに机へ突っ伏した。
「もう付き合って。」
「え?」
「お願いだから。」
「えぇ!?」
「寮のみんなのためにも。」
小春は首をかしげる。
「まだそんな関係じゃないですよ?」
美咲は笑いながら顔を上げた。
「そう思ってるの、小春と黒瀬先輩だけだから。」
翌日。
食堂でその話題はすっかり広まっていた。
「昨日見た?」
「コアラ抱っこ。」
「見た見た。」
「小春ちゃん、一直線だった。」
奈央が笑いながらパンをかじる。
「たぶんこれから毎回やるよ。」
すると、その予想はすぐに当たることになる。
数日後。
実習帰りの小春は、寮の玄関で黒瀬を見つけると、ぱっと表情を輝かせた。
「黒瀬先輩!」
また走り出す。
そして何のためらいもなく飛びつく。
黒瀬も何も言わずに受け止める。
その光景を見た寮母さんは、ほほえみながら言った。
「今日も仲良しかい。」
周りの寮生たちも、もう驚かない。
「あ、小春ちゃん補給の時間だ。」
「黒瀬先輩も慣れたね。」
「日課になっとる。」
二人にとっても、みんなにとっても。
2人の「コアラ抱っこ」は、いつしか女子寮おなじみの、あたたかな日常になっていった。




